恋愛SF『レディランサー ドナ編』2章
2章 ダグラス
「どうぞ、おかけになって」
ドナ・カイテルはわたしをソファに座らせると、テーブルに用意されていたシャンパンをグラスに注ぐ。たぶん、最高級品だ。
しかし、わたしは食事時に、かなりワインを飲んでしまった。これ以上のアルコールは、まずい。
「いやいや、もう飲めないよ。そろそろ、宿に引き上げなくてはならないし」
宿泊の予約をしていたホテルは、別の通りにある。ジュンとエディは、そちらに落ち着いているはずだ。ジュンにも護衛チームが付いているから、特に所在確認はしていない。しつこく確認すると、
『親父は、あたしを信用してないの!?』
と怒り出すからだ。まったく、年頃の娘は難しい。
相変わらず洒落っ気はないが、ジュンも十六歳。そろそろ、親離れの時期なのかもしれない。最近のジュンは、上陸休暇中、常にエディを連れ歩く。というか、エディがいそいそ、ジュンに張り付いているのだが。
わたしが最初に、
『節度ある交際を』
と頼んだ通り、エディはあくまでも『同じ船の仲間』という立場を守ってくれている。だが、傍からは、似合いのカップルに見えることも間違いない。知り合いの船長たちからは、
『いい婿さんが見つかったじゃないか』
『《エオス》を任せて、楽隠居できるな』
と言われるようになってしまった……
「あら、出航は明日の午後でしょ。今夜はこのまま、この部屋に泊まって下さればいいのよ」
断れないうち、手にグラスを持たされてしまった。今日はどうも、ドナのペースに巻かれている。
考えてみたら、わたしは女性が苦手なのかもしれない。これまでは、ジュンがいたから、それを理由にして、女性から逃げていられただけか。
「そうはいかない。娘がいるので……」
と言いかけてみたが、やはり通用しなかった。
「あら、お嬢さんはもう大人でしょ。ちゃんと市民権を取っているんだもの。それに、司法局の護衛も付いているはずだし」
「それはまあ、そうなんだが……」
ドナはわたしの隣に座り、軽くグラスを合わせてきた。
「乾杯。再会を祝して」
間近でにっこりされてしまうと、やはり、形だけでも、グラスに口をつけることになる。
再会はいいのだが、どうもおかしい。ドナ・カイテルは、こういう女性だったろうか。大学の同窓生には違いないが、学部も違ったし、それほど親しかったわけではない。彼女と同じ研究室に友人がいたので、出入りする時に、挨拶したという程度。
卒業以来、二十何年も会わずにきたのに、この親しげな態度は何なのだ。もしかして、わたしが〝懸賞金リスト〟に載る有名人になったので、好奇心から、味見でもしようというわけか。
興味本位で近づいてくる女性は、たくさんいる。そのつもりになれば、毎週でも、違う女性と付き合うことができるだろう。だが、わたしはそういう女性たちのことは、礼儀正しく退けてきた。
わたしは死んだ妻を愛しているし、娘に言い訳できないような真似をするつもりもない。本気で恋愛するならともかく、遊びで付き合うのは無理だ。
だが、ドナ・カイテルは、そういう女性たちとは違うはずだ。学生時代はひたすら学業に打ち込んでいたし、卒業してからは、自分の事業に邁進してきた様子だし。既に地位も財産も築き、社会的には、わたし以上の成功者だろう。なぜ今になって、わたしに接近する必要がある?
わたしの気分を察したかのように、ドナは言う。
「警戒しているのね。わたしが違法組織に取り込まれて、あなたを暗殺するとでも?」
苦笑してしまった。違法組織の〝連合〟が、わたしの首に賞金をかけてから、もうずいぶんになる。わたしの友人が、体内に仕掛けられた爆弾で、吹き飛ばされたこともある。周囲の人々を巻き添えにして。わたしが負傷だけで助かったのは、単なる僥倖だ。
だから今も、司法局のチームが、わたしを幾重にも取り巻いている。ホテルのロビーでも、レストランでも、エレベーターホールでも、常に複数の眼が光っている。
「いや、そんな風には思っていない」
ドナ・カイテルは、懸賞金に釣られる小者ではない。違法組織の甘言に惑わされる馬鹿でもないだろう。
「鈍いのね、相変わらず……」
「?」
ドナは学生の頃も美人だったと思うが、当時はいささか、冷たい美人だった印象がある。何しろ秀才だったから、劣等感を刺激された男たちはみな、こそこそ迂回していたのではないだろうか。
今は落ち着きが増し、優雅で貫禄ある淑女だ。だからこそ余計、今夜の態度が腑に落ちない。
「あなた、覚えていないんでしょうね。学生時代、わたしが研究室の先輩ともめていた時、ちょうど、あなたが来たのよ」
「そうだったかな?」
「先輩は、わたしが彼の発見を横取りしたと思っていたの。もちろん、誤解だったんだけど。口論の挙句、わたしが殴られそうになった時、あなたが助けてくれたのよ」
「そう……だったかな?」
よく覚えていないが、ドナがわざわざ、でたらめを言う必要もないだろう。
「ええ、背中にかばってくれたわ。そして、先輩の腕を止めて、押さえ込んでくれたの。自分が立ち会うから、冷静に話をしろって仲裁してくれた。その後で教授たちが来て、誤解が解けたんだけど」
そう言われてみれば、そんなことがあったかもしれない。何しろ学生時代は、遠い昔になっている。あれから軍に入り、資金を貯めて船を買い、独立した船乗りになったと思ったらすぐ、マリカと出会い……力を合わせて違法組織の追っ手と戦い、生き延びられたのは幸運だった。ジュンという娘を得られたことも。
「わたしも悪かったのよ。世間知らずで、生意気で、他人はみんな馬鹿だと思っていたから。たぶん、日頃から、周囲に良く思われていなかったんでしょうね。でも、あなたがためらわず、わたしをかばってくれたから。それが、とても嬉しかったの」
まあ、当時の彼女はいかにも、馬鹿に用はない、という態度だったからな。
「それはきっと……男が女を殴ったら、まずいからだろう」
ドナは自嘲を込めて笑った。
「女扱いしてくれて、ありがとう。あの時も、今も、わたしはずっと、他人に嫌われたり、恐れられたりするばかりだから」
それを、今は悲しいと思っているのだろうか。
「そんなことは……ないだろう。きみの所の社員たちは、きみを尊敬しているよ」
それは、今日、短い会話の端々からも感じ取れた。社長命令は絶対であり、無能や怠惰は許されない罪であると。
「ええ、他社も恐れる鬼社長ってね」
まあ、それはそうらしいが。
「仕事なのだから、厳しいのは当たり前だろう」
おかげでカイテル製薬は、立派な中堅企業に育ったわけだし。自分でそう顧みられるようになっただけ、ドナもすいぶん丸くなったのではないか。
いつの間にか、ドナはわたしの横に、ぴったり付いて座っていた。ほとんど、膝をくっつけるようにして。そのうち、シャンパングラスを置いて、わたしの肩にもたれかかる。
「今日は本当に、会えて嬉しかったわ。わたしに時間をくれて、ありがとう」
「いや、何、久しぶりだし……」
やはり、誘惑されている……のか? 鬼社長は事実だろうが、甘い香りのする美女なのも間違いない。こちらも酔っているから、いささか危険だった。おまけにドナは、切ないような吐息混じりでささやく。
「気がついたら、あれから二十年も経っているのよね。いえ、二十五年かしら。ずうっと、仕事ばかりだったわ。私生活なんて、ないようなもの。帰ってきて、寝て、また起きて、出ていくだけ」
「だが、起業したオーナー社長なら、みんな、そんなものだろう」
「男はそれでも、家庭が持てるわ。奥さんが、世話をしてくれるでしょ。子供だって、育ててくれる」
いや、全ての家庭がそうとは限らない。
「うちの船医みたいに、子供をおぶって試験を受けた男もいるがね」
「ああ、その方は学生結婚なんですってね。うらやましいこと」
ドナが《エオス》の内情まで知っているとは、意外だが……
もしや、ドナは今になって、結婚すればよかったと後悔しているのか? しかし、結婚自体なら、幾つになってもできる。卵子は若い頃に保存してあるはずだから、子供だって作れるだろう。
そうか、夫や恋人ではなく、子供が欲しくなったのかもしれない。まさか、その相手として、わたしに白羽の矢を立てたとか?
それなら光栄だが……唐突すぎて、怖い気がする。なぜ、わたしなのだ? 違法組織に命を狙われている男なんて、厄介すぎるだろう。喜んで精子を提供する男なら、いくらでもいるはずだ。
この話題に深入りしたくなかったが、ドナは続ける。
「あなたなんか、電撃結婚だったものね。まさに、世紀のロマンスだったわよね」
「それはまあ……たまたま、妻と出会ったから」
マリカが仲間と共に違法組織から脱走してきて、わたしに衝撃を与えたからだ。そして、市民社会で生きることを選び、過酷な逆改造の処置を受けて、黒い悪魔から、白い天使に変貌した。
「そのあたりは、ニュースでも、映画でも拝見したわ。当時は、世界中の話題だったもの。でも、奥さまは、何年か前にお亡くなりになったのよね」
「ああ」
そのことについては、あまり話したくない。映画を作った同郷の友人は、わたしのせいで殺された。そしてマリカは、本来の寿命よりはるかに早く死んでしまった。あれほど努力して、市民社会に加わろうとしたのに。ジュンだって、マリカの最後に付き添って、どれほど苦しんだことか。
ドナも、わたしの気分は察してくれたらしい。
「それからは、お嬢さんだけが楽しみ?」
と話題をそらした。
「まあ……そんなところかな」
並みよりお転婆で強情で、危なっかしい娘だ。人からはファザコン娘と呼ばれているが、最近では……若い者同士、エディと遊ぶ方がいいのだろう。それで当然とは思うものの、寂しい気持ちは否定できない。
「でも、お嬢さんにも、恋人ができたんでしょ? 何かで見たわ」
エディのことだ。年齢も外見も中身も、ジュンと釣り合いのいい好青年。だがジュン本人は、エディを便利な相棒としか思っていない。色っぽい雰囲気は、まだないのだ。それとも、わたしには隠しているだけ、だろうか。
「そうなればいいが、まだ……」
ぎくりとしたのは、ドナの手がこちらの太腿にかかってきたからだ。そして、そろそろと撫でてくる。これはもう、限界だった。
「あー、わたしはそろそろ……」
「だめ。逃げないで」
ぎょっとした。ドナが大きく脚を開いてわたしにのしかかり、首に腕を回してくる。スリットの入ったスカートが大きくまくれて、薄いストッキングに包まれた脚が丸見えだ。もっと早く、退散すればよかった。
「ドナ……」
乱暴に振りほどくわけにもいかず、熱く柔らかいキスを受けてしまった。温かい掌が、わたしの顔をはさんでくる。唇が動いて、顔中にキスが続けられる。さすがに刺激が強い。もう長いこと、女性の感触から遠ざかっていたから。
だが、マリカを失った時の苦しみ、死に向かう彼女を見ているしかなかった日々、あんなことに二度と耐えられるとは思えない。再び、誰かと深い関係になるのは怖い。
「申し訳ない。まだ、妻のことを愛しているもので」
ドナの手を取って、静かに顔から離した。ドナは傷ついた目をしたが、それでも苦笑して、わたしの上から降りた。めくれたスカートを直し、ソファから離れて窓辺に行く。市街の夜景を背景にして、わたしに背中を向けたまま言う。
「よくわかったわ。わたしはあなたにとって、全然、女じゃないのね」
既に、あきらめをつけたような態度。そうするとまた、こちらは惜しかったような気分になる。
「いや、そういう意味ではなく……きみは美人だし、聡明だし……最高級の女性の一人だと思う……」
本当は、構わないのかもしれない。今夜限りのことなら。だが……そうならなかったら? ジュンはどう思うだろう。気にしないでくれるか。それとも、裏切りだと言って怒るか。
「でも、女としては見られないんでしょ。わかるわ。ずっとそうだった。男は、わたしみたいな女には興味を持たない」
「いや、全ての男がそうとは……」
「そうね。男性全員に当たったわけじゃないから。たまたま、わたしと接した男性のほとんどが、そうだっただけよね」
わたしが困っていると、彼女は決然とした様子で振り向いた。薄く微笑んでいる。
「いいわ、許してあげる。今日はただ、あなたに告白したかっただけ。あの頃から、ずっと好きだったのよ」
いきなりの直球。それこそ、驚きだ。というより、信じられない。卒業以来、何の音沙汰もなかったのだから。
いや、学生の頃だって、数えるほどしか話したことがない。どこに、何十年も思い続けるような要素があったというのだ。
だが、ドナは真剣な目をしている。
「わたしが馬鹿だったのよ。男なんて、必要ない。恋愛なんて、くだらないと思ってた。自分は社会で成功してみせる、一人で何でもできると思ってた」
ドナの顔は、もう笑っていない。むしろ、怒っているかのようだ。
「その通りよ。わたしは有能で、これと決めたことなら、何でもできる。事業に成功して、地位も手に入れた。お金もある。でも、四十を過ぎて、ようやくわかったの……このまま一人で死んだら、何のための人生なのかって。後悔した時、思い浮かんだ男は、あなただけだったのよ」
そして、真剣な顔のまま、わたしに歩み寄る。
「これから、わたしと真剣に付き合ってくれる可能性はある?」
まるで、決闘でも挑まれているかのようだ。ごまかしは効かない。
「それは、難しい……だろうな。わたしは船に乗っているし、きみは会社にいるだろう」
一時の遊びならともかく、真剣に、と言われては。
「ええ、でも、あなたが承知してくれれば、休暇を合わせることはできるわ。どこかで落ち合って、何日か一緒に過ごすことはできるでしょう?」
護衛チームをぞろぞろ引き連れて。世間の噂になって。
できなくはない。しかし、そこまでして会って、何を話す?
学生時代、もしわたしがドナを好みだと思っていれば、自分から口説いたはずだ。
それをしなかった。しようとも思わなかった。
当時のわたしは、もっとふわふわ、キラキラした女の子たちに魅せられていた。今のわたしになら、ドナの知性や意志力の魅力もわかるが、だからといって、休日に自分の生活圏を離れて、わざわざ落ち合おうとまでは思わない。それなら、娘と遊ぶ方がいい。
ジュンが他の男に奪われてしまうまで、たぶん、わずかな年月しか残っていないから。
「申し訳ないが、現在のところ、女性と付き合うつもりはないので……きみに限らず、他の誰とも」
ドナはふっと笑った。冷徹な秀才の素地を見せて。
「ええ、そう言われるのはわかっていたの。あなたには、お嬢さんが一番ですものね。でも、万に一つの希望を懸けて、確認してみただけ。はっきりしたので、迷いがなくなったわ。ありがとう」
では、あきらめてくれたのか?
その時、ドナの姿が傾いた。いや、傾いたのはわたしの方だ。ソファから転げて、床に崩れ落ちた。なぜか、起きられない。手足の力が抜けている。
「心配しないで。ただの睡眠薬だから」
飲み物に仕込まれていたらしい。だが、護衛チームがいる。体温や脈拍などに不審な変化があれば、この腕の端末を通して、警戒信号が発せられる。
ドナの手が伸びて、わたしの左手首から通話端末を外した。何かのケースに入れ、カチリと嵌め込む音。正常値を発信し続ける、というわけか。
おそらく、準備してあるのだろう、何もかも。ドナがすることなら、抜かりはないに違いない。わたしの拉致も、辺境への脱出も。懸賞金制度の管理者であるグリフィンに話を通してあるのなら、軍も司法局も役に立つまい。
「お休みなさい、ダグラス。何も心配しなくていいわ。あなたを違法組織に売るなんて、わたしは考えていないから」
では、何を企んでこんな真似を?
口を開く力は、既になかった。わたしは、泥のような眠りに引き込まれていった。
『レディランサー ドナ編』3に続く