恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー ミオ編』5
9章 探春
紅泉たら、なんて馬鹿なの。鈍感の大間抜け。ミオがあれほど全身で訴えていることが、どうしてわからないの。あなた、ミオをうまく慰めすぎたのよ。
――と、いくら心の底で叫んでも、紅泉に届くわけはなかった。
紅泉には、何の悪気もない。ただ、女心というものが全然わからないだけ。無敵のハンターで世界の英雄、怖いもの知らず。はっきり言ってしまえば、おめでたい人。
ただ、その陽性の鈍感さに、わたし自身も長年、救われてきた。ミオのことで、紅泉を責めても仕方ない。ミオもやはり、紅泉のエネルギーの放射に暖められたいのだろうから。
こういう傷は、時間が経てば癒える、というものではない。ただ怖い、悔しいというだけではない。人類の半分を占める種族の正体に気がついて、絶望してしまうのだ。
彼らの優しさは上辺だけ。本音では、強姦を悪いことだとは思っていない。むしろ、当然の権利と考えている。
――俺たちがやりたいと言ったら、素直にやらせろ。四の五のぬかすな。減るもんじゃないだろ。
ただ、そう言ってしまうと、女性たちに嫌われるとわかっているから、表面を繕っているだけ。
市民社会の男たちが結婚を望むのも、女に甘えて暮らしたいから。老いていく母親の代わりに、新しい世話係が欲しいだけ。
そして、辺境の男たちはといえば、おとなしい女奴隷のハレムに君臨して、ご満悦。
そんな種族に用はない。わたしには、本物の騎士がいるのだから。
それはおそらく、あの事件の前から、そうだったのではないかと思う。あれはただ、わたしの気持ちを固めさせただけ。
紅泉はいつも、わたしに優しかった。早朝のジョギングのついでに、早咲きの季節の花を取ってきてくれる。白い梅の一枝。淡い紫の菫の何本か。香り高い百合の一輪。
雨の後で、森の散歩道がぬかるんでいる時は、靴が汚れないようにと、わたしをおぶってくれる。
泥に汚れた警備犬が、尻尾を振って寄ってきた時には、わたしを背中にかばってくれる。
紅泉が小悪党相手に暴れすぎ、《ティルス》から追放処分と決まった時も、いずれはそうなると覚悟していたから、すんなりついて行くことができた。
紅泉には、一つの都市では狭すぎるのだ。まさか、そのままハンター稼業に突入するとは思わなかったけれど。
いつか、どこかで戦いに負けて死ぬかもしれないけれど、それでもいい。一緒に生きることの次にいいのは、一緒に死ぬことだから。
あんな小娘が、わたしたちの間に割り込めるはずはないのだ。この休暇のうちだけ辛抱すれば、次の仕事で別の星へ行くのだから。
***
翌日は、海へのドライブだった。十時頃、ミオを家の前で拾い(彼女はその前に、急いで病院に行ってきたらしい)、紅泉はレンタル車を幹線道路に乗せる。
ミオの好きそうなドライブコース、ミオの好きそうなレストラン。わたしは控えめに微笑み、紅泉がミオを手漕ぎのボートに乗せてやるのを、岸から黙って見守った。
おまけに紅泉ときたら、海岸で手頃な流木をみつけると、ミオにウィンクしてから、それを手刀で叩き折ってみせたのだ。
どうして、そういう不用心なことをするの。岩を割らなかっただけ、まだましだとしても。
でも、ミオはそれを空手の技と思ったようで、拍手して喜んでいた。
「すごい、サンドラってやっぱり強いのね」
「ま、それほどでも……あるかな」
確かに空手の技術もあるけれど、それは、強化体という土台があってこそ。ミオにはそこまで見抜く力はないとしても、余計な手掛かりは与えない方がいいのに。
その晩、レストランで夕食を済ませた後、ミオを家に送り届けてから、わたしたちはホテルに戻ってきた。鈍い紅泉もようやく、わたしが表情を繕っていることに気がついたらしい。
「どうしたの、疲れた? 連日、外出してるからなあ」
と心配してくる。あなたと二人なら、どんなにか楽しかったでしょうね。今日は一日、ミオが紅泉の腕にすがりついて、可愛らしくはしゃいでいた。まるで、いつものわたしのように。
それがわかるから、自己嫌悪が生じる。わたしはいつも、従姉妹の立場を利用して、最大限、紅泉の優しさを楽しんでいるのだ。
わたしが張りついていなければ、紅泉にも、とうに恋人ができていたかもしれない。ミカエルだって、結局は、わたしのために身を引いた。
ただ、ミオは女の子だから、告白されたところで、紅泉は戸惑うだけだろう。
だから、わたしもずっと従姉妹の立場でいるのだ。それが唯一、紅泉の側にい続ける方法だから。
もし、わたしが真剣な告白などしたら、紅泉は驚いて後退るだろう。いくら能天気でも、困り果てるに違いない。悩んだ挙句、
『あのう、それで、どうすればいいの?』
と尋ねてくるだろう。頬や額にではなく、唇にキスしてほしいの、と言ったら、どんな顔をするだろう。舌を入れて、などと言ったら、唸って頭を抱えてしまうかも。
それでも、たぶん、努力してキスしてくれる。これまでも、恋人のふりで他の男性を追い払う必要があった時は、そうしてくれたから。
でも、紅泉自身はそんなことをしても、楽しくも面白くもないだろう。わたしが調子に乗って、抱いてほしいなどと言ったら、ますます困り果てるはず。
やはり、努力して抱いてくれるかもしれないけれど、内心ではきっと、うんざりするだろう。本当は自分こそが、王子さまに抱いてほしいのだから。
こんなことをずっとさせられるくらいなら、離れて暮らす方が楽だ、と感じるに違いない。
紅泉に敬遠されるようになってしまったら、わたしが耐えられない。休暇は別々に過ごそうなどと言われたら、もう最後。
だから、このまま従姉妹同士でいる方がいいのだ。そうすれば、一緒にお風呂に入ってもらえるし、ベッドで全身マッサージもしてもらえるし、嵐の晩には一緒に眠ってくれるのだから。
「いえ、楽しかったわよ。でも、男性に寄ってこられたのが不愉快だったの」
今日もまた、一人で海岸にいる時、通りすがりの男性に声をかけられた。ミオに怪しまれたくないので、虫除けのナギを同行できなかったのだ。外見は優雅な美青年でも、事務的な受け答えしかできないお人形だから、五分も会話させたら、本物の人間ではないと悟られてしまう。
すると紅泉は考える様子で、やがて、
「一緒にお風呂に入ろうか」
と提案してきた。わたしは嬉しくて、つい顔がゆるみそうになるけれど、努力してさらりと言う。
「そうね。ちょうど、背中を流してほしかったの」
もちろん紅泉が、全身を洗ってくれるのを知っているから。さすがに何箇所か、遠慮して触れない場所はあるけれど、あとは首もお腹も、膝の裏も、太腿の内側も、足の指の間も、愛用の海綿で丁寧にこすってくれる。
わたしもお返しに、紅泉の全身を洗う。小さい頃から一緒の従姉妹だからこそ、得られる特権。
浴槽は広く、一緒に浸かって、なお余裕があった。たっぷりのお湯に、薔薇の香りの入浴剤を入れ、泡立てる。
「おいで」
と紅泉が言ってくれるのに甘えて、頼もしい膝に乗った。すると、旅の荷物にいつも入れている大きな海綿で、肩や腕をこすってくれる。泡とお湯の中で、肌が触れ合うのが気持ちがいい。わたしの人生の中で、一番、天国に近い時間ではないかしら。
本当は紅泉の首にしがみつきたいけれど、それをしたら驚くだろうから、お母さんに洗ってもらう子供のように、膝の上でじっとしている。たまに、くすぐったくて、身をよじってしまうことはあるけれど。それも快感。
「はい、交替」
と言うと、海綿を渡してくれた。わたしはこれで公然と、紅泉の肌触りを楽しめる。首筋から背中、腕、脚、全てわたしの好きに洗い立てられる。
頑丈な骨格を包む強靭な筋肉は、まるで猫科の猛獣のよう。傷一つない、なめらかな小麦色の肌は、お湯の熱で上気して、薔薇色を含む金色に輝いている。
世界で一番美しい、生きた女神。
背が高くて力強いけれど、男性と違うのは、豊かな胸と、繊細な指を持っていることだった。爪はいつも短く切っているけれど、健康な桜色に輝いている。いざとなれば、素手で戦闘用のアンドロイドを倒すこともできる人だけれど、こうしている時は、何でも、わたしの思うまま。
わたしが向こうを向いて、と言えばそうする。腕を上げて、と言えばそうする。膝を立てて、と言ってもそうする。わたしは自分が紅泉を独占していることが嬉しくて、隅々まで時間をかけて磨き上げる。
この美しさを知っているのは、世界でわたし一人だけ。
よその誰かになど、永遠に見せたくない。
それに、たぶん、そんな機会はもうないのではないか。わたしがああして、ミカエルを追い払ってしまったからには……
「ちょっと待ってね、これをずらすから」
紅泉は両手首の腕輪を解除モードにして、少し浮かせた。わたしはその隙間から、手首の皮膚をこする。睡眠中でも、紅泉は超切断糸入りの腕輪を外さない。市民社会では、当局の許可を得た銃でも、人目を引かずに持ち歩くのは厄介だけれど、腕輪なら目立たない。
「そういえば、ミオに不思議がられたよ。なんで、両手に端末をはめてるのかって。訓練用だと言っておいたけど」
紅泉は左手でも超切断糸を使えるけれど、やはり右手で振るう方が確実だという。
「女の子は鋭いから、用心してね」
「うん、わかってる」
わたしの言葉には、ミオとあまり親しくならないで、という願いが込められていたのだけれど、もちろん紅泉には通じない。ただ、ハンターという身分を悟られないためと考えている。
自分の力は、誰かを助けるために使うのが当たり前と思っている単純さ。その優しさを肌で感じたから、ミオも癒されたのだろう。
わたしも好き。大好き。愛してる。
時々、首にすがりついて、そう叫びたくなる。それをこらえているのは、紅泉を失いたくないから。
でも、ミオにはそんな遠慮はない。もしかしたら、明日にでも、紅泉にすがって訴えるかもしれない。わたしを恋人にしてくれませんか、と。
ミオ編5 10章 パーシス
ミオが帰ってきた。
家の前で車から降りて、おやすみの挨拶をしているのが、ぼくの部屋の窓から見える。車が去っていくのを、いつまでも見送っているのもわかる。それからため息をつき、玄関に消えていく。
ぼくはいつものように、何気ないふりでミオの家を訪ねた。すぐ斜向かいに住んでいるので、子供の頃から、互いに気安く出入りしているのだ。
今ではタケルとの仲が公認なので、家族同然である。ぼくがミオの家で昼寝していても、誰も何とも思わない。
「お帰り、遊びに行ってたの?」
「あ、パーシス、ただいま」
明るいマスカット色の遊び着姿のミオは台所にいて、まだ上気した顔をしていた。黒い瞳がきらきら光り、クリーム色の肌がしっとり潤っている。つい数日前まで、悄然としていたのが嘘のようだ。打撃から回復するには、もっと長くかかるだろうと思っていたのだが。
「タケルはまだ学校みたい。きっと遅いわ。また新しい機体でしょ」
「ああ、最近、その話ばかりだよ。泊まり込みかもしれないね」
タケルがそうしてエンジニアとしての技量を育ててくれることは、ぼくにとっても望ましい。先行き、辺境で、ぼくの片腕となってもらうつもりなのだから。
あの子に関しては、もはや裏切りの心配がない。何年もかけて、愛情の〝仕込み〟をしてきたからだ。
「いま、お茶を淹れようとしてたの。あなたも飲む?」
「ああ、嬉しいな」
マグカップに熱い紅茶をもらい、ぼくらは調理テーブルの周りの椅子に腰かけた。ミオの両親も留守なので、話し込むには都合がいい。
「今日は、いつにも増して美人だぞ。さては、新しいボーイフレンドだな」
ぼくがからかう顔で言うと、ミオは正直に頬を染めた。
「そんなんじゃないわよ。お友達ができただけ」
やはり、そうだ。この変化は、恋愛によるものとしか解釈できない。
「ハンサムでかっこいい友達だろ?」
「違うわ。女の人よ」
「へえ?」
照れた顔をしながら、ミオは話してくれた。サンドラ・グレイという女性のことを。隠そうとしても、隠せない喜びが溢れている。
「私立探偵とは、かっこいいな。紹介してくれよ」
「あら、そんなこと言っていいの。タケルに言いつけちゃうから」
という態度も弾んでいる。
「う、いまのは撤回する。聞かなかったことにしてくれ」
とぼくは両手を上げた。
「いや、でも、別に不埒な意味じゃないよ。純粋に、知的好奇心なんだから」
ミオはくすくす笑い、ぼくが聞きたいことをあれこれ話してくれた。彼女の助手をしているという従姉妹のことも。
「鉛入りの腕輪だって? すごいなあ」
さりげなく質問をはさみ、必要なことは全て聞き出す。ミオの周囲で起こることは、把握しておかなければならなかった。ミオとタケルの姉弟は、ぼくの最初の実験台なのである。
いくらぼくに研究者としての土台があっても、辺境からネット経由で買った技術情報は、試行錯誤を繰り返さなければ、実際に使えない。
ミオの元気がなくなり(前の数回の〝お務め〟の時もそうだったが)、マレーネの姿がモデルクラブから消え、モデルではなさそうな男女が慌ただしくクラブに出入りしたことで、ぼくはこの《ベルグラード》での商売の失敗を悟った。
《テンシャン》の時と同じだ。どの娘かが疑惑を持ち、病院か警察に行ったのかもしれない。
もちろん、ぼくの存在が捜査線上に浮上することはない。どちらの場合も、実行犯に選んだ者は、ぼくの姿をまともに見ていないのだから。
《テンシャン》で使ったのは、相手を探している同性愛の男。モデルクラブの従業員の中で、私生活に隙がある者を選んだのだ。込み合った特殊なバーの中で声をかけ、個室に連れ込んだ。他にも大勢、連れ立って個室に籠もる連中がいるから、店側も気にしない。個人的な交際は、犯罪ではないのだ。
そいつに薬を盛り、深層催眠用に作った特殊なヘッドセットを使い、そいつの頭に、何をするべきか植え込んだ。そうして〝種蒔き〟が済んだら、あとは一切、何もしない。
何年かかろうと、指定した辺境の口座に入金があるのを待つのみ。入金がなければ、その種子は発芽しなかったものとして、あきらめるだけのこと。
《テンシャン》の場合は、うまく芽吹いた。売春組織が活動し始め、利益を生んだ。枯れた後でも、ぼくが種蒔きをしたことは悟られていない。法律上、民間の警備システムの記録は一年で消去される。誰と誰が同じ個室に消えようと、それまでだ。
たった一度、旅行者として《テンシャン》を訪れただけのぼくは、おそらく、容疑者リストにすら載っていない。
種蒔きはあと四箇所、別々の惑星でしたが、収穫までたどり着いたのは、他にはこの《ベオグラード》と《アデレイド》のみ。
だが、かけた手間からすれば、非常に効率的な商売だったといえる。ぼくは丸々、他人の労働を搾取したのだ。
マレーネの場合は、元々、強い野心を持っていた。この自分の美貌が、このまま朽ち果てることなど許せない、という女。ただ、自分一人では、何をどうしていいやらわからない。野心に見合うだけの頭脳がないのだ。
マレーネはとりあえず、モデルとして売れているうちに、資産家の男を捕まえるつもりだったらしいが、ことごとく失敗している。それは当然だろう。男を獲物としか見ない欲深女になど、まともな男が惚れるはずない。
ミオから聞く話で、マレーネに目をつけたぼくは、遠くから彼女の日常を観察し、朝のジョギングに目をつけた。ある朝、人気のない公園で待ち伏せし、通り道のベンチに豪華な薔薇の花束を置いておいたのだ。マレーネ様へというカードをつけて。
自分の崇拝者からだと思った彼女は、安心して薔薇の香りを吸い込んだ。そして、揮発性の麻酔で朦朧としたところにぼくが通りかかり、肩を抱いて車へ連れ込んだ。
直接の接触はこれ一回。公園の警備モニターの記録も、やはり一年で消去される。
マレーネはぼくの示唆に従って知り合いの医師を引き込み、必要な薬品や機材を用意させ、モデル仲間にキーワードを埋め込んでいった。他星に種蒔きをした場合と違って、同じ首都圏内なら、途中経過をそれとなく観察できる。
妻を失った寂しい老医師は、マレーネの誘惑に勝てなかった。また、平凡なセックスに飽きていた資産家も、彼女の企みに参加した。そして、同様な願望を持つ裕福な男たちを、次々と誘い入れていったのだ。
ミオも犠牲者の一人となったのは、予測の範囲内。マレーネの裏口座の資金は、あらかた別口座に移してある。司法局の手は届かない。
だが、残る《アデレイド》の組織も、いずれ露見する。今のうち、タケルを連れて辺境に脱出するか。
莫大な金額ではないが、とりあえず、そこそこの資金は蓄えられた。まだ続けられるなどと欲をかいたら、いつ何時、容疑者に数えられるかわからない。たとえば司法局が、被害者の知り合いを全員、薬品尋問にかけていく可能性もあるのだ。
公開捜査にならない限り、一市民には、当局の動きはわからない。本当は明日にでも、レンタル船で脱出した方がいいかもしれない。
ところが、サンドラという女性の話を聞くうち(どうやらミオは男に懲りて、女を好きになったようだ)、ミオがおかしなことを言い出した。
「ねえ、怪我の治りが特別に早い人って、いるのかしら」
一昨日、木の枝にひっかけたサンドラの傷が、昨日見たら、跡形もなかったというのである。
「もちろん、たいした怪我じゃなかったけど、でも、血が出たのよ。わたしの記憶がおかしいのかしらと思って、しばらく悩んでしまったわ」
閃くものがあった。強化体というのは、怪我をしても、常人の何倍も治癒が早いという。おまけに、長身の大食い美女と、小柄なおとなしい美女の組み合わせ。事件の被害者であるミオを訪ねてきたタイミング。私立探偵というのも、いかにもの偽装だ。
しかしまさか、伝説のハンターが、売春組織程度で出てくるのか。ぼくの考えすぎではないのか。
だが、もしも《テンシャン》の事件との関連を疑われているのなら。司法局としては当然、違法組織が黒幕だと思うだろう。
実際には、ぼくは違法アクセスで、洗脳や深層暗示に関わる幾つかの技術をばらばらに買っただけで、一つの組織に深入りするような真似はしていないのだが。
もしも本当に〝リリス〟が乗り出してきたのなら、一千億クレジットの賞金が、目の前にぶら下がっているようなもの。
正直、目がくらむような大金だった。下種な男どもから金を集めても、精々が数億クレジット。一千億の資産があったら、幾つもの基地を作り、艦隊を配置し、十分な防御を固めることができる。
いや、なまじ固定基地など作らない方がいいかもしれない。艦隊と資金を握っていれば、いくらでもできることがある。このまま見過ごすのは、あまりにも惜しい。
「それはね、ミオ」
ぼくは気軽な笑顔で言った。
「ミオだって、何かで青あざをこしらえた時、そのままファッション・ショーには出ないだろう。何か塗って、隠すんじゃないのかい」
「あ、そうか」
ミオは単純に納得した。可愛い娘である。
「そうよね、それだけのことなんだわ。わたしったら、悩んだりして、馬鹿みたい」
何度も記憶の混乱があったので、ミオは自分に自信が持てなくなっていたのだろう。
さて、何とかその二人に近づいて、本物かどうか確認しなくては。もし、両腕の腕輪に、映画や小説の通り、超切断糸が仕込んであるなら、近距離からの攻撃は不可能だ。
遠距離からの狙撃か、爆発物。
だが、そんな武器をどう手に入れる?
時間があれば、材料を集めて、自作することは可能だ。しかし、〝リリス〟がいつまで、ミオの近くにいてくれるか。おそらく、マレーネ周辺の人物を調べているのだろうが、他星でもっと大きな事件が発生したら、そちらへ飛んで行くだろう。
「ミオ、よかったら、サンドラさんたちを、うちの別荘に招待したら」
そう提案すると、ミオは笑顔で手を打ち合わせた。
「それ、すてきだわ。使わせてもらっていい?」
「もちろん。お祖父さまにはぼくから断っておくから、いつでもいいよ。ぼくもタケルと行くから」
ぼくの祖父の別荘が、北へ百キロばかり行った湖のほとりにある。裏の山から温泉を引いているのが自慢で、親戚や友達を集めてパーティをすることもある。あそこなら、何をするにしても、邪魔は入らない。
「さっそく明日、誘ってみるわ。ありがと、パーシス」
ミオが上機嫌で、頬にキスしてくれた。
「きみが元気になって、嬉しいよ。最近、ちょっと暗かったからね」
と微笑むと、ややしんみりした顔をする。
「わたし、心配かけていたのね。ごめんなさい」
いい子だ。露ほども、ぼくを疑わない。別な言い方をすれば、愚かということだが。
「もう家族だろ? きみが笑っていてくれないと、ぼくも寂しい」
そう言ったら、涙ぐんでいる。ぼくがミオを深層暗示の実験台にして、何度も〝味見〟していると知ったら、どんな顔をするか。
もちろん、それはミオが自発的にボーイフレンドを作り、無事に初体験を済ませた後のことである。いくら前夜の記憶が残らなかろうが、コンドームを使おうが、処女に何かしたら怪しまれるに決まっている。
ぼくは肌にキスマークを残したり、ベッドに体毛を残したりするへまはしなかった。用が済んだ後はきちんと事後処理を行い、痕跡を残さず引き上げた。
翌朝、さりげなく様子を見たが、どの時も、ミオは何も怪しまなかった。だから、この商売はいけると踏んだのだ。
夢見心地のおとなしい女。
これには需要があるはずだった。傷痕を残すような真似をしなければ、縛っても、輪姦しても、それを撮影してもいい。
紳士面している男たちも、陰ではこっそり、過激な違法ポルノを集めているのだ。そういう行為を『実際に試せる』となったら、誘いに乗る者は必ずいる。話を聞いて後込みするようなら、その時こそ、酒と薬を飲ませて記憶を飛ばせばいいのだから。
(もし本物の〝リリス〟なら……一世一代の大勝負だな)
無敵とは思わない。伝説というのは、しばしば誇張されるもの。『辺境では役立たず』と言われる司法局としては、自慢できるスターが欲しかったのだ。それで、あえて〝リリス〟を祭り上げた面がある。
あの別荘でなら、〝リリス〟を殺せるだろう。強化体とはいえ、不死身ではない。
問題は、その後の脱出だ。危険はあるが、〝グリフィン〟に渡りをつけてみるか。懸賞金制度の元締めとして知られる、正体不明の人物。
裏のネットへのアクセス自体は簡単だ。ぼくの情報が本物と判断すれば、〝グリフィン〟の方から援助を申し出てくるだろう。
ミオ編5 11章 ミオ
夜中、わたしは自室のベッドの上で、いつまでも寝返りをうっていた。サンドラはおそらく、わたしが失恋でもしたのだと思っている。だから、遊んでくれて、笑わせてくれた。おかげでこの三日、とても楽しかった。
でも、これで終わりなんて。
さすがに図々しいと思って、明日の約束は取り付けられなかった。サンドラはともかく、ヴァイオレットさんの視線が、わたしを歓迎していなかったから。
もちろん、表面的にはにこにこしていたけれど、
(あまり甘えないでね。今だけの関係なんだから)
という距離の取り方だったもの。
確かに、サンドラが故郷の《ビザンチウム》に帰ってしまったら、あとは会う必然性がない。用らしい用がないのに、繰り返し通話するのも変。探偵事務所を訪ねては行けるけれど、何て言って訪ねるの。
感謝しているから。友達になったから。
それだけでは、たまにしか会えないわ。いっそ、助手にしてくださいとでも?
もしもそんなことができたら、とベッドで転がりながら空想した。毎日側にいて、サンドラのためにお茶を淹れたり、資料の整理をしたり、一緒に買い物したり、庭の手入れをしたり……冬の晩、暖炉の前で、一緒にお酒を飲んだりできたら。サンドラの肩に、頭をもたせかけて。
わたしは火のように思える吐息を洩らし、暗がりで起き上がった。
サンドラが悪いのよ。いくら冗談でも、唇にキスするんだもの。
それに、手慣れていたわ。きっと、いつもヴァイオレットさんにしているのね。まさか今頃、本当に『いいコト』をしてたりなんか。
自分で愕然とした。まだ安定剤を飲んでいるのに、胸がどきどきする。
いや、そんなの。
だめ、やめて。
でも、頭に浮かんだのは、わたし自身がサンドラの下になっている姿だった。そして、甘く唇を吸われている。胸を優しく揉みしだかれて、脚の間に脚を入れられて。
苦 しくてじっとしていられず、バルコニーに出た。ひんやりする空気を胸の底まで吸い込めば、少しは頭も冷えるかも。
秋の空は、夜になっても、透明な青みを帯びていた。わずかな雲が夜目にも白く浮かび、たくさんの星が競い合うように輝いている。
手摺りにもたれて、しばらく涼んだ。これでもたぶん、薬のおかげで安定しているんだわ。そうでなかったら、もっと激しく躁と鬱を行き来しているのではないかしら。
自分の心理を、冷静に分析しようとした。わたし、サンドラを独り占めしたいのね。サンドラと一緒だと、いやなことを忘れていられるから。
いえ、いやなことを忘れるために、夢中になる相手を求めているんだわ。しかも、簡単には手の届かない相手を。だって、独身男性なら、わたしが誘惑するのは簡単だもの。
でも、分析したからといって、焦がれるような気持ちに変わりはなかった。一緒に暮らして、サンドラのためにあれこれしたい。頭を撫でてもらったり、膝の上に乗せてもらったりして、かまってもらいたい。
異常かしら。女の人を相手に、こんなことを考えるなんて。
でも、考えてみたらわたし、本当に男性に恋したことなんて、あるの? ただ、セックスを経験して大人になった気がして、一時、満足しただけ。
それに、どう考えても、サンドラはそこらの男性より、ずっとすてきだった。同性を愛して、何が悪いの。タケルとパーシスは幸せそうだし、他にもたくさんの同性カップルがいる。わたしだって、もしもサンドラがわかってくれたら……
だけど、サンドラは、からからと笑うのではないかしら。
『ありがとう。あたしに惚れてくれて、光栄だな』
と軽く流されるだけではないか、という気がする。
それに、サンドラにはヴァイオレットさんがついている。考えてみると、それが最大の関門のようだった。昨日も今日も、三人でデート。
あの人は、わたしのことを邪魔者だと思っている。人のバカンスに割り込んできて、勝手にはしゃいで、迷惑な小娘だと。
それでも、もう会わずにはいられない自分がわかる。とにかく明日、もう一度ホテルを訪ねよう。田舎の温泉はいかが、と誘ってみるのだ。
何も、一緒にお風呂に入るのが目当てじゃないわよ。いえ、それは、そうできたら嬉しいけれど。できれば、ヴァイオレットさん抜きで。
そこで、ふっとまた、鉛色の記憶が頭をよぎった。わたしを餌食にした、下劣な男たち。
いいえ、あの連中はもう隔離施設よ。とことん再教育を受けて、二度と犯罪なんかできないようになる。施設から出てきても、もう何も関係ない。わたしは頭を上げて、堂々と暮らすわ。サンドラが言うように、ある意味、戦いなのよ。脅えて逃げたら負けだわ。あんな奴らに負けたくない。
事と次第によったら、サンドラの住む町に引っ越そうとまで決めて、少し落ち着いた。冷えた肌で部屋に戻って、ベッドに入る。
恋人にはなれなくても、友達ではいられるはずよ。その町でできる仕事を探して、週末はサンドラの所に遊びに行くの。ケーキを焼いて、お花を持って。ヴァイオレットさんは、きっと迷惑がるだろうけれど。
ふと、冷たい感覚が走った。
あの人は、やはり、ただの従姉妹などではない。男性のグループに取り巻かれた時、はっきり嫌悪が表面化した。それは、わたしもそうだったけれど。
サンドラを見る時だけ、顔が優しい。芯から、とろけてしまいそうに。
サンドラを愛しているのね。だから、仕事の時も、休暇の時も、ずっと一緒にいるのね。
だとしたら、そこにどうやって、わたしが割り込めるの。あの人が〝身内のふり〟をしている限り、サンドラはずっと、身内として大事にするのだから。
***
眠れたのが遅かったので、目覚めたら、もう九時近い。空は曇り空で、今にも降りだしそう。気温も、昨日より下がっている。
今日は病院の予約がないから、目覚ましをセットしておかなかった。サンドラはもう、どこかへ遊びに行ってしまったかも。
それでも、得意のチョコレートケーキを焼き、お気に入りの白いニットドレスを着て、お揃いの白い帽子をかぶり、タクシーでホテルに行ってみた。
自分でも、かなり可愛い姿だと思う。サンドラも、そう思ってくれるといいのだけれど。
けれど、フロントで聞いたら、やはり二人は留守だった。どこかへ出掛けてしまったのだ。約束していたわけではないから、仕方ない。
「あの、これを預かってもらえます?」
持参したケーキをフロントに託そうとしたら、
「それは、こちらで預かりますよ」
と声をかけられた。振り向いたら、上品な藤色のスーツを着た黒髪の美青年が微笑んでいる。
「ナギと申します。サンドラ・グレイの助手です」
「探偵事務所の、ですか? バカンスなのに、一緒にいらしてるの?」
「はい。いつ、何があるかわかりませんので」
サンドラの仕事は、それほど忙しいのかしら。
「お二人は、じき戻りますよ。部屋でお待ちになってはどうですか」
と 言われて、ほっとする。
「ご迷惑でなければ……」
ケーキを渡し、一緒にエレベーターの方へ歩きかけた時、外からロビーに二人の男女が入ってきた。顔が合ってしまい、わたしは驚く。褐色の髪をした固太りのベイカー捜査官に、短い黒髪の、すらりとしたワン捜査官。向こうも驚き、近くまで来て立ち止まった。
「やあ、ミス・バーンズ、こんにちは」
「お元気そうね。心理療法の経過はいいって、報告を聞いていますけど」
笑顔を浮かべているけれど、二人とも戸惑い、対処に困っている。ぴんと来た。サンドラがなぜ、わたしを訪ねてきたか。
「――サンドラも、捜査官なんですね」
だから、わたしの様子を見て、すぐ事件だと見抜いた。そしてもちろん、事件の経過について、わたしの回復度合について、担当者と話し合っているのだ。
「サンドラは、あなた方に頼まれて、わたしを見張っていたんですね」
おそらく、自殺を防ぐために。
「いや、見張りだなんて、そんなことでは」
「お二人は、本当に休暇中なんですよ。ただ、個人的にあなたを心配して……」
そうなの。ヴァイオレットさんも捜査官なのね。
「あの、ミス・バーンズ、事件の処理が一段落したら、きちんと正式に報告させてもらいますから」
とベイカー捜査官が言う。つまり、わたしはここにいてはいけない、というのだ。彼らの話の邪魔だと。
「帰ります」
わたしは身を翻し、ホテルの外に飛び出した。ナギさんが引き留める声がしたけれど、聞こえないふりをする。サンドラにとって、わたしはボランティアの相手だったのだ。探偵事務所なんて、実在しない。
鉛色の雲から、冷たい雨が降りかかった。傘を持たない通行人は、みな屋内の連絡通路へ逃げていく。
ちょうどいいわ。これなら、泣きながら歩いていても、他人にはわからないもの。気持ちがおさまるまで、ぐるぐる歩いていよう。ずぶ濡れになるのが、いっそ気持ちいい。
でも、二百メートルもいかないうち、ぐいと腕を引かれた。
「ミオ! どうしたの」
サングラスをかけたサンドラだった。枯れ葉色の薄手のニットに、黒いミニスカート。胸があって脚が長いから、何を着てもかっこいい。金褐色の長い髪が、みるまに濡れそぼっていく。
「ナギが引き留めなかった? ちょっとケーキを買いに出ただけだから。あたしに会いに来てくれたんじゃないの?」
黙ったまま首を振って、逃げようとした。でも、サンドラの手が離してくれない。
「ほら、濡れるから、ホテルへ帰ろう」
「いや。あそこはいや」
捜査官たちがいる。ヴァイオレットさんもいる。わたしは、ただの被害者でしかない。捜査会議には邪魔者だ。
「えーと」
サンドラは雨の中に立ちながら、あたりを見回した。
「それじゃ、他のホテルならいい?」
わたしが雨と涙に濡れているうち、サンドラはわたしをひょいと抱き上げた。まただわ。最初の出会いの時も、わたしを軽々と支えてくれた。
すぐ近くのホテルのフロントに入ると、ロビーの客たちが驚いてこちらを見てきた。わたしは恥ずかしさで縮み上がる。小さな子供でもあるまいに、お姫さま抱っこなんて。
フロントの従業員たちも驚いていたけれど、もちろん、面と向かってそうは言わない。サンドラはわたしを抱え上げたまま、澄ました顔で部屋をとる。
「あの、歩けるわ、降ろして」
奥のエレベーターに運ばれていきながら、わたしが小声で言うと、サンドラはにやりとした。
「ほんとは抱っこが好きでしょ?」
わたしは顔が火照ってしまう。サンドラに甘えたがっているのを、見抜かれているのだ。そのまま七階か八階の客室まで運ばれて、すとんと降ろされる。
「さ、捕まえた。逃げちゃだめだよ」
肩に手をかけられ、にっこり言われて、ずきんときた。
どうしよう。サンドラが好き。探偵でも捜査官でも何でもいいから、とにかく好き。一分でも一秒でも、一緒にいられて嬉しい。
「あ、ヴァイオレット。ミオを捕まえた。うん、そっちは頼む。話を聞いておいて」
サンドラは部屋の通話画面で、ヴァイオレットさんに連絡している。ちらりと向こうの様子が見えた。やや眉を曇らせたヴァイオレットさんの後ろに、捜査官ペア。きっと、迷惑な子、と思っているわ。
「さてと」
通話を終えると、サンドラはわたしを振り向いた。
「風邪をひくと困るな。ここにいるから、お風呂に入っておいで」
その途端、自分でも不思議なほどの勇気が出た。ほとんど自棄だったかもしれない。
「一緒に入ってくれるなら、入る!!」
サンドラは唖然とした顔をした。わたしも自分で恥ずかしい。なんて目茶苦茶を言う子だと、呆れられたわ、きっと。
でも、サンドラは苦笑した。
「いいよ、そうしよう。どうせ、ここに泊まればいいんだから、ゆっくりしよう」
思わず、叫んでしまった。
「一緒に泊まってくれるの!?」
「どうも、そういうことになるみたいだね」
呆れられても、笑われても、何でもよかった。明日の朝まで、一緒にいられるのなら。
***
驚いた。サンドラが、浴槽の中でわたしを膝に乗せて、薔薇の香りの入浴剤で泡だらけにして、躰を洗ってくれるなんて。
嬉しいのと恥ずかしいのとで、頭に血が上がりっぱなし。飲んでもいないのに、酔ったような気分。
「わたし、こんなの初めて」
「そお? あたしはよくやってるよ。ヴァイオレットがご機嫌斜めの時とか、こうすると、気分が和らぐみたいなんで」
びっくりしたけれど、やっぱりという気がした。ヴァイオレットさんも、こうやってサンドラに甘えているのね。そして、この場所を他の誰にも渡すまいと思っているのね。さっき、画面の中からわたしを見た目が、はっきり警戒を宿していたもの。
「ヴァイオレットさんでも、ご機嫌斜めの時はあるの?」
とさりげなく尋ねてみた。
「まあね。我慢強い性格だから、そう露骨には不機嫌にならないけど。あたしががさつだから、知らないうちに疲れさせてるんだと思う」
「がさつだなんて……そんなことないわ」
わたしのような通りすがりに対しても、こんなに優しいんだもの。一緒に暮らしているヴァイオレットさんは、この何百倍、何千倍の優しさを受けているに違いないわ。
それを思うと、うらやましさで気が遠くなりそう。
「サンドラって、相手に気を遣わせないように、あえて気さくに振る舞っているでしょ。繊細でなくてはできないことよ」
と心から言った。わたしも最初は戸惑ったけれど、今ではそれがわかっている。
「そう言ってもらえると、嬉しいな。はい、今度はそっちの足」
お湯と泡の中で、足の指の間まで優しく洗ってもらいながら、わたしは尋ねてみた。
「あの……サンドラって、本当は捜査官だったのよね?」
すると、あっさり肯定された。
「うん、言わなくてごめん。でも、事件のことは、ミオも忘れたいだろうと思ってさ」
「それで、探偵だなんて言ったの?」
「んー、あれはまあ……いつもの偽装なんだ。バカンスの時の。あちこちから、逆恨みされることがあるんでね」
すると、かなり凶悪な事件を扱ってきているんだわ。
「それじゃ、あの……わたしと遊んでくれたのは、職務のうち、よね」
ただの義務感。ただの親切心。
「まあ、少しはね」
少し?
「休暇中なのは本当だから、別に義務じゃなかった。でも、あたしもミオが笑うのを見たかったもので。最初の日は、本当に自殺しそうな顔色だったからね」
真正直に言われたので、かえって気が楽になった。腫れ物に触るような扱いより、ずっといい。
「もしかして、他にこういう事件で自殺した人、いるの?」
と素直に尋ねられる。
「あたしがじかに知る範囲では、いないな。みんな、家族や友達に守られて立ち直るよ。専門家も付いてるしね。ミオも、もう大丈夫でしょ?」
つんと耳たぶを引っ張られて、微笑まれる。困ったわ。つられて『はい』と言ったら、サンドラは安心して行ってしまうかもしれない。
「まだ、だめ。一人でいると、真っ暗になるの。頭の中が目茶苦茶になりそう」
少し大袈裟に言ってみた。薬のおかげでだいぶ楽ではあるのだけれど、思い出すと、胸の中が鉛色になるのは確かだから、嘘ではないでしょう。
「一緒にいてくれないと、死んじゃう、かも」
これは脅迫だ、卑劣だと自分で思ったけれど、温かいお風呂で安心したせいか、ほろほろ泣けてきた。なめらかな筋肉のついた肩にもたれて、そのまましがみついてしまう。裸で女の人に抱きついたなんて、初めてのこと。
わたしも胸はある方だけれど、サンドラも豊かな隆起をしていて、弾力がある。互いの乳首が肌をこすると、恥ずかしいのと、くすぐったいので、ぞくぞくしてしまう。嬉しい気持ちに、切ない感覚も混ざっていて、心臓が苦しくなる。でも、いまこの瞬間は幸せ。ずっとこうしていたい。
その途端、ぐうう、と盛大にお腹の鳴る音がした。わたしではない。
「あー、えーと、そろそろ上がって食事にしないと、あたしが飢えて死ぬことになるんだけど……」
サンドラが照れた顔で言うので、わたしは笑ってしまった。
「ごめんなさい。もうじき、お昼よね。そうしましょ」
その時、わたしは例の傷のことを思い出した。これだけお湯に浸かっているのだから、ファンデーションなんて流れてしまっているはず。でも、なめらかな腕には、ほんのわずかな痕跡さえもない。
「ねえ、あの傷は?」
と尋ねても、サンドラはぽかんとしている。
「傷って?」
「ほら、乗馬の時、ひっかき傷を作ったでしょう」
「ああ、あれか」
その途端、横抱きにされて、ざばりとお湯の中から持ち上げられた。思わず悲鳴をあげると、
「大丈夫、落とさないから」
と笑われ、浴槽の外の洗い場で降ろされた。シャワーの下に立たされて、甘い香りの泡を落とされる。髪を頭上にまとめたサンドラも一緒に、その滝を浴びた。湯気の中で、優しく言われる。
「あんな傷、もう治ったよ。心配してくれて、ありがと」
と額にキスされた。心配したというよりも、単純に不思議だったのだけれど。どうでもいいわね、そんなこと。きっと、体力があるから、傷の治りも早いのよ。
浴室から出ると、乾かしておいた服を着た。外の寒々しい雨も、こうなると、この隠れ家の幸福を引き立てるだけ。しかも、ヴァイオレットさん抜きだなんて。
一緒に昼食をとり、チェスをして、映画を見、おやつのケーキを食べたりしているうち、外は藍色に暮れてくる。雨に降りこめられる世界で、サンドラと一緒にソファに座って、ニュース番組を見られる幸せ。
わたしには興味の持てない政治経済関係の報道も、サンドラは真剣な顔で見ている。きっと、お仕事には必要な知識なのね。おかげでわたしも、その横顔をじっと眺めていられる。番組の合間に、質問もできる。
「ねえ、サンドラは、どうして捜査官になったの?」
「え? うーん、そりゃまあ、本物の銃を撃ちたかったから……」
わたしは笑ってしまう。
「そう言うと思った」
今ではもしかしたら、サンドラ自身よりも、サンドラのことがわかるのではないかしら。
「え、そうなの?」
「そうよ。顔に書いてあるわ。弱い者いじめを見たら、放っておけないって」
するとサンドラは、自分の顔を撫でて苦い顔。
「やっぱりあたしって、好戦的なんだろうな……」
そうではない。サンドラはただ、心底から優しいだけ。
「子供の頃から、おてんばだった?」
「まあね。よく、従兄弟と取っ組み合って遊んでたよ。竹刀で打ち合ったり、格闘技の技をかけ合ったりしてさ」
「でも、それは喧嘩じゃないでしょう?」
「でも、まあ、相当に乱暴な女の子だったな」
つい笑ってしまう。
「サンドラにも、女の子の頃があったのね」
すると、わざとらしく怖い顔をされた。
「あたしは、男に生まれた方がよかったのかね?」
「ううん、違うわ」
思わず、サンドラの腕に腕を回して、すがりついてしまう。
「サンドラが女の人でよかった。こうして甘えられるもの」
サンドラは、どう返答すればいいのか困ったようだった。本当は、男性に甘えればいいのに、と言いたいのだろう。でも、事件のことがあるから、そうも言えないでいる。
そのうち、夕食を注文することになった。ホテルの中にもレストランはあるけれど、それよりも、外の専門店から届けてもらう方がいいとサンドラは言う。
「ミオは何が食べたい?」
「太らないもの」
と笑って言うと、サンドラも笑う。
「あんたはもう少し、太っても大丈夫。まあ、それなら和食にしようか」
サンドラは懐石料理の店をみつけ、違うコースを三人前頼んでいる。
「あの、誰か来るわけじゃ……?」
「心配しないで。ミオは一人分食べればいいの。あとはあたしが引き受けるから」
言葉通りサンドラは、届いた料理を二人分、平気で平らげた。いつ見ても、豪快な食べっぷり。でも、食後の抹茶と和菓子を前にして、サンドラはため息をついた。
「わかってるんだ。こういう大食らいだから、男が寄り付かないんだよね。色気がないんだ、基本的に。どんなぴちぴちドレスを着ても、超ミニでも効果なし」
わたしは笑ってしまった。
「寄り付かない人なんか、放っておけば。サンドラには、超弩級の男性でないとだめなのよ」
そして、そんな男性が滅多にいないことに感謝する。
「別に、そんな大層な男でなくても……ただの物好きでいいんだけど。ミオが紹介してくれない?」
知っていたって、紹介なんかするものですか。できるものなら、サンドラを鎖でつないで、どこかの地下室にでも閉じ込めてしまいたい。
「あ、そうだ、パーシスに紹介するわ。わたしの幼なじみで、弟のタケルの恋人」
「恋人つきの男はねえ」
とサンドラは、しょげた顔をする。なんて可愛いの。
「でも、ハンサムでかっこいいわよ。パーシスから、別荘に来ませんかって言われているの。わたしがサンドラのことを話したら、興味を持ったみたい。もちろん、ヴァイオレットさんもご一緒にどうぞ。温泉に入れるわ」
でも、パーシスの大学の先輩や、友達をサンドラに紹介してもらうのはなし。ライバルが増えたらかなわないもの。
「そうか。いいかも。ヴァイオレットは温泉好きだから」
ちょっとズキンときたけれど、思い直した。サンドラが、従姉妹を大切にするのはいいことよ。身内に優しくできない人が、他人に優しくできるはずがないんだもの。
「そうだわ、そういえば」
わたしはふと、ホテルで留守番していた黒髪の美青年のことを思い出す。
「サンドラたちが捜査官なら、ナギさんは何なの? 探偵事務所の助手でないなら」
サンドラは、わたしがあれこれ質問しても、怒らないと思う。答えられないことならば、そう言ってくれるだろう。
「ああ……ナギね。何だと思う?」
質問で返されるなんて、珍しい。
「新米捜査官とか? でも、そういう緊張感はなかったわ」
「緊張感がないか……なるほど」
サンドラは、何を気にしているのかしら。
「ナギさんて、受け答えが何か、変とまでは言わないけど、お芝居の台詞の棒読みというか……笑顔なのに、感情がないみたいな気がしたわ」
ふうむ、とサンドラが考える顔になった。
「やっぱり、素人でも、すぐわかるんだな」
わたしも笑いを引っ込めた。何か、微妙なことを尋ねてしまったみたい。
「あのね、ミオ、秘密が守れる?」
サンドラが真剣な瞳でこちらをみつめてきたので、わたしは急いで頷いた。
「守れるわ」
どんなことであれ、守ってサンドラに信用してもらいたい。
「よし、じゃあ言うけど、ナギはアンドロイドなんだ。見た目は人間そっくりだけど、心はないんだよ」
そんな、まさか。
「だって、人間と区別のつかないアンドロイドって、作ってはいけないんでしょ?」
作業用や護衛用のアンドロイドは、一目でわかる灰色の皮膚だったり、顔がのっぺらぼうだったりする。もちろん辺境では、どんなアンドロイドも、制限なしに作られているというけれど。
「だから、秘密なんだよ。司法局の中でも、一部の人間しか知らないことなの」
わあ、すごい。そんなことを話してもらったなんて。
「人間そっくりの人形を捜査や護衛に使えたら、色々と便利でしょ。あたしとヴァイオレットが試しに使って、まあ、実用試験中というところかな。ミオがそれを他所でしゃべると、困ったことになる。絶対言わないと誓ってほしいんだけど」
「はい。誓います」
右手を挙げて宣誓したら、サンドラはほっとした様子だった。わたしはついでに、もう一つ浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「ねえ、ヴァイオレットさんが同僚だとすると、本当は、従姉妹じゃないのよね? それも、私立探偵というのと同じ、偽装なんでしょ? 訓練所の同期とか、そういう関係?」
すると、サンドラはなぜか金褐色の眉をしかめ、困ったような顔をする。
「えーとね、ミオ」
「はい」
「ミオに悪気がないのはわかってるんだけど、こっちは職業上、聞かれるとまずいことが色々あってね。答えられない質問をされると、困るんだ」
「ごめんなさい」
わたしは急いで謝った。
「迷惑をかけるつもりはないの。ごめんなさい。もう聞きません」
調子に乗りすぎた、と自分で反省する。本当はサンドラは、元のホテルで捜査の報告を聞きたいだろうに、こうしてわたしに付き合ってくれているのだから。
迷惑をかけていると思うと、じわりと悲しくなってきた。わがままを言っていると、嫌われてしまう。でも、わがままを言わない限り、側にいてもらえない。
休暇が終わって次の任務についてしまったら、きっと居場所もわからないに違いない。現役の捜査官の現在地など、司法局に問い合わせても、民間人には教えてくれないだろう。つまり、サンドラといられるのは、今日、明日限りかもしれないのだ。
「あー、泣かなくていい。別に怒ったんじゃないから、ね?」
優しく言われたら、余計惨めになって、どっと涙が噴き出してしまった。一日に何度も泣いたり笑ったり、自分でも目まぐるしいと思うけれど、止まらない。やはりまだ、神経が正常に戻っていないのかも。
気がついたら、ソファでサンドラの膝に乗せられ、肩を抱かれていた。まるで子供の扱いだけれど、気持ちいい。わたしはしゃくりあげる合間に、必死で訴えた。
行かないで、置き去りにしないで。休暇が終わっても、黙って消えないで。連絡が取れるようにして。お仕事中は仕方ないけど、次の休暇の時には会って。ちょっとでいいから。呼ばれたら、どこの星へでも会いに行くから。
サンドラは理解に苦しんだようだった。わたしがなぜ、こうも泣いてすがるのか。
無理もないとわかる。わたしだって、つい数日前までは、タケルとパーシスの仲を納得しきれていなかった。表向き、理解したような顔はしていたけれど、男同士なんてやっぱり普通じゃないわ、と思っていたのだ。
でも、自分がサンドラに会って、初めてわかった。人を好きになるのに、性別なんか関係ないって。
サンドラはわたしにティッシュの箱を差し出し、わたしが鼻をかんでいる間、何やら考えているようだった。こういうところが、サンドラのいいところ。わたしが何を言っても、真剣に受け止めてくれる。決して馬鹿にしたり、聞き流したりしない。
あの男たちは、わたしが泣いて助けてと訴えても、笑い続け、ひどいことをし続けたのに。あいつらの思うまま、人形のように扱われて。それを撮影されて。
またしても、どっと涙が溢れた。悔しい。もう二度と、男なんか信用しない。側に来られるのもいや。
サンドラは、そっと背中を撫でてくれた。
「よしよし。いい子、いい子。好きなだけ泣いていいよ」
どうして、こんな人がいるのかしら。サンドラに好いてほしい。いい子だと思ってほしい。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
泣きやもうとしながら言うと、サンドラはわたしの頭を撫でてくれた。
「ミオは何も悪くないよ。まだ神経が参ってるんだ。怖い目に遭ったんだからね。無理もない」
それもあるけど、それだけじゃないの。
あなたが好きなの。
その気持ちだけで胸が一杯になって、他のことが何も考えられない。
「これから段々、少しずつ回復していくから、大丈夫だよ。ミオには家族もいるし、友達もいるし」
いるけど、こんな風にすがりたいのはサンドラだけ。
「一緒に寝て」
迷惑だとは思ったけれど、それでも頼んでしまった。
「手を握ってて。お願いだから」
びっくりされるだろうと思ったのに、
「うん、わかった」
意外なほどあっさり、サンドラは引き受けてくれた。わたしが泣くのを忘れて見上げると、にっこりする。
「ヴァイオレットがね……ミオほどではないけど、やっぱり昔、男に怖い目に遭わされたことがあってね」
あ。
「今でも嵐の晩とか、大雨の晩とか、一人で眠れない時があるらしくて。そういう時は、あたしが一緒に寝るんだ。そうすると、安心してぐっすり眠るから。ミオにもついててあげるから、安心しておやすみ。悪い奴は誰も来ないから」
そうだったの。
パズルのピースがぴたりとはまるように、ヴァイオレットさんを理解できた、と思った。だからヴァイオレットさんは、休暇中でも、サンドラから離れないのね。わたしのことを、仇のように見るのね。
わたし、本当に恋敵なんだ。今夜はこうして、サンドラを横取りしているんだもの。
ミオ編6に続く
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