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古典リメイク『レッド・レンズマン』3章-3

3章-3 キム

 ぼくは機械的に足を動かし、校長室へ向かった。世界から光が失せ、視野も狭くなっている。

「キニスン候補生、出頭しました」

 長身で骨太だが、痩身の校長はデスクを離れ、窓辺にいた。中庭の木々と、はるか彼方まで続く赤茶けた荒野が見渡せる。

 あの砂漠で、耐久マラソンや野営訓練をさせられたものだ。トカゲを捕まえて食ったし、毒蛇に噛まれたこともある。レンズマンになるためなら、何にでも耐えられたのに。

 校長は、外見は健康な初老の男性に見えるが、実際には脳だけが自前で、あとは人工ボディという噂だった。現役時代の大怪我で、元の肉体を捨てたという話である。こちらを振り向いた顔には、何の感情もない。

「来たか。キムボール・キニスン、話はわかっとるな」

 わずかな希望も打ち砕かれ、ぼくは一言、答えるだけで精一杯だった。

「はい。退学ですね」

「そういうことだ。十五分以内に荷物をまとめて、ここを立ち去れ」

「はい」

 不適格の理由は告げられない。それも伝統。レンズマンの資質は、言葉にできないものだという。ただ、レンズマンになった者だけが、候補者の資質の有無を見極められるのだと。

「五年間、お世話になりました。パトロール隊の発展を祈ります」

 型通り敬礼して、校長室を出た。みんながいる食堂には寄らず、まっすぐ寮の自室に戻る。

 ささやかな荷物をまとめている間、誰も来ないのは、もう噂が広まっているからだろう。ラウールもクリフも来ない。それが有り難かった。残れる者が、去る者にかける言葉はないのだ。

 ぼくもそうして、何百人、何千人もの仲間を見送ってきた。今度は、ぼくの番だというだけのこと。

(あ、お母さんに連絡しなきゃ。もう、卒業式に来なくていいと)

 手の震えが止まらない。家に連絡して、画面で顔を合わせるのは無理だ。きっとこらえきれず、泣いてしまう。

 メールを送るだけにしよう。家に戻ってくれと。誰にも会いたくない。故郷に戻るのも怖い。どんな顔をして、みんなに会えばいいんだ。あんなにたくさん集まって、送別会を開いてくれたのに。

 卒業式に向けて、部屋は既に整理してあった。五分で荷物をまとめてしまうと、もう長居はできない。ここにいる資格は、既に失われているのだ。

 宿舎の舎監にだけ挨拶して、中央広場へ向かう。いつもそこに待機している無人タクシーに乗り、ゲートへ向かった。さっきまではあんなに明るかった景色が、今は灰色に曇って見える。これから先、ずっとこうなのだろうか。

 ラウールやクリフとの付き合いも、今日で終わりだ。もう、身分が違う。どこかで偶然に会えば、彼らはきっと笑顔を見せてくれるだろうが、もう仲間ではないのだ。彼らの貴重な時間を、ぼくなんかのために使わせてはいけない。

 窓の外を、見慣れた訓練施設の風景が飛び去った。レンズマンになれなくても、一般将兵としてパトロール隊に残留する道はあるが、それには耐えられそうにない。違う世界を探さなくては。

 乾いた荒野を延々と走り抜け、海岸地帯に入った。青い海も、もう心を躍らせてはくれない。

 宙港のある町に着くと、ぼくはいったんタクシーから降りた。思考力は、ゼロ近くにまで低下している。ここからどこへ行けばいいのか、わからない。何も思いつかない。

 とにかく、故郷に帰れないのは確かだ。町の人たちはみんな、ぼくが首席で卒業するものと思っている。お母さんが説明してくれるだろうが、みんな落胆するに違いない。そして、ぼくに会えばきっと、優しく励ましてくれるに違いないのだ。他にいくらでも、生き方はあるさ、と。

 気にするな、堂々としていろと、人に言うのは簡単だった。でも、自分は言われたくない。誰にも話しかけられたくない。このまま消えてしまえたら、どんなにいいか。冬眠する熊みたいに、どこかの洞窟に籠もってしまいたい……

 たまたま目に付いた公園に入り、荷物を置いて木陰のベンチに座った。子供たちが、遠くでボール遊びをしているだけだ。近くには誰もいない。

 ぼくはようやく、泣くことを自分に許した。いや、泣きながら、笑わずにはいられない。

 何て馬鹿だったんだ。自分はレンズマンになれると、無邪気に思い込んでいたなんて。あの三人が、酒に逃げたのも無理はない。この辛さが薄らぐものなら、麻薬だって試してみたいくらいだ。

 そうか、人はこうやって、麻薬組織や海賊組織に誘われていくのかもしれない。以前は、なぜわざわざ、そんな馬鹿な選択をするんだと思っていたけれど。

 考えてみれば、ぼくはこれまで、本当に辛いことなんて経験していないのではないか。

 父が殉職した時は泣いたけれど、悲報を聞いて倒れてしまった母を心配する方が忙しかったし、自分がレンズマンを目指す決心は揺らがなかった。何という傲慢だろう。自分がならなくて誰がなる、くらいに思っていたのだから。

 その時、近くの茂みにボールが転がってきた。それを追ってきたワンピース姿の少女が、ボールを拾った後、ぼくを見て不思議そうに立ち止まる。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 大の男が泣き濡れている光景なんて、初めて見たのだろう。

「何でも……何でもないんだ」

 何でもないはずがない、と彼女は思ったらしい。真剣な顔で尋ねてくる。

「しつれん、したの?」

 なるほど、女の子はそういう方向に発想するのか。確かに、失恋かもしれないな。レンズマンになるという夢に、振られたんだ。

「そう……なんだ。ごめんよ。みっともなくて」

 すると少女は、ううん、と首を振る。

「うちのおじちゃまもねえ、前に、しつれんして泣いてたよ。でも、あたしがいい子、いい子、してあげたら、元気になったの。だから、お兄ちゃんにもしてあげる」

 と親切な申し出。断ったら、罰が当たる。

 ぼくはベンチに座ったまま、頭を差し出して、可憐な手にいい子、いい子してもらった。これは確かに効く。まるで、天使に触れてもらったかのようだ。

「ありがとう。元気が出たよ」

 と鼻をすすりながら笑ってみせたら、彼女は安心したように、ボールを抱いて去っていった。

「また、他の人を好きになればいいよ」

 と言い残して。

 ――そうだ。これはきっと、天の声だ。

 発想を転換しよう。ぼくはもう、レンズマンにならなくていい。巨大な重荷を背負わなくていいのだ。銀河文明の明日より、自分一人の幸福を考えればいい。

(自由の身になったんだ……)

 すると、足首につながれていた鉄の玉が外れ、空に舞い上がったかのような気分になる。幼い頃からずっと、この鉄の玉に拘束されていたのだ。

 名門の末裔。トップクラスの秀才。みんなの手本。

 一生、外れないと思っていた重荷が取れた。これから、何をしてもいい。何だってできる。

 じゃあ、何がしたいんだ。ぼくの心が、本当に望んでいることは?

 もし、父さんが殉職していなかったら。平凡な仕事をして、夕方には家に帰ってきて、家族みんなで食卓を囲むような毎日だったら。母さんだって、もっと笑って暮らせていただろう。さっきの女の子のような、可愛い娘を持つことだってできただろう。

(そうだ。クリスさんに求婚しよう。子供の笑い声がする、明るい家庭を持つんだ)

 目の前に、ようやく明るい光が射した。彼女が仕事の鬼でいたいなら、それでいい。ぼくが家事と子育てを全て引き受ける、と言えばいいのだ。料理を作り、子供と遊びながらクリスさんの帰りを待つ。何て素晴らしい生活だろう!!

 ぼくは公園を出ると、近くの花屋に飛び込んだ。

「あの、プロポーズする時は、どんな花がいいんでしょうか!!」

 店員に勧められた真っ赤な薔薇の花束を抱え、再びタクシーに飛び乗った時は、既に新婚生活を思い描いて浮かれていた。浮かれなければ、まるっきり身動きとれないままだっただろう。

 もし、クリスさんが金持ちを好きだというなら、これから稼げばいい。金儲けの方法は、幾つでも考えつく。

 料理の得意な夫がいいなら、それもマスターしてみせる。

 ラウール、クリフ、ごめんよ。銀河の平和は、きみたちに任せる。ぼくは、平凡な幸せを追求させてもらうから。

 クリスさんの泊まっているホテルに着くと、美女トリオはプールサイドのデッキチェアにいた。三人ともまばゆい水着姿で、涼しげな飲み物を飲んでいる。天国のような光景だ。

「あら、今日は卒業式の準備じゃなかったの?」

 と問われたので、退学になったことを話した。

「まあ」

「まさか、この時期になってから」

 三人とも痛ましいものを見る顔になったが、ぼくはもう、そこを通り過ぎている。養成所なんて、百万年も昔の話だ。

「ショックでしたが、もう立ち直りました。それで、クリスさんにお話があるんです」

「何かしら?」

 ぼくは薔薇の花束を掲げてプールサイドに片膝をつき、赤毛の美女を見上げて、元気一杯に叫んだ。

「どうか、ぼくと結婚して下さい!! あなたのために、ぼくの人生を捧げます!!」

 クリスさんは金茶色の目を見開いた。左右にいたベスさんとアマンダさんも、唖然としている。

 性急すぎたかもしれないが、善は急げだ。ぐずぐずしていたら、他の男がクリスさんに接近するかもしれない。何といっても、これだけ素晴らしい女性なのだから。

「ぼくはもう、自由の身です。何の重荷もありません。だから、全力であなたを幸せにします。結婚しても、クリスさんは好きなことをしてくれて構いません。ぼくがあなたのサポートに回ります。子供だって、生んでくれさえしたら、ぼくが育てます。産むのが大変だったら、人工子宮を使えばいい。何でも、あなたの好きなようにしてくれていいんです。ぼくは、役に立つ夫になりますよ!!」

 クリスさんは何か言いかけ、ためらい、赤褐色の眉を曇らせながら口を開いた。

「あのね、キム、きみは錯乱しているのよ。ショックで、うわ言を言っているようなものだわ。とにかく、もう少し落ち着いてから……」

「冷静です。最初の一目から、あなたが運命の女性だと思っていました。ただ、プロポーズは仕事で一人前になってから、と思っていただけです。でも、もうレンズマンにはなれないのだから、あなたの方を優先します」

 するとなぜか、クリスさんの顔が険悪になった。

「レンズマンになれないから、結婚する……?」

 あ、何か誤解が生じたかも。

「いえ、だから、そもそも」

 しかし、クリスさんは冷たい声を出す。

「ずいぶん見切りの早いこと。すると、わたしに断られたら、他の誰かの所へ行って、あなたでもいいと言うんでしょ」

 あれ?

「違いますよ。ぼくが結婚したいのは、クリスさんだけ……」

 ぴしゃりと頬をはたかれて、唖然とした。さして強い力ではなかったが、頬にしびれのような痛みが感じられる。

 ぼくが、ぶたれた? ぼくが、ぶたれた?

 未経験の事態に際して、うまく頭が働かない。ええと……ええと……こういう時は、どうしたら……

「そんな安直なプロポーズはお断り!! ママの所へ帰りなさい!! どうしてもわたしがいいのなら、十年経ってから出直すことね!! そうしたら、本気だってこと信じてあげる!!」

「ま、待って下さい。何か誤解が……」

 ホテルの中へずんずん行ってしまうクリスさんを追いかけて、ぼくも小走りになった。花束など、どこかへ消え失せている。

 ところが、目の前にぬっと障害物が現れた。左右に動いてかわそうとしても、巧みに行く手を塞がれる。

「まあ、待ちたまえ」

「――!?」

 改めて振り仰ぐと、白い開襟シャツを着た、背の高いサングラスの男だった。リック先輩。

 いや、もう先輩と呼ぶ資格はないから、グレー・レンズマンと呼ぼう。彼は昨夜のうち、この町から立ち去ったはずではなかったのか。

「鬼にプロポーズした度胸は、認める。立ち直りの早さも、たいしたものだ。しかし無職の身では、デートするにも、贈り物をするにも困るだろう」

「それは、これからバイトでも……」

「だったら、ぼくが仕事を世話してやろうじゃないか」

「はっ?」

 弟として、姉にふさわしくない小僧は、遠ざけたいのだろうか。グレー・レンズマン、リック・マクドゥガルはそのままぼくを引っ張り、彼の車に押し入れたのである。

「何ですか、どこへ行くんです!?」

 彼の運転で、車は広い街路に滑り出す。白いホテルと緑の並木、その上には紺碧の空。ぼくの目にも、ようやく色彩が戻ったというのに。

「ちょうどいい就職先があるのさ。まあ、任せておきたまえ」

 何を任せろというのだ。クリスさんのいるホテルが、どんどん遠くなってしまうではないか!!

   『レッド・レンズマン』3章-4に続く

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