恋愛SF『ミッドナイト・ブルー ハニー編』16章-2
16章-2 ハニー
「ありがとう、ハニー、シヴァを愛してくれて」
犬はきちんと前足を揃えて、行儀のよいお座りの姿勢をとっている。
「これでわたしも、安心できる。どうか末永く、シヴァをよろしく頼む。きみたちが幸せでいられるよう、できるだけのことをさせてもらうから」
まるで、娘を嫁に出す父親みたい。わたしの反感も疑問も警戒も、全て見通していて、下手に出ているらしい。それならそれで、今は〝家族〟のように付き合えばいいのだろう。
「ショーティ、あなた、シヴァが子供の頃から、ずっと一緒だったんですってね」
わたしの口調には刺があったと思うけれど、犬は恬淡としていた。
「そう。子犬時代からの親友だ。わたしが今のわたしになれたのは、シヴァのおかげだと思っている。彼が最初に、わたしに知能強化を施してくれたのだから。おかげで妙な責任も背負ってしまったが、それはやむを得ないことだ。シヴァの幸福を願う限り、人類社会と関わらずにはいられない」
妙な責任……人間を超えた存在が、たった一つ持つ弱点が、そこだなんて。
「それじゃ、もしシヴァがいなくなったら、あなたは人類社会とは関わりを断つの?」
そんなこと、仮定で考えるのも厭だけれど。もう、シヴァのいない生活なんて、ありえない。
「そうなるかもしれない。だが、もしシヴァが、きみや従姉妹たちのことを頼むと言い残していたら、それを無視することはできないかもしれないな」
「かも、じゃない!! 頼むと言ってあるだろうが!! リアンヌがいる限り、市民社会にもちゃんと目配りしてくれ!! リアンヌの子供たちのこともだ!!」
横からシヴァが力んで言うので、わたしはつい微笑んでしまう。
信じられる、この人のことは。わたしの存在はまだ、従姉妹たちやリアンヌの重みより小さいとしても。今、シヴァと一緒にいるのは〝リリス〟でも、過去の恋人でもなく、わたしなのだもの。
「ショーティ、あなたが最高幹部会の代理人の一人……って本当なの?」
一人というのか一匹というのか、困るところ。
「そうだ。代理人としての任務を請け負っている者は、他にも二十人ばかりいるがね」
何十億人のうちの、たった数十人なら、途方もないエリートだ。彼らの権力の大きさは、わたしには想像もつかない。
「ここから先は、シヴァの親友としてではなく、最高幹部会の使者として話させてもらう」
わたしははっとして、いくらか身構えた。彼らの庇護を受ける代わりに、どんな義務が課されるというの?
上納金は覚悟している。マックスの組織も、収入のかなりの部分を吸い上げられていた。それ以外の義務は? 無理難題は?
「《ヴィーナス・タウン》の新規出店については、最高幹部会が全面的に後援する。場所も資金も心配は要らない。人集めにも協力できる。辺境に人間の女性を増やすためには、きみの店が、全都市に支店を持つことが望ましいという判断だ。安全な受け入れ先があると思えば、市民社会の女性たちも、きみの店を目当てにやってくるだろう」
驚いた。シヴァからも聞いてはいたけれど、わたし、相当に高く評価されている? たかが、女の服や小物を売るだけの商売なのに?
《ヴィーナス・タウン》が本当に、辺境での女たちの〝聖域〟になるというのなら、どんなに素晴らしいことか。でも、ただそれだけでは済まない可能性もある。たとえば、集まった女たちが、あちこちの組織に〝分配〟されてしまうとか。
「どの都市であろうと、きみの店には最高幹部会があらゆる便宜を図るし、安全な営業を保証する。安心して、人員を増やしてもらいたい。他組織からの引き抜きも構わない。辺境に優秀な女性が増えれば、男たちの野蛮に、少しは歯止めがかけられる。これは、グリフィン以来の大抜擢だ。きみはすぐ、世界中の話題の人物になるだろう」
「わたしが?」
グリフィン以来の大抜擢、ですって? あまり持ち上げられると、恐ろしくなる。高みに上がるほど、転落の衝撃は大きいものだ。
「いくら何でも、大袈裟すぎない?」
いったい、何を引き換えに求められるの? ただ、商売を続けていればいいだけ、とは思えない。
「大袈裟などではないよ。きみが、中央でも辺境でも、新たな希望の星になることが必要なのだ」
グリフィンや〝リリス〟は外部に素顔を隠したままだけれど、わたしはこの姿を顧客にさらして営業するわけだから、それこそ、中央の政治家以上の有名人になるらしい。
とんでもない話に聞こえる。希望の星ですって。たかがファッション・ビルの経営者が。
でも、ショーティにとっては、わたしを売り出すことが重大任務であるという。
「女性の生活を豊かにすることは、すなわち文明の水準を上げることだ。最高幹部会も、それなりに未来を考えているのだよ。現状では、不老不死や酒池肉林目当てのチンピラしか、辺境に出てこない。今の荒んだ状況を変えるには、女性の比率を上げることが一番だという結論に至っている」
それは確かに、そうかもしれないけれど。あまりに都合のいい話で、逆に怖い。利用されるだけ利用されて、最後はポイ、と捨てられるのではないかしら。
状況が変わった時に、シヴァがどこまでわたしを守ってくれるかも、今はまだはっきりしない。
本当の権力を持っているのは、人間を超えた怪物たちなのだ。彼らが何を最終目的にしているのか、わたしのようなただの人間には、想像もつかない。
「そういう目で辺境中を見渡した場合、きみの事業を後押しするのが一番効果的だ。だからハニー、きみの店には、女性が駆け込めば保護される〝聖域〟という役割を担ってもらいたい。どんな組織も、きみの店に手出しはできないという新たな常識を、これから我々が辺境に広めることになる」
女性の聖域……サンクチュアリ。
無法地帯の中の、安全な小島。
市民社会から、新たな女性たちを引き寄せるための広告塔。
女が増えれば、それに惹かれて男たちも集まってくる。つまり、辺境の人口が増える。その中には、最高幹部会の必要とする、創造的な人物がいるかもしれない。
わたしとしては、ただ、辺境で緊張に満ちた生活をしている女性たちがくつろげる場所、と考えて始めただけのことなのに。
いつの間にか、大きな渦の中心にされてしまったというわけ。
「最高幹部会が改めて何かを宣言するわけではないが、きみの店や女たちに手を出す者が、徹底的に潰される事例が重なれば、理解が広がるだろう。《ヴィーナス・タウン》は、最高幹部会の庇護を受けているのだとね。きみにはシヴァという番犬が付くから、きみが困ることは、何でも彼に相談すればいい。無論、わたしも控えている」
グリフィンが〝恐怖の象徴〟であるように、わたしは辺境中の女たちの〝希望の象徴〟に祭り上げられるらしい。そんな大役、わたしに務められるのだろうか。
おまけにショーティは、苦いことを付け加える。
「マックスがいない今、《ディオネ》も事実上きみのものだ」
マックス。
ほとんど忘れていた刺が、また痛みだす。わたしがもう、彼の運命をたいして気にかけていないということが、余計、罪の意識を起こさせるのだ。
今のわたしはシヴァで充たされていて、もう、他の男が入る余地は全く残っていない。
辺境に連れ出してくれたマックスには、心から感謝していたから、彼の望む通りの恋人でいようとした。努力して。
でも、シヴァを愛することには、努力など何も要らない。自然にいくらでも、温かい気持ちが溢れてくる。これが、本当の恋愛というものなのだ。マックスとの間では、とうとうそれは育たなかった。
「ただし、きみには《ディオネ》の事業まで見る余裕はないだろうから、そちらはこれまで通り、マックスの偽者に任せておけばいい。彼はわたしの部下なので、きみの代理人として管理業務を果たすだけのこと。きみは彼から報告を受けられるし、指示も出せる。だがまあ、大体は任せておけばいいだろう」
「マックスは……本物の彼は、生きているの?」
恐る恐るした質問だったが、ショーティの返答は断固としていて、反論を許さなかった。
「それは忘れることだ。今後のきみの人生には、もはや関係ない存在なのだから」
……そんなに簡単に切り捨ててしまって、いいのかしら。
もちろん、マックスの元に戻りたいなんて、全く思わないけれど。彼に不幸になってほしいとも、思っていない。わたしの人生からいなくなってくれれば、それで十分。
「たとえ彼が生きていて、きみを取り戻そうと画策しても、それはシヴァが撃退してくれる」
罪悪感の一方で、ほっとする自分がいた。本音では、マックスのことは、もう忘れたいのだ。わたしはもう、新しい人生に踏み出したのだから。
どのみち、マックスでは駄目だった。自分を飛び越えて、わたしが大きな権力を持つようになるなんて、マックスは絶対に納得しなかっただろう。だから最高幹部会は――その手先であるショーティは、彼がわたしの邪魔にならないよう、真っ先に取り除いたのだ。
ショーティが別室へ去り、シヴァと二人きりになってから、そっと話しかけてみた。
「わたし、これから有名人になるのね。市民社会にも、知られることになるわね」
故郷の家族は、それが行方不明の長女のことだなんて、想像もしないだろう。今のわたしは愛される幸福に輝き、惨めな醜貌の娘からは、百万光年遠ざかっている。
祖父母や両親は、まだわたしのことを嘆き悲しんでいるだろうか。それとも、あきらめて忘れていてくれるだろうか。勝手な願いだけれど、あまり悲しまないでほしい……
「ああ、そうなるだろう。これまではまだ、辺境でしか知られていなかったと思うが……軍や司法局も、きみについて情報を収集しようとするだろう」
「そうしたら、いつか、あなたの従姉妹たちに会えるかしら……?」
シヴァは複雑な顔をしたが、優しく答えてくれた。
「〝リリス〟がきみを逮捕しようとしたら、俺が守る」
「いえ、そうではなくて……こっそり会う、というようなことよ」
シヴァは眉根を寄せた。口許にも力が入る。
「もしも向こうが〝正義の味方〟の役を降りたら、そういう機会もあるかもしれない。しかし、会う必要があるのか?」
彼はもう、苦い初恋のことは忘れたと言う。今は、わたししかいないと。そして、にやりとする。
「だいたい俺は、痩せっぽちより、グラマーが好きなんだ」
それは信じられる。彼は昨夜、わたしの胸に夢中だったから。
わたしも嬉しい。わたしの肉体が、わたしの好きな人を喜ばせることができて。
わたしの以前の姿を、シヴァが気にしないでくれるのなら、それでいいことにしよう。惨めな少女時代のことが、自分でもすっかり忘れてしまえるくらいの昔になったら……なかったことも同然になる。
どうかその時まで、シヴァと仲良く暮らしていられますように。権力の庇護が、わたしたちを守ってくれますように。
最悪の場合……もし〝連合〟が敵になったら、わたしたちが頼る相手は〝リリス〟しかいないのでは、と思ったから、シヴァに質問してみたけれど。
まあ、それは保留にしておきましょう。シヴァはやはり、従姉妹たちに頼りたくないようだから。
『ミッドナイト・ブルー ハニー編』17章に続く