恋愛SF『レディランサー アグライア編』10章-4
10章-4 ジュン
あたしは走る車の中から、新たな目で《アグライア》の市街を眺めていった。輝かしいビルの群れ。広い公園や噴水のある広場。もう、逃げ隠れしながら、こそこそ覗き見ているのとは違う。
あたしの都市。
あたしの職場。
必要なら、隅々までひっくり返して観察できる。ビルを壊すことも、建てることもできる。
(うん、段々、権力者の気分になってきたぞ)
それって、結構楽しい。ユージンの手前、小難しい顔を保っているものの、実際にはわくわくしてきている。いずれ、責任の重さで潰れるかもしれないけれど。
(まあ、それまでは楽しんでおけばいいんだ。せっかく、こんな珍しい体験をしてるんだから)
大組織の持ちビルが並ぶ大通り、もっと格下の組織が持つ商業ビルや拠点ビル、そして裏通りに並ぶ娼館やクラブ、ポルノショップの類。豪華な店もあれば、最低限の設備で運営している店もある。
大型車の隊列で動き、大勢の部下や護衛を引き連れた者もいれば、数体の護衛兵だけでひっそり動く者もいる。用事を果たすらしい兵士が単独で、エアバイクで身軽に動く姿もある。
昼だというのに(人々の生活時間はまちまちだが)、派手なドレスで歩道に立って、客引きをしている女たちもいる。華やかな存在に見えるが、彼女たちは組織から監視されていて、どこにも逃げられないのだ。私有財産もなければ、休日もない。ぼろぼろになるまで働かされて、最後には処分されてしまう。
(……待っていて。いずれ何とかしてあげる。自由にはできないとしても、待遇を改善するとか、五年以上生かすとか、何か……)
あたしはそのために、この総督という立場を引き受けた。できるかどうかわからないけれど、市民社会と辺境とを結ぶ存在になりたい。少しでもそうなれたら、母が命がけで脱走してきたこと、命を縮めてあたしを生んだことが、無駄にならなくて済む。
あたしが車内から何を見ているか、わかったのだろう。カティさんがあたしの手に、そっと手を重ねてきた。あたしは嬉しくて、微笑み返す。
「ありがとう。頼りにしてるから」
すると緑の目が、嬉しそうに光る。
「わたしこそ、ありがとう……おかげで、明日に希望が持てるわ」
そうだ。欲望のために女を利用するだけの男たちには、期待できない。辺境を変えるためには、女の力が必要だ。味方を増やそう。できるだけ、たくさん。
繁華街を離れると、あとは広大な緑地だ。針葉樹と広葉樹の混合森。馬が放たれている草地。人工的に調整された季節は冬だけれど、凍える寒さというほどでもない。常春では刺激が足りないから、あえて季節の変化を演出しているのだ。
丘の麓を巡って川が流れ、遊覧用のクルーザーを浮かべた大きな湖が七つある。そのうちの一つは塩湖で、ここから流れ出す川はなく、淡水湖とは切り離されている。食用にするため、海の魚が放してあるそうだ。おかげで、新鮮な刺身が食べられるというわけ。
七つの湖の周囲には、個人の邸宅やホテルやレストランが点在している。繁華街に飽きれば、水辺で気分転換できる。違法都市であっても、人々は生活を楽しんでいるのだ。
「湖で泳いでもいいの?」
「可能ですよ。普通はみんな、屋内のプールで泳ぎますけど」
とメリッサ。ああ、夏休みには《キュテーラ》の湖でも泳いだ。ママがまだ元気だった頃。リエラの一家と一緒に、ピクニック用品を車に積んで。夏のお祭りでは、花火も打ち上げられた。今となっては、大昔のことのよう。あの頃は、自分の未来なんて、まだ霧の中だった。両親がいて、学校の宿題しか心配することがなかった時代は、なんて短かったんだろう。
でも、今はこうして辺境の違法都市にいる。ユージンとメリッサが、あたしの質問に答えてくれる。
「ほら、《ティアマト》の所有地だ」
「あそこは《黄龍》ですわ」
有力組織は広い土地を占有しているが、その拠点に何人が暮らし、どんな活動が行われているのか、《アグライア》の管理組織にもわからないという。
「建物への出入りは監視できますが、内部にまでスパイを入れているわけではありませんので」
とメリッサ。
「まあ、危険な細菌が漏れ出すようなことはないと思います。そういう研究は、もっと孤立した基地で行っていると思いますから」
「そう願うよ……」
幅広い幹線道路には、常にたくさんの車が流れている。都市の警備システムは、どの車がどこから来てどこへ行くのか、可能な限り追尾して、各組織の動向を把握しようとしているが、それでも、突発的な事件は起こる。組織同士の戦闘とか、ビルの破壊とか。
「この都市は、《キュクロプス》の一部ではありますが、ほぼ独立した小組織のようなものです。子会社というべきでしょうか。わたしたちの知らない取引や作戦が、頭越しに行われていることはあるでしょう。親会社からは子会社の内容が見えますが、逆はありません」
改めて、わかった。
(あたしたちが違法都市で逃げ回っていた時、本当の支配者たちには、全部把握されていたんだ)
ネピアさんが介入してくれたことも、アイリスが来てくれたことも。その上で、あたしは泳がされていた。きっと、練習問題を解かせるようなものだったのだ。いずれ、本番の試練を迎える時のために。
***
夕方、およその見学を終えると、あたしは車を繁華街の一角で停めさせた。せっかくだから、街の空気を知りたい。
「降りて歩こう。どこかで食事してから、ぶらぶら帰ればいい」
ユージンは肩をすくめたが、反対はしなかった。
「まあ、街の連中も、話題の総督を拝みたいだろうからな」
カティさんとメリッサが、あたしの後ろに従った。ユージンはあたしの護衛のような顔で、少し前に立つ。夜の風はやや冷たいけれど、コートはなくても大丈夫。毛皮の縁取りのジャケットを着ているし、ミニスカートの足はタイツに包まれている。スタイリストのナディーンに勧められた格好だ。あたしはとにかく、ぱっと目立つ華麗な存在でなければならないと。
「で、どんな店に行きたいんだ?」
「なるべく、一般的な店」
「お忍びというやつをやりたいのか? それは、変装でもしないと無理だな」
「じゃ、変装は明日からということにしよう」
正直、ユージンの存在が心強かった。違法都市を女だけで歩くなんて、やっぱり心細いもの。いくら周囲に《キュクロプス》の紋章を付けたアンドロイド兵がいても、彼らには判断力がない。人間に命令されなければ、本当に役に立つ行動はできないのだ。
連れ立ってビルの足元の広い歩道を歩きだすと、周囲を行き交う男たちから注目を浴びるのがわかった。ちらほらと、会話も聞こえてくる。
「おい、あれ、ジュン・ヤザキだろ」
「本物かな」
「そうだろうよ。兵に《キュクロプス》のマークが付いてる」
「最高幹部会も、ずいぶん思い切った抜擢をするもんだな」
「可愛い子ちゃんを看板にして、間抜けな市民たちを集めるってわけだ。集まった連中は、洗脳されて下働きさ」
自分の顔がひきつるのがわかった。しかし、平然としていなければ。どの方向から、誰に撮影されているか、わからない。これからはいつも、威厳を持って振る舞わなければならないのだ。
『レディランサー アグライア編』10章-5に続く