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古典リメイク『レッド・レンズマン』6章 7章-1

6章 クリス

 パトロール隊最高基地は、地球からほど近い星系にある。銀河パトロール隊の主力が人類であるために、必然的に、周辺の人類居住星系を守りやすい位置に設営されたのだ。

 ここから数万の下級基地を統括し、パトロール艦隊の運用に目を配るのが、最高基地の務め。

 ファースト・レンズマンの娘にちなんで命名された惑星バージリア――一つの地球型惑星が、丸ごと基地だった。五十万人のパトロール隊員とその家族、彼らを支える一般市民、総勢五百万人あまりが暮らしている。

 その基地の中枢、通称〝丘〟と呼ばれる司令部ビルが、わたしの職場である。ビルというよりは、ありとあらゆる機能の詰まった、巨大な複合体と呼ぶべきだけれど。

 昼休み、緑の植え込みに包まれた高級将校用カフェテリアに立ち寄ったわたしは、そこで声をかけられた。

「やあ、クリス。こっちに来いよ。一緒に食おうぜ」

 大学時代の同級生、ヘンリー・ヘンダスンだった。がっしりした大男で、金茶の髪に薄青の目をした陽気なハンサム。

 見る者には〝男の中の男〟という印象を与えるし、本人もそれをよくわきまえている。大抵の女性は、ヘンリーに朗らかに口説かれると、抵抗できなくなるものらしい。彼はこれまでずいぶん、いい思いをしてきたはずだ。もうそろそろ、一人の女性に落ち着いてもいい頃合いだと思うけれど。

「ヘンリー、海賊退治から戻ってたのね。お疲れさま」

 彼はいま、一隻のパトロール艦の艦長である。大勢の艦長たちの中でも、エース級と言ってよい。

「ああ、修理休暇だ。二週間はいられるよ。もう、海賊船もほとんど現れなくなった。まだ生き残りはいるだろうが、穴蔵から出てこなければ、どうしようもない」

 その彼のテーブルには、知らない娘がいた。うら若い乙女で、二十歳そこそこではないだろうか。カールした長い黒髪、大きな黒い目、さくらんぼのような唇。白い肌に、深紅のドレスがよく似合う。

 左右の耳たぶには、涙滴型のイヤリングを下げていた。暗い青紫のオパールのような、不思議な輝き方をする石だ。

 やや気になったのは、左右の石のバランスが悪いからだった。片方は艶やかに輝いているのに、もう片方はやや輝きが鈍い。でもまあ、天然石なら、そっくりのものを二つ揃える方が大変だ。

「紹介するよ。イロナだ。イロナ・ポッター。売り出し中の歌手でね。素晴らしい声をしてるんだ。ダンスも絶品だよ。今度、コンサートに招待するから、きみもきっとファンになる。実はいま、口説いてる最中でね」

 ヘンリーは、ほとんど〝浮かれた〟状態だった。まあ、年に幾度かは新しい恋をしているらしいから、珍しくもないけれど。

 この女の子は、道理で、目立つ容貌なわけだと納得した。この美貌に加えて、本物の歌唱力があれば、すぐにでもスターへの階段を駆け上がれるのではないか。この最高基地にいること自体、成功の第一歩のようなものだ。

 この基地惑星の中心市街には、ホテルやレストランも数多く、高級デパートもあれば大劇場もある。民間人のダンサーや歌手、演奏家やマジシャンなどが、他星から長期契約で来ているのだ。

 保安面からの制約はかかるが、報酬がいいので、競争率は高いと聞く。もちろん、身元は厳重に審査されているし、しばしばレンズマンによる抜き打ちの心理検査も行われるから、ボスコーンのスパイなどが入り込む余地はない。

「それはそれは、お忙しいこと」

 大学時代の一時期、わたしはヘンリーと付き合っていた。少なくとも、他人からはそう見えただろう。正確に言えば、あまりにも熱烈に口説かれたので、断るのに時間がかかった、ということになるのだが。

 結局は彼も、わたしとは友達でいる方がいいと納得してくれた。もちろん、彼が他の女性と恋愛しても、結婚しても、わたしは笑って祝福できる。

「よろしく、ポッターさん。クリスよ」

 と手を差し出して握手した。

「初めまして、どうぞイロナと呼んで下さい」

 豊かな黒髪に縁どられた可憐な顔が、輝くような微笑みを浮かべている。この微笑みなら、どんな男もたちまち、溶けた蝋燭のようになるだろう。

「有名なマクドゥガル補佐官にお目にかかれて、光栄ですわ。ヘンリーから色々、お話は聞いていましたの」

 声も素晴らしい。天使のように愛らしく、それでいて深みも備えた、伸びやかな声だ。若いけれど落ち着きがあるのは、舞台慣れしているからだろう。

「クリスでいいのよ、クリスと呼んで。わたしもイロナと呼ばせてもらうから」

「そうですか。では、クリス。お時間のある時、週末にでも、わたしの宿舎の部屋に遊びに来てもらえませんか。たいしたものはできませんけど、夕食を作ります。ぜひ、ゆっくりお話を伺いたくて」

 わたしはヘンリーを見た。野暮はしたくない。すると彼は、たくましい肩をすくめてみせた。

「ぼく一人じゃ、絶対、部屋に入れてくれないんだよ。でも、誰か女性が一緒ならいいってさ」

 わたしは笑った。

「信用されていないのね」

「きみから説明してやってくれよ。ぼくは誠実な男だってさ」

「そんな嘘はつけないわ。イロナ、甘い顔しちゃだめよ。この人、これでずいぶんな遊び人なんだから。口説き文句を本気にしたら、後で泣くことになるわ」

「ええ、そのようですね……噂は聞いています」

 と慎重な微笑み。よろしい。ただ無邪気なだけではないらしい。

「噂が全部正確とは限らないけど、わたしの知る限り、七割くらいは信用してよさそうよ」

 ヘンリーは横を向いて、ぼやいてみせる。

「ちぇ。呼ぶんじゃなかった」

 依然として、その目は楽しげに輝いているけれど。

 わたしは、ヘンリーを責めるつもりではない。パトロール艦勤務の者が、たまの上陸休暇の時にせっせと遊び回り、出会う女性を口説くのは当然のこと。次に出航したら、生きて戻れる保証はないのだ。女性のパトロール隊員の場合は、買い物や美食、コンサートや旅行など、趣味に走ることが多いのだが。

「それはそうと、きみにプロポーズした勇敢な坊主はどうした?」

 テーブルに落ち着いてから、ヘンリーに厭な話題を持ち出されて、わたしは鼻白んだ。

「やめてちょうだい。あっちこっちで言われるのよ。もううんざり」

 アマンダたちが面白がって、触れ回ったおかげだ。彼女たちは、それであの坊やの後押しをしているつもりらしい。

 あの日、坊やが落としていった赤い薔薇の花束は、ベスとアマンダが拾ってわたしに押しつけた。

『花に罪はないでしょ』

 というわけだ。おかげでしばらく、ホテルの部屋で、花と顔を突き合わせて過ごすことになってしまった。薔薇は好きな花だけれど……いくら何でも、あの性急なプロポーズはいただけない。あの子は落胆のあまり、現実逃避しようとして、わたしを利用しただけではないか。

「しかし、いい度胸じゃないか。難攻不落のクリスに挑戦するなんて」

 ヘンリーはにやにやしている。そんな話題、横のイロナには興味ないでしょうに。イロナは少し困ったように視線を落として、でも、しとやかにデザートのアイスクリームを食べている。

「卒業寸前で養成所を追い出されて、自棄になっていただけよ。手近の女なら、誰でもよかったんだわ」

 とはいえ、デスプレーンズ運輸に就職したという手紙は来た。しかも、リックの推薦だという。

 リックは、何を考えているのだろう。単なる親切……とは思えない。あの子はあれで、仕事の鬼だ。

 キム坊やに、何かをさせようとしている……? レンズマンでもなければ、パトロール隊員でもない一般人だというのに。たとえ、きわめて優秀な一般人だとしても。

 デスプレーンズ運輸に、それほど重大な何かがあるというのか。恒星間輸送を行う企業なら、多かれ少なかれ、汚染はあるものだ……密輸、極秘の移動、逃亡の手助け……そしてボスコーンとの関り。わたしが聞いていないだけで、レンズマンの間では、何かの疑惑が共有されているのだろうか。

 まあいい。何かあれば、司令部に伝わってくるだろう。そうしたら、こちらも職務で動けばいいのだから。

7章-1 キム

 ――なんだ、仕事って、たいしたことないな。

 植民惑星ヘラスで、正式にデスプレーンズ運輸の新入社員となってから、三週間あまり。ぼくは基礎研修を受けたり、あちこちの部署で簡単な手伝いを経験したりしながら、普通人の暮らしに馴染もうとしていた。

 こんなに安楽で、いいのだろうか。

 何もかも、訓練生時代とは大違いだ。夜中に非常訓練で叩き起こされ、そのままマラソンに出されたり、道具もなしに砂漠に置き去りにされたり、鮫がいる海の真ん中に落とされたり、という地獄の訓練とは比較にならない。訓練中、幾度、大怪我をしたことか。

 オンボロ輸送船に乗せられて、バーゲンホルム機関の修理を繰り返しながら、やっとのことで港にたどり着いたこともある。それも、意志の疎通のできない異星種族を同僚にして。

 だから、命の危険がない民間人の暮らしは、極楽だ。クリスさんに手紙を書いたり、それに添える贈り物を選んだりする余裕もある。香水の小瓶とか、季節の花とか、高級チョコレートとか。

 クリスさんの趣味は、ベスさんとアマンダさんが教えてくれた。好きな色、好きな食べ物、好きな香り。

「クリスだって、いつまでも仕事だけの人生じゃ、よくないわ」

「応援したげるから、頑張りなさいよ」

 と励ましてもらえるのは、非常に有難い。二人が真剣にクリスさんの幸福を願っていることも、嬉しかった。

 もっともクリスさんからは、『手紙は無用』という簡潔な手紙が来ただけだ。しかも、ぼくからのプレゼントは、パトロール隊員の子供たちが通う小学校のバザーに出すという。これから何が贈られてきても、全てそのコースに送り出すと。

 ……まあ、千里の道も一歩から、だ。

 こうしてサラリーマン生活を続けるうちに、少しずつ前進すればいい。半年、一年と手紙を送り続ければ、いくらクリスさんでも、少しはぼくの誠意を認めてくれるのではないか。

 いずれまとまった休暇が取れれば、最高基地のある惑星バージリアまで、会いに行くこともできるかもしれないし。

 ぼくが住んでいるのは、惑星首都の本社の近くにあるアパートメントだった。朝、起きて、悠々と体操したり、ジョギングしたり、食事したりして、のんびり仕事に行き、昼休みはたっぷり二時間取れる。夕方には解放されて、遊びに行ける。

 首都の繁華街には、あらゆる娯楽が揃っていた。飲酒の制限もない。もちろん門限もない。夜遊びしても、必要な睡眠さえ確保すれば、翌朝はすっきり目覚め、仕事に行ける。

 その仕事だって、使い走りとか、資料の整理とか、社内会議の準備とか、社内報向けの写真撮影とか、全力の百分の一で出来ることばかり。

 まるで天国ではないか。

 ……と思っていたら、正式な配属が決まった。社長秘書室だという。しかも、雑用係などではなく、秘書の一人になるのだと。さすがに驚いて、人事部長に尋ねてしまった。

「社長秘書というのは、ベテランのする仕事ではないのですか」

 すると、ふくよかな中年女性の部長は、丸い肩をすくめてみせる。

「普通はそうですよ。でもあなたは、グレー・レンズマンのお声がかりですからね」

 なるほど。そういうものか。先輩には、ぼくがデスプレーンズ運輸の中枢に近づけることが、わかっていたのだろう。

 指示されて、ビルの上層階の社長室に向かうと、華麗なオレンジ色のドレススーツを着こなしたデッサ・デスプレーンズに出迎えられた。

「ようこそ、キム。今日から、ここで働いてもらうわ。あなたは、わたしの第三秘書です。首席秘書のシャンタルと、次席秘書のユエンから指図を受けてちょうだい」

 シャンタルは褐色の肌に黒い短髪の美女で、ユエンは小麦色の肌に長い黒髪の美女だった。二人ともうっすら微笑んで、

「よろしく」

「期待しているわ」

 とは言ったものの、明らかにお義理の台詞であって、あとは露骨に冷ややかな目を向けてくる。実力ではなく、縁故で入社した迷惑者、と思われているのだろう。まあ、その通りだが。

 一番に命じられたのは、アパートを引き払い、本社ビルに引っ越してくることだった。社長室のすぐ下の階にある個室で寝起きして、夜中でも明け方でも、呼ばれたらすぐ駆け付けて、社長の用を果たすのが職務だという。デッサもまた、日頃はこの本社ビルに住んでいるのだ。

 うーん、私生活がなくなるかもしれない。

 しかしこれは、スパイの任務からいえば好都合だ。早く任務を片付ければ、それだけ早くクリスさんの近くに行ける。そう思って、励むとしよう。

 すぐに理解したのは、秘書室こそが会社の中枢だということだった。各部門に部長たちはいるし、顧問も監査役もいるものの、彼らは単なる中継者に過ぎない。実際にはシャンタルとユエンがデッサ・デスプレーンズの手足となり、あらゆる業務を指図、監督している。

 輸送船団の運航、定期航路の客船関連の業務、新型船の設計と建造、新たな航路の開拓、人事、営業、広報、財務、総務。

 ぼくもまた、忙しくなった。内容は使い走りレベルだが、幅広い。社長の外出時の手配、業界の大物たちと会食をするレストランの予約、雑誌やニュースの取材対応、重役たちとの会合や、造船部門の担当者たちとの会議のための連絡調整。

 その他、お茶と言われればお茶を持っていくし(最高の茶葉を使った最高のお茶を淹れるべく、修業した!!)、買い物のお供と言われれば荷物持ちをする。肩を揉めと言われても、腰をさすれと言われても、その通りにする。

 もっとも、デッサ・デスプレーンズが、本社ビル内にある彼女の私室にぼくを呼んで、素手でマッサージをさせるのは、ぼくに対する厭がらせなのかもしれない。ぼくがどれだけ平常心でいられるか、面白がって試しているのかも。

 何しろ、その時のデッサは、ほとんど裸同然の姿なのだ。半透明の部屋着というのか、寝間着というのか、そういうものだけをまとった姿で、しどけなくベッドに寝そべっている。

「あのう、女性のマッサージ師を呼びますが……」

 ぼくが提案しても、艶然と流されてしまうだけだ。

「あら、あなたでいいのよ。ちょっと背中が凝っているだけだから。体重をかけて、押してちょうだい。そう、その感じ。リラックスできないと、よく眠れないのよ……」

 おかげでよく見られたのだが、思考波スクリーン発生装置は、太腿の内側に固定してあった。おそらくは特注品だ。そのスクリーンは常時デッサを守っているので、密かに監視しているレンズマンたちが、彼女の心を覗くことはできない。装置を充電のために外す時は、次の装置を反対側の脚に固定してからという用心ぶりだ。

「それで、難攻不落のマクドゥガル補佐官はいかが?」

 うつ伏せになり、ぼくに背中を指圧されながらそう言うのは、最高基地内の噂をよく知っているからだ。

「はあ、ぼくが贈ったものは、残らず小学校のバザーに回されているらしいです」

「可哀想にね……毎週、デパート巡りして、選んでいるのに」

 デッサはしゃらしゃらと、銀の鈴を振るように笑った。ぼくは甘い香りに耐え、絶妙な曲線美の誘惑に耐えるのがやっと。愛しているのはクリスさんだが、だからといって、他の女性に全く幻惑されない、というわけにはいかない。

「何なら、わたしに乗り換えてもいいのよ?」

 とプラチナブロンドの美女が悩ましく身をひねって微笑むのは、もちろん冗談だ。デッサが男として意識しているのはリック先輩だけで、ぼくのことなど、いつ潰しても構わない小虫くらいにしか思っていない。

「いえ、ぼくはまだ、クリスさんに望みをかけていますので」

「そう。まあ、報われない恋も、たまにはいいものよね。恋をしないよりはいいわ」

「そういう経験がおありですか?」

 と尋ねてみたが、むろん、デッサは動揺などかけらも見せない。

「これでも昔は、多感な乙女だったのよ。ご苦労さま。もういいわ。また明日ね」

 甘美な苦役から解放されると、ぼくは自分の個室に戻る。ホテルのシングルルーム程度の広さだが、眠るだけだから問題ない。運動は、社長専用のジムを使う許可を得ている。もちろん、デッサが使っていない時間に。

 ちなみに、シャンタルとユエンにも、ぼくと同じ階に個室があるが、そちらはホテルのスイート並みの設備を備えている。

 ぼくは大抵、朝の五時に起きて運動し、それからシャワーと朝食を済ませて仕事に出る。最後の用事が済むのは大抵、夜の七時過ぎだ。それから遊びに出かけてもいいが、外でのんびりする暇はない。質の良い睡眠をとらないと、翌日の能力が低下する。

 週末も、何らかの業務が生じることが多い。翌週の会議のための資料集めとか、接待の下準備とか、デッサの買い物のお供とか。彼女は何しろ、下着を買うのでさえ、ぼくに同伴を命じるのだ。おかげで、給料を使う暇がなく、貯金だけは着実に貯まっていく。

 もちろん、山のような仕事の合間に、社内の様子をできるだけ探ってはいた。しかし、新入りにわかることなど、たかが知れている。見られる資料を片端から見ても、あちこちで噂話に聞き耳を立てても、特に怪しい点は見つけられない。したがって、リック先輩に報告することもない。ぼくの監視役に付いているというレンズマンたちだって、きっと退屈しているだろう。

 ただ一つだけ、妙なことはあるのだが。

 それは、シャンタルとユエンの地位が、異常に高いことだ。普通、社内で権力を持つのは技術部の部長や、営業部や人事部の部長とかではないのか。

 しかし、あらゆる決定は中枢の女三人でなされ、それ以外の幹部たちはそれに従うだけ。前社長が死んでから、ずっとそれできているので、誰も疑問に思わないらしい。

 まあ、真の権力者はデッサ・デスプレーンズ一人だけで、秘書の二人は、お気に入りの側近という立場なのだろう。彼女は夫だった前社長の時代から、経営に口を出していたらしいから。

 その夫の死は、誰が見ても疑いのない不運な事故死だったということで、全財産は彼女が相続したのだ。それ以降、デスプレーンズ運輸の規模を数倍に拡大しているのだから、デッサの有能さがわかる。

(ぼくはどうだろう。そこまで有能だろうか)

 訓練生時代、自分はある程度優秀だと思っていたが、それは自惚れだったと思い知らされた。クリスさんに振り向いてもらうためにも、この任務は早々に切り上げて、金持ちになるべく努力しないと……あっという間に、老人になってしまうのではないか。

 気がついたら、サラリーマンになって、半年あまりが過ぎようとしている。母には何度か連絡して、平静に現状を報告し(もちろん、スパイだとは言えないが)、

「あなたが仕事を頑張っているなら、それでいいのよ」

 と言われている。内心ではもちろん、ぼくの予期せぬ変転を悲しんでいると思うが、口にすることは前向きだ。

「まとまった休暇が取れたら、一度、帰ってきてね。町のみなさんにも挨拶してもらいたいし、お父さまのお墓参りにも行ってほしいわ」

 改めて、墓前で報告することになるのか。期待をかけていた一人息子は、普通人として一生を送るのだと。

 天国の父は、どう思っているだろう? 自分のように、殉職する羽目にならなくてよかったと? それとも、雄々しく戦って死んでほしかったと?

 クリスさんにも毎週、手紙は出しているものの、もう返事は来ないから、読まれているのか、ただ捨てられているのか、わからない。こちらからデートに誘うなど、夢のまた夢だとわかった。社会の一部に組み込まれてみると、〝身分の差〟というものを自覚せざるを得ない。

 ぼくは下っ端の新入社員で、向こうはパトロール隊の中枢にいる人物。収入だって、桁が違う。ぼくがレンズマンになっていれば別だが、普通人の常識に立ち戻れば、

(ぼくがあの人にプロポーズなんて、お笑いだよな)

 と身に沁みてわかってしまう。あまりにも、釣り合いがとれない。

 ただ、それでも、あきらめようとは思えなかった。とりあえず、空に星が輝いている。手が届かなくても、星を見上げて、うっとりすることはできる。何も見えない闇夜より、ずっといいではないか。

  『レッド・レンズマン』7章-2に続く 

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