恋愛SF『ミッドナイト・ブルー グリフィン編』8章
8章 リアンヌ
馬鹿げている。
自分でそう思う。
わたしはかつての恋人を去勢し、死に追いやった女ではないか。そのことを、自ら宣伝材料にしたではないか。
おかげで辺境中から、男嫌いのアマゾネスと恐れられている。それがなぜ、たった一人の男を気にするのだ。
だが、わたしがどれだけ粗探しをしても、シヴァはまともな男だった。張議員が暗殺された時は、本気で怒っていた。犯人の学生たちは、いずれ本当に冷凍されてしまうだろう。
世間にグリフィンの名が知れ渡っても、シヴァ自身の私生活は質素なものだった。食事だけは人一倍食べるが、それも、肉体を維持するのに必要な分だけのこと。
服は、用意されているものを、交互に着るだけだった。普段着レベルのシャツとズボン、それに革のジャケット程度で、何の不満もないらしい。リナがデザイナー物のスーツなどを押し付けようとすると、そっぽを向く。
着慣れてくたくたになり、気を遣わないで済む衣類で十分、ということらしい。
性的な奉仕をしてくれるバイオロイド侍女は、欲しがらない。雑用は、心を持たないアンドロイド侍女で十分だという。
セレネやレティシアの誘惑も、依然、拒絶し続けていてる。リナがすり寄って甘えても、それに付け込むこともしない。
それどころか、リナを妹のように見て、躾けようとしているくらいだ。
毎日、憮然としたままジムで運動し、事務局から上がってくる報告書を読み、要人暗殺計画について、わたしと議論する。夕食の後も、夜中まで資料を読み込み、気になる点を確認し、調査させている。
ほとんど、仙人のような清貧さだと言える。
それで平気なのは、たぶん『成り上がり者』ではないから、なのだろう。最初から資産家の一族の中に生まれ、権力も財力も約束されて育ったから、そういうものに飢えていない。
それどころか、恵まれた環境を捨てて、犬だけを相棒にする暮らしを選んだ男。
仕事の上では、明快で論理的だった。しゃべる言葉に、嘘がない。というより、嘘をつくという、面倒なことを嫌っている。
そういう点、彼が監視している従姉妹のリリーによく似ていた。従姉妹たちの本当の名前はわたしも知らないが、コード名のリリーとヴァイオレットで用は足りるから、構わない。
リリーもまた、ハンター稼業の中、あちこちで衝突を起こす女だが、率直で悪意がないので、喧嘩した相手も、結局は彼女の言い分を認めてしまうらしい。
シヴァもまた、性格の素直さが隠せない男だ。年長のルワナには敬意を払い、若いリナのことは、戸惑いながらも可愛がっている。
「おい、仕事の時のスカートは、ミニじゃなくて、膝丈にしておけ」
「どうしてですか? わたし、ミニが似合うでしょ?」
「そういう問題じゃない。グリフィンの秘書として、威厳が足りないだろ」
「わかりました。ルワナさんみたいな、スリットの入った膝下のタイトがお好みなんですね!! じゃあ、明日からそうします!!」
「だから、違う。好みの問題じゃない。おい、ルワナ、こいつに秘書の心得を説明してやってくれ!!」
傍で聞いていると、笑いをこらえるのに苦労するくらいだ。
茜という娘を引き取った時も、こんな風だったのだろうか。それとも、もっと厳しく教育していたのだろうか。バイオロイドには、子供程度の基礎知識しかないのが普通だから。
リザードからの報告書では、初恋の従姉妹であるヴァイオレットにそっくりだったので、衝動的に娼館から買い取った、ということだったけれど。
シヴァが恋をしたら、どんな風になるのか、想像もつかない。わたしを見る時は眉をしかめ、口をへの字にし、警戒を隠さない男が、締まらないにやけ面になったりするものだろうか?
――気がつくと、わたしはシヴァを目で追っていた。どこか遠くを見るような横顔、広い肩、力強い指、無造作な歩き方。
そして、深みのある低い声。耳元で何かささやかれたら、きっと震えてしまうだろう。そんな機会、まだ一度もないけれど。
わたしより一回り大柄な男だが、重量型ではない。必要な筋肉はついているけれど、身長のせいで目立たないのだ。どちらかといえば、痩せている部類だろう。
ただ、最高水準の強化体であることは納得した。一度、竹刀を持って、リナの稽古相手をしている様子を見たからだ。
リナがどんなに打ちかかっても、むきになって体当たりしようとしても、シヴァは全て軽く受け流していた。リナは無邪気な娘に見えても、戦闘用の強化を受けているし、リザードの元で、かなり厳しい訓練を受けているのに。
わたしは学生時代、空手や剣道で段位を取っているし、軍に入ってからも稽古を積んでいたから、動きを見れば、他人の強さはわかる。自分がリナと戦ったら、勝てないだろうということもわかっている。
そのリナが、シヴァを相手にすると、まるきり子供扱いなのだから。
やはり、後からの実験的な強化では、遺伝子設計の段階から始まっている、根本的強化に届かないのだろう。
シヴァがアンドロイド兵士を相手に、軽いトレーニングをしているのも見た。彼は、わたしに見学されるのは厭だったろうが、ルワナに同行してもらい、
「きみの身体能力を見れば、リリーの身体能力を知る手がかりになる。正しい認識がないと、正しい作戦が立てられない」
と言って押し切ったのだ。
軽い稽古といっても、アンドロイド兵士が数体、シヴァの蹴りで吹き飛ばされて、修理工房行きになった。隣で見学していたリナも、自分には無理だと認めた。リナならば、武器なしでアンドロイド兵士を倒すことはできない。
しかし、それだけ強くても、意味がないとシヴァは自嘲する。
「最高幹部会には、昆虫採集の虫みたいに捕まったからな」
それは仕方がない。個人の強さと、組織の強さは別次元の話。
一度、わたしが相棒のショーティのことを尋ねたら、彼は憮然として、そっぽを向いた。何も話したくないらしい。わたしと会話してくれるのは、グリフィンの職務に関することだけ。それも、仕方なしの様子を隠さずに。
別に構わない。
わたしだって、彼がわたしを敵視するのは理解できる。
ただ、こっそり思うだけだ。あの広い背中にもたれたら、どんなに気持ちがいいだろう、と。
***
シヴァに会えるのは、週に何度かのことだ。ルワナの監督下で、グリフィン事務局が本格的に動き始めたので、わたしが口出しすることは、あまりなくなった。
大きな方針だけ、シヴァと協議して確認する。
わたしが《フェンリル》の紋章付きの車で、しばしばこの船――グリフィンの紋章付きの大型艦――に出入りするので、他組織では、グリフィンというのはジョルファの別名ではないか、という噂も生まれているらしい。
その噂は放置しておけ、とリザードは言う。〝連合〟の頂上付近の人物については、霧に包まれている方が都合がいい、と。
シヴァと向き合って、懸賞金リストの人物について話す時は、セレネとレティシア、ルワナとリナが同席するのが有り難かった。他人の目があれば、わたしは冷徹な女戦士でいられる。
たまたま彼女たちが退席してしまい、シヴァと二人で会議室に残されたりすると……途端に、会話に困ってしまう。
もし、わたしがシヴァの好きな映画や小説のことなど聞いたら、怪訝な顔をされるだろう。ましてや、子供時代のことなど聞けない。絶対、弱点を探ろうとしているのだと思われる。
室内に妙な沈黙が降りてしまうと、シヴァも居心地が悪いらしい。早く誰か戻って来ないかと、内心で念じているのがわかる。
前は信じなかったことを、今では信じられるようになっていた。シヴァは本当に、ハンター稼業の従姉妹たちが大切なのだ。だから、懸命にグリフィンの職務を果たしている。
それならば、引き取ってすぐに死なせてしまったバイオロイドの娘のことも、本気で大事にしていたに違いない。
シヴァがその娘のことを愛した分だけ、我々が憎まれるのは、仕方のないことだ。襲撃を指示したのはリザードであって、当時のわたしは、シヴァの存在すら知らなかったのだとしても。
ただ、それでこの先、いつまでもシヴァに嫌悪され続けるというのは……理不尽ではないか?
でも、だからといって、シヴァにどう話せばいいのだ? 過去のことはなかったことにして、我々に心を開いてくれと頼むのか? 今でも最高幹部会は、彼の親友を人質に……犬も人質と言うべきか……取っているというのに。
だめだ。
わたしが何を言っても、シヴァを怒らせる。わたしはあくまでも『彼のライバル』、『潜在的な敵』にすぎない。
わたしが今でも、リザードのことを警戒し続けているのと同じだ。温厚に見える彼の、芯の冷酷さは、わたしが誰よりよく知っている。命がけで直訴しなければ、わたしはとうに、違法ポルノの撮影現場で死んでいただろう。バイオロイドの女たちは、そうやって大勢、使い捨てられてきたのだから。
「グリフィンさま、お待たせしました」
リナがお茶のワゴンを押して戻ってくると、シヴァはほっとした様子で、気安くリナに話しかける。今夜は何が食べたいとか、後で格闘技の稽古をつけてやるとか、気晴らしのドライブに出ようとか。
彼が素顔をさらさない限り、行動は自由である。市街を走っても、《フェンリル》のマークを付けた車ならば、特に目立つこともない。わたしの部下たちが大勢、同種の車で動いているからだ。
シヴァの車がいったん《フェンリル》のビルに入り、地下の迷路を経由してから地上に出れば、部外者には誰が乗っているのか、わかりはしない。
「ジョルファさま、事務局との調整がつきました。この作戦でいけそうです」
セレネやレティシア、ルワナも戻ってきて、また議論の続きにかかる。
グリフィン事務局のオフィスは、この《ルクソール》の市街にあるが、そこに出入りしたり、通信で打ち合わせしたりするのは、ルワナやリナの役目だった。
シヴァが直接、事務局のスタッフに顔を見せることはない。声すらも聞かせない。必要ならば、合成音声を使う。グリフィンはあくまでも、謎の人物でなければならないからだ。
もしも本物のシヴァを見てしまい、彼の言動を知ってしまったら、誰も彼を、冷酷無残な悪魔とは思わなくなってしまうだろう。
***
するべきことが済むと、わたしはセレネとレティシアを置いて(彼女たちはまだ、シヴァにまとわりつくことに飽きていない)、先に市街地のオフィスに戻った。
移動時の護衛はレティシアの部下たちがするから、問題はない。今日のうちに済ませたい雑用や、決定するべき事項が残っている。
一般市民は信じないだろうが、違法組織の幹部は忙しいのだ。週に三日か四日しか働かず、たっぷりバカンスを取る中央の市民より、はるかに勤勉である。
思い切って部下に任せれば別だが、わたしのように、事業の隅々まで把握したいと思うと、丸一日、仕事から離れることすらできない。精々、たまに半日の休みを取るくらい。
夕食をはさんで、夜の九時まで、繁華街にあるオフィスで過ごした。それから車に乗って、十分ほどの距離にある拠点ビルまで戻る。
ここは、わたしの部下たちの宿舎になっている、円形のドーム型施設である。辺境では、男子禁制の女の城として知られている。
外郭は武装要塞そのものだが、中央部には広い円形庭園があり、季節の花が咲き乱れている。昼間は、その庭園に、半透明のドームから外光が降り注ぐので、芝生の広場で食事をする者もいれば、昼寝をする者もいる。木陰にハンモックを吊るして、読書する者もいる。庭園の一部にある、温水プールで泳ぐこともできる。
内情は、女子校の寮のようなものだ。外では冷然と振る舞う女たちも、ここに戻ると寛いで、仲間とキャアキャアやっている。
他組織の幹部に口説かれた自慢話をしたり、出先で出会った失礼な男について怒ったり、センスのいい衣装デザイナーや、シェフのいる店を見つけたと報告したり。
もしも彼女たちがシヴァを見たら、どんな騒ぎになるか、容易に想像がつく。みんな、いい男には飢えているのだ。だから、シヴァと接触するのは、セレネとレティシアだけで十分だった。彼女たちもその特権を守りたいから、シヴァのことは決して口外しない。
「お帰りなさいませ、ジョルファさま」
「お疲れさまです」
「ああ、ただいま」
すれ違う部下たちと挨拶を交わし、中心部の庭園を見下ろす、三階の私室に入った。上着を脱いでアンドロイド侍女に渡し、奥の浴室に向かう。
わたしは他の贅沢はしないが、浴室にだけは凝っていた。玉砂利の小道の中に飛び石を配し、緑の植え込みを作り、温泉地の露天風呂のようにしつらえてある。部屋を暗くし、天井に星空を投影すると、本物の露天風呂と変わらない。
入浴剤でミルク色に濁った湯に浸り、手足を伸ばした。今日も一日、無事に終わったわけだ。
組織はいつも通りに運営されているし、グリフィンの業務にも特に問題はない。暗殺志願者を二名ばかり援助しているが、ぎりぎりで暗殺に失敗するように仕組む予定である。
そう簡単に、市民社会の中核人物を殺させるわけにはいかない。市民たちが絶望したり、自棄になったりしてはいけない。
恐怖と希望。巧くバランスを取って、現在の体制を維持しなくては。
ミルク色の湯の中で、自分の腕を撫でた。皮膚はなめらかで、筋肉に支えられた張りがある。暦の上では四十歳を過ぎたが、リザードの部下になってから最新の不老処置を受けているので、最盛期の体力そのままだ。
強化体ではないが、何も不自由はない。頑丈な骨格と鍛えた筋肉は、そこらの男顔負けだ。子供の頃から、周囲の男の子たちに、ゴリラ女と呼ばれていた通り。
自分が可憐な美少女でないことを、たまに寂しいと思うこともあったが、おおむねは満足していた。同じ学校の少女たちには慕われ、頼られていたからだ。
サッカーで走り回り、空手や剣道を習った。体を動かすことが、単純に好きだった。深い考えのないまま、軍人を志した。そして、軍の中で出世しようとしていた。あの男に会うまでは。
お茶や食事に誘われ、花を贈られ、甘い言葉をかけられて、心底から驚いた。自分がまるで、女のように扱われるなんて。
でも、新鮮な驚きだった。優しく扱われて、初めて気づいた。自分が、女として飢えていたことに。
いったん男に甘える味を知ると、わたしは簡単に堕落した。その心地よさを、愚かにも、愛情と勘違いした。それは単なる、雌としての満足だったのに。
おかげで、高い授業料を払った。
地獄の二年間。
女としてのわたしを愛してくれた男はいなかったのに、あんな映画にだけは使われて。
いったん世界に撒かれてしまった映像は、もう消滅させることはできない。こうしている今も、世界のどこかで、誰かが、わたしが凌辱されている姿を楽しんでいるだろう。
つい、真っ暗な日々を思い出しそうになり、慌てて振り払った。本当に忘れてしまうことはできないが、普段は、意識の外へ飛ばしておく方がいい。
負の記憶に囚われると、魂が病み、衰えてしまう。
そうして、多くの女たちが死んでいった。映画の撮影現場で、あるいは娼館で。違法組織の日常の中で。
ほとんどの男たちは、女の犠牲を何とも思わない。それは辺境だけでなく、市民社会でも同じことだ。辺境で製作される違法ポルノは、主に市民社会で消費されるのだから。ただ市民社会では、男たちは女たちを恐れているから、上辺を繕っているだけのこと。
わたしは死なない。
生き続け、戦い続けてやる。
男たちに支配させておいたら、女は永遠に蹂躙されるままだ。
シヴァのことをこんな風に思うのも、ほんのしばらくのことにすぎない。彼には絶対、わたしの内心を悟らせない。これは、動物の欲望にすぎないからだ。男にすがりたい、甘えてみたい、絡み合って甘い声を上げたいなどと思うのは。
こんなものは、意志の力で押さえ込める。過去の大失敗を、二度は繰り返さない。
わたしの成功には、辺境の女たちの未来がかかっているのだから。
『ミッドナイト・ブルー グリフィン編』9章に続く
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