恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー ミオ編』12章
12章 紅泉
やはり、ミオの気持ちが落ち着くまでは、まだ何年もかかるのだろう。あれほど冷静な探春でさえも、繰り返し、あたしにしがみついてくるのだから。
あたしだったら、男に襲われたりしたら、まず嬉しいけどなあ。喜んで、キャアキャア騒いでしまうと思うけど。
そう言うと、探春は首を横に振る。
『あなたは、どんな相手でも撃退できる自信があるから、そう思うのよ。普通の女には、恐怖と嫌悪しかないわ』
まあ、そうなのだろう。
しかし、いくら親友にでも、普通の女ではないと断言されるのは、やや傷つくんですけど。
あたしはやっぱり、間違って女に生まれたのだろうか。
いやいや、これでもちゃんと、女らしいところはある。ただ、おおかたの男が、あたしの言動に恐れをなして、逃げ腰になるだけ。奴らはほんとに、臆病な種族だから。
まあ、ピンクのパジャマを着たミオを間近に見ると、男があたしに寄ってこないのは、無理もないと改めて思う。
こう言ったらミオは不愉快かもしれないけれど、まさしく、生きたお人形。世間には、こんな可愛い子が大勢いるのだから、男たちも、わざわざあたしなんかを口説く必要はないだろう。
「さ。おいで」
やっと泣きやんだミオを、あたしはベッドに誘った。また泣き出されると大変である。さっさと寝かしつけてしまおう。
ミオは照れ笑いのような顔をして、隣に潜り込んできた。ベッドは広いので、二人で寝ても余裕がある。
「明かりを消すよ、いい?」
「はい」
寝室を暗くして、暖かい寝具の間に潜ると、ミオが、タンクトップとショーツという格好のあたしの腕にすがりついてくる。探春と同じだな、と思ってしまった。あたしはいつも、すがりつかれる方なのだ。たまには誰かにすがってみたいと思うのは、贅沢な願いなのだろうか。
ミカエル……もしもミカエルが、あたしをあきらめずにいてくれたら……
今でもまだ、空想してしまう。青年になったミカエルが、あたしを抱き寄せてくれることを。それはもう、お互い納得して、あきらめたというのに……
「あのね、少しお話していい? サンドラが困るようなことは、なるべく聞かないようにするから」
暗がりの中で、ミオが言う。外はまだ、雨が降っているようだ。本格的な秋の訪れを告げる、寒々しい雨である。探春もおそらく、こういう晩はあたしと眠りたいだろうけど。今日のところは、ミオの方が重症だから、こっちが優先だ。
「何でも、好きに話していいよ。答えられない話題の時は、そう言うから」
本当は、ミオに余計な気を遣わせたくないのだが、辺境生まれの違法強化体という正体を告げられない以上、話題が限られるのは仕方ない。あたしには、うまい嘘なんてつけないのだし。
それにしても、腕の軽いひっかき傷、すぐさま治ってしまって自分でも忘れていたものを、ミオが疑問に思っていたとは迂闊だった。ナギのこともそうだが、こういう些細な穴から、堤防が決壊するのだ。用心しないと。
「休暇は、あと何日残っているの?」
「えー、一か月やそこらは休む権利があるんだけど、それは状況次第でね」
「何か事件が起きたら、明日にでも休暇取り消しってこと?」
「まあね。生憎と、頼りにされているもんで」
ふっと、ミオがため息をついたようである。
「次の事件にかかってしまったら、わたしのことなんか、もう思い出しもしないわね」
うーん、答えにくい。正直にそうだと答えたら、ミオは傷つくだろうしな。
「あのね、農場を作ると言ってたでしょ。それができたら、司法局宛てに知らせてくれれば、暇ができた時に遊びに行くよ」
ミオの不穏な沈黙は、それでは足りない、という意味なのか。しばらく雨の音を聞いているうちに、ミオがぽつりと言った。
「サンドラには、ヴァイオレットさんがいるものね」
これもまた、どう答えていいやらわからない。探春は親友だし、仕事上の相棒だし、探春のいない生活が考えられないのは事実。
「ミオにも友達はいるでしょ。やっぱりさ、同じ年頃の友達が大事だよ。それに、そのうちまた、ボーイフレンドもできるだろうし」
すると、ミオががばりと起き上がって叫ぶ。
「男なんて嫌い!! あんな奴ら、みんな死ねばいいのよ!! 一生、男なんかと付き合わないから!!」
まずかった。傷の深さを理解していなかった。探春でさえ、あたしが男性とのデートを勧めると、露骨に顔をひきつらせるのだから。
「ごめん、悪かった。あたしが無神経だった。ごめんね」
また泣かれると大変だ。背中を撫でて慰めようとしたら、ミオがぎゅっとしがみついてきた。どうでもいいが、女の子に抱きつかれると、ふにゃふにゃと柔らかくて、こちらが恥ずかしい。裸でない分、さっきの風呂よりはましだが。
「お願い、一緒に連れていって。何でもするから。わたし、サンドラが好きなの。離れたくないの」
さっきも泣きながら、似たようなことを口走っていたが。事件の直後にあたしに会ったので、間違った依存心を持ってしまったのだ。あたしなら、絶対にミオを襲ったり、傷つけたりしないとわかっているから。
「あのね、ミオ」
熱い体温をもってしがみつく娘の頭と背中を、そっと撫でて言う。
「ミオはまだ、事件から回復しきっていないんだ。だから、あたしがいなくなると心細いと思ってしまう。でもね、もう二度と、ああいう目に遭うことはないんだよ。モデルクラブに戻っても大丈夫だから」
「いや。もういや。自分の顔をさらす仕事なんて、もうしない」
どうやら、モデルをしていたことが悪いと思っているらしい。確かに、綺麗だから目をつけられたのは確かだと思うけど。
しかし、美しいのも才能の一つ。売れるものなら、売って悪いことはない。あたしだって、戦闘力を売っているんだから。
「それはね、たまたま悪い奴がいたからだよ。これから、どの星の支局だって、ちゃんと対策をとるからね。精神操作の技術を持った人間は、今までよりずっと監視がきつくなる。ミオは安心して、元の生活に戻ればいいんだよ」
真犯人は逮捕されていないし、法律改正はまだ先だし、類似の事件は繰り返し起こっているが。ここはこうして、励ますしかない。この若さで、ずっと家に籠もっているわけにもいかないのだから。
けれど、長い黒髪の娘は、ますます強くしがみついてきた。胸と胸が柔らかく当たって、気恥ずかしいんですけど。
あたしはやっぱり、男の堅い胸板がいい。抵抗できないバイオロイドの美青年を抱くのではなくて、あたしに惚れ込んでくれた男に抱かれてみたい。ミカエルに会った時は、やっと、その夢が叶うかと思ったのだけれど……
しかし、ミオは懸命の様子だった。悲痛な声で訴えてくる。
「いや、ちがう、ちがうの、そんなんじゃない。病人扱いしないで。子供扱いもやめて。サンドラが好きなの。他の人じゃだめなの。サンドラが遠くへ行ってしまったら、わたし、生きていられない」
そうまで言うか。困ったな。余計な手出しをせず、精神治療のチームに任せておくべきだった。ここで下手に突き放すと、本当に自殺されるかも。
対応に悩んだが、こればかりは、探春に相談しても無駄だ。探春こそ、治療が必要なくらいの男嫌いであるのだから。
男性捜査官や警護相手の政治家など、仕事で会う相手にはそつなく対応するが、あくまでも上辺の笑顔だけで、決して芯からは打ち解けない。バカンス中でも、ナンパ男には礼儀正しくそっぽを向く。
こちらがまた、そういう探春を、ずっとかばってきたのが悪いのかもしれない。男嫌いのまま、
『あなたさえいれば、それでいいの』
と満足している気配すらある。ミオまでそうなっては、人類社会の損失だ。
「よしよし、わかった。怖かったね。可哀想に」
とりあえず、しっかりと抱いて慰めた。すると、ミオの堤防が決壊したようである。ずっとこらえていたものを、しゃくりあげながら訴える。
「あいつら、笑っていたの……わたしに、ひどいことをしながら、笑っていたの……」
これは、まずい。ミオが自分の映像記録を見たがり、そのおかげで余計に傷が深くなったと、報告を受けてはいた。見なければよかったのに。
しかも中央では、人間の記憶を消すような治療は、大幅に制限されている。技術的には可能だが、そんなことをすれば、本人がその後、記憶の欠落や偽の記憶に疑問を抱き、自分で傷口をこじ開けようとすることになりかねない。あったことはあったこととして、それを乗り越えるしかないのだ。
「わたし、逃げようとしてたのに……」
男たちに手足を押さえられ、縛り上げられ、何をされたか、ミオは涙声で訴える。あたしも報告書で概略は承知していたが、改めて聞くと、やはりこたえた。よくも普通の女の子に、そんな無茶なことを。
辺境では、バイオロイドの女や子供に対して、もっとひどいことも行われているが。
それはまあ、最初から責め殺すつもりの場合だから、比較にならない。辺境の違法ポルノなど見たこともないミオとしては、想像を絶するほど、ひどいことをされたわけだ。
とにかく、そんな記憶があっては、ミオが立ち直れないのも無理はない。このままでは一生、男を避けて暮らすようになる。たとえ自殺の恐れありとして、ミオを強制的に長期入院させても、記憶を完全に消さない限りは同じことだ。これはもう、乗りかかった船。
「わかった、もう言わなくていい。怖かったね、可哀想に。なんてひどい奴らだ。あたしが殺してやればよかった」
暖かいベッドの中でミオを抱きしめ、震えがおさまるまで頭や背中を撫でた。少しずつ、ミオの呼吸が落ち着いてくる。
「ごめんなさい……ごめんなさい。サンドラに迷惑なのは、わかってるの……」
「よしよし、謝らなくていい。迷惑なんかじゃないよ」
やはり、男ではだめなのだ。女のあたしだから、ミオが安心してすがることができる。
「とにかく、休暇の間は、あたしが側にいるから。ミオがそうしてほしければ、明日も一緒に寝てあげるし」
すると、ミオはべそ顔を上げた。暗がりだが、窓の外には市街の明かりがあるので、完全な闇ではない。
「ほんと? そうしてくれる?」
人と一緒に寝るのは神経を使うが、それは仕方ない。こんなに傷ついているものを突き放したら、それこそ犯罪だ。
「うん、約束」
いつも探春にそうするように、額にキスをした。すると、ミオの手があたしの顔をはさむ。そして、唇にキスしてくる。
おいおいおい。最近の若い子は、どうなってる。
思わず年寄りの気分になって、そう思ってしまった。普段は若いつもりでいるのだけれど、それは特別製の肉体のせいで、実際にはミオの祖父母と変わらない年齢なのだから。
ミオはあたしにすがりつき、甘い吐息を洩らす。
「サンドラ、大好き」
それはいいけど、唇にキスは、こそばゆくて恥ずかしいなあ。冗談ならいいけれど、今のは相当、真剣だった気がする。
「ねえ、女の子は嫌い?」
う。泥沼にはまりそうな予感。
「嫌いじゃないけど、基本的には男の方が……」
しかしミオは、さらに困ったことを言い出してくれた。
「お願い、抱いて。サンドラだったら、何をしてくれてもいいから」
泥沼確定だ。探春の言う通り、担当チームに任せておけばよかったのに。
ミオ編6 13章 探春
経過報告に来てくれた捜査官ペアを送り出した後、一人で食事を済ませ、映画を見て、一人で入浴し、一人でベッドに潜ったけれど、眠れなかった。
仕方ないので、起き出して明かりをつける。刺繍用の枠に張った半襟をテーブルに置き、針を持ったけれど、うまくいかなかった。指が震えて、正しい位置に針が入らない。糸をほどいて、やり直ししなくては。
何度か針で指先を刺してしまい、とうとうあきらめた。棚からウイスキーの小瓶を取り出し、氷を入れたグラスに注いで飲む。こんな惨めな光景、自分でも嫌気がさすけれど。
紅泉は今頃、どうしているの。いつもわたしにするように、ミオと一緒にお風呂に入ったり、マッサージしたりしているのかしら。あの子を抱いて眠っているのかしら。
馬鹿馬鹿馬鹿。
人の気も知らないで、誰彼かまわず優しくして。
もし、明日、ミオを連れて戻ってきたらどうしよう。休暇の間中、一緒に過ごすことにした、なんて言われたら。
わたしはずっと、物分かりよく、にこにこしていなくてはならないのだ。たとえ内心では、ミオの首を絞めてやりたくても。
――あなたはまだ、若いでしょ。市民社会にいるのだから、他にいくらでも、優しくしてくれる人をみつけられるでしょ。わたしたちの間に入り込まないで。
椅子から立ち、バルコニーに出た。冬の訪れを告げるような、冷たい雨が降っている。こういう晩はいつも、紅泉の隣に潜り込んで眠るのに。
雨や嵐や雷は口実にすぎない。本当は、いつでもくっついて眠りたいのだ。でも、それでは紅泉の負担になるから、遠慮して、悪天候の日を待っているだけ。
冷たく湿った空気を吸い、自分で自分の肩を抱いた。紅泉から離れると、たちまち自分が凍てつくのがわかる。紅泉の前では優しい女のふりをしているが、本当は冷酷なのだ。大事なのは紅泉だけで、あとは誰がどうなろうと構わない。
男性恐怖症というのも、半分は、紅泉に甘えるための演技のようなもの。少女の頃はともかく、何十年もの戦いをくぐり抜けてきた今は、別に男性を恐怖してなどいない。
いえ、恐怖や嫌悪はあるにしても、それには負けない。ケダモノは、屠殺すればよいのだから。
ケダモノの命より、人間の権利が先。
でも、わたしと同じような目に遭ったあの娘は……いえ、わたしよりもひどい目と認めるべきね。
暴力犯罪の被害に遭った者は、何よりも〝安心〟を失うと知っていた。それまで普通にしていた行動が、すべて恐怖と不安で妨害される。一人で街を歩くこと、仕事に行くこと、新しい人と知り合うこと。
日常の中でびくびくし、行く手に見える人影にも、ちょっとした物音にも脅えて、疲労困憊することになる。一度あったことは、またあるのではないかと、頭より先に、全身が身構えてしまうのだ。
それは、生存本能のなす業である。頭で考えて、止められるものではない。
わたしの場合は、男性と二人きりでいることが苦痛になった。小さい子供か、よほどの老人でない限り、男性が近くにいるのは落ち着かない。相手の視線や言動に、神経が過剰反応してしまう。
過剰だと認識しても、自然にそうなってしまうのだから仕方ない。
ミオの場合も、たぶん同じだろう。街を歩いていて、キーワード一つで、何度もホテルへ連れ込まれてしまったのだ。救いのない真実を、思い知ったはず。普段は紳士面している男たちが、世間に知れないで済むと思ったら、どんな暴虐をはたらくか。
彼 らが例外なのではない。むしろ本流なのだ。つい数世紀前までは、
『女は男に尽くすのが幸せ』
『女に教育などいらん』
と公言する男たちが〝普通〟だったのだから。
女たちが迫害に負けず、手を取り合って世界規模で立ち上がったから、仕方なく、女の権利を認めるようになっただけ。
同級生の青年たちも、学校の恩師も、仕事関係の知人も、友人の父親も、もしかしたら自分の祖父や父親でさえ、男である限り、みなケダモノの仲間ではないのか――ミオは、そこまで気がついたかもしれない。
事実、昔は祖父や父親、兄に強姦される娘も多かったのだ。地球時代の統計では、女が殺される場合、通りすがりの暴漢に殺されるより、夫や恋人、男友達という、身近な男に殺される割合が多かったという。
さすがに現代の市民社会では、女性が暴力行為の被害者になることは、大幅に減っているけれど。それでもたまには、ミオやモデル仲間の娘たちのような目に遭ってしまう。
思い出しては頭を抱える、眠れずに苦しむ。ミオも、そういう地獄を歩いているに違いない。
というより、〝現実が地獄〟だと理解してしまったのだ。それは正しい認識であるから、もはや、知らなかった頃には戻れない。
男は全て、潜在的には女の敵。
そこに、紅泉が現れてしまった。絶対に自分を傷つけない相手。そこらの男など、軽く蹴散らす気迫と膂力。
ミオにとっては、まさしく、闇夜に射した光だったろう。紅泉の方も、何しろ〝天然プレイボーイ〟だから、傷ついた娘に冷たくなどできない。わたしに優しくするのと同じだけ、あの娘にも優しくする。
それは結局、ミオもわたしも、余計に苦しめるだけなのに。
ミオ編6 14章 ミオ
サンドラにしがみついたまま、緊張して小刻みに震えていた。
ここでやめるのよ。でないと嫌われる。本当に迷惑になってしまう。
でも、いま言わなければ、もう言えないという気もする。言ったら十中八、九、嫌われるけれど。
言わない限り、いずれは置き去りにされるのだ。わたしの立場は、仕事でついていけるヴァイオレットさんとは違う。
「わたし、サンドラが好き。あなたと一緒にいたいの。ずっと、一生」
そして、サンドラの上に覆いかぶさるようにして、もう一度、唇にキスをした。少なくともサンドラは、避ける動きをせず、黙ってキスされるままでいてくれる。
「お願い、抱いて。友達じゃなくて、恋人にして」
突き飛ばされてもいい。気持ち悪いと言われてもいい。とにかく、本気だということは伝えなくては。
いつも豪胆なサンドラが、さすがに、返事に悩むようだった。
「あのねえ、ミオ。そのう、光栄だとは思うんだけど……」
「やっぱり、女だとだめ?」
「えーと、そのう、絶対だめってわけじゃないけど……少しばかり、苦手かなあと……」
「それじゃ、ヴァイオレットさんとは?」
「えっ?」
「ずっと一緒にいるんでしょ。何もないの? 何もしないの?」
サンドラは、空気が足りないかのように口をぱくぱくした。
「あ、あるわけないでしょ。家族なんだからっ」
サンドラは、こんなことで嘘をつく人ではない。やはり、ヴァイオレットさんの片思いなのだ。もしかしたら、サンドラは、気づいてさえいないのかも。
たぶん、そうなんだわ。もし、従姉妹の気持ちに気づいてしまったら、何とか応えようとするはずだもの。
それなら、わたし、まだ間に合うかもしれない。ヴァイオレットさんより早く、サンドラの懐に飛び込めば。
「ねえ、お願い、わたしを試してみて。本当に、女はだめかどうか」
すがりついて、揺さぶった。
「だって、女同士の経験はないんでしょ。もしかしたら、案外、相性がいいかもしれないじゃない。やってみないとわからないわ、何だって」
暗がりの中だけれど、サンドラが閉口しているのがわかった。どうしたらこの場を逃れられるか、困り果てている。
自分でも、信じられない。こんなに捨て身の勇気が出るなんて。でも、これが本当の恋なんだわ。人間、切羽詰まったら、何でもできるってことね。
「あのね……ミオ……あんたを可愛いとは思うけど……」
「男の人が好きなのよね、わかるわ。わたしも最近まで、自分はそうだと思ってたもの。それが普通よね。わたし、頭がおかしいのかしら?」
自分では、ちっともおかしいなんて思わないけれど。男でも女でも、すてきな人はすてきな人よ。
「いや、別におかしくはないけど……それは趣味の問題で、人それぞれだから……でも、ほら、ミオはまだ、回復途中だから……」
サンドラは懸命に、わたしの下敷きから逃れようとしている。体格差があるから、腕力でわたしを押しのければ簡単だけれど、何とか納得ずくで、わたしを動かそうとしているのだ。
「わたしが、心の病気だっていうの?」
「いや、そうは言ってない……」
「遊びでもいいの。実験だと思ってもいいわ。試してみて。わたし、あなたに責任を取れなんて言わないから。今夜だけでいいの」
もう一度、首にしがみついて、キスしようとした。でも、肩を押さえられ、サンドラの肩のあたりに頭がくるよう、調整されてしまう。
「ミオ、ちょっと落ち着いて。そう焦らなくていいから」
だって。わたしには、いま、このチャンスしかない。本当にだめなら、いっそ、ベッドから突き落として。出ていけと言って。
いくら寛大なサンドラだって、我慢の限界というものがある。気持ちが悪い、と思われて無理はないのだ。わたし、ストーカーになりかけている。
ふう、とサンドラが息を吐いた。
「わかった。やってみよう」
えっ。
聞き間違いではないかと思った。でも、サンドラはきっぱり言う。
「ミオが少しでも楽になるなら、それでいい。その代わり、下手なのは大目に見てよ。何しろこの方面では、とんと経験がないもんだから」
経験がないって……まさか、男の人とも?
でも、それはさすがに聞けない。それより、本当にサンドラが抱いてくれるの。夢じゃないかしら。
「あの、ごめんなさい、困らせて。わたし、調子に乗って、無理なお願いを‥‥‥」
でもサンドラは、いったん決めたら着実に実行する人だった。わたしを車に押し込んで、遊園地に連れていった時のように。すぐさまわたしの上にかぶさって、まともなキスをしてくれる。甘くて柔らかい唇で。
いっぺんで、ズキンときた。
よく、背筋を電流が走るというけれど、本当にそうなるのね。単なる譬えだと思っていたのに、本当に、何かがびりびり全身を走るなんて。
頬や瞼に優しいキスをしながら、ぎゅっと抱きしめてくれた。気持ちがよくて、気が遠くなりそう。男性に抱きしめられると、堅い檻に閉じ込められるような感じだけれど、サンドラの場合は、もっと柔らかい。
期待で胸が詰まるようで、息が苦しくなり、思わず口を開いたところで、舌を入れるキスをされた。
これもすごい。前のボーイフレンドよりずっと上手。
それとも、わたしが恋をしているせいかしら。何をされてもビリビリくる。パジャマの上から肩や脇腹を撫でられるのも、前髪をかきわけられるのも、ぞくぞくするほど気持ちいい。
つい息が荒くなってしまって、恥ずかしいけれど、サンドラは真剣そのものだった。わたしの頬から喉へキスをずらしていって、パジャマの上から胸のふくらみを撫でてくれる。サンドラは空手で鍛えているはずなのだけれど、それでも男の人の指より、ずっと繊細で柔らかい触れ方をする。
「大丈夫? 怖くない?」
と聞かれたのも嬉しかった。
「へいき。サンドラなら、怖くないから」
そうしたら、きゅっと胸をつかまれた。そう強くではないけれど、ずきんとくる。
「これも平気?」
だめ、平気じゃない。そこは、一番感じやすいところだから。柔らかく握られて、揉まれるような動きをされると、おかしくなりそう。息が弾んでしまう。声が出てしまう。はしたないかもしれないけれど、我慢できない。
わたしが感じているのがわかったのだろう、サンドラは続きにかかってくれた。パジャマの前を開いて、胸にキスしてくれる。もう、天国みたい。指や唇で、そっと乳首をくすぐられただけで、のけぞって悲鳴のような声をあげてしまう。
サンドラはわたしの喉や胸にキスを続けながら、脇腹から腰、太腿を撫でてくれる。決して乱暴な動作はしない。慎重に、でも確実に気持ちのいい触れ方をしてくれる。
経験がないなんて、嘘でしょ?
ああ、そうなのかもしれない。女だから、女の望むことがわかるんだわ。自分ならこうして欲しいと思うことを、わたしにしてくれているのかも。
慣れない苦労をさせて申し訳ないけれど、でも、わたしは何をされても感じてしまって、気持ちよくて、声が止まらない。サンドラにだったら、安心して全て預けられる。パジャマの下を脱がされても、脚の内側を撫でられても、ただ嬉しいだけ。
「ここ、触ってもいい?」
耳元でささやきながら、優しく窪みをなぞってくれる。下着の布越しに、優しい指が感じられた。優しすぎて、じれったいくらい。もっと、深くしてくれてもいいのに。
サンドラは懸命に努力しているのだろうな、と思うけれど、こちらはもうとろけてしまって、ひたすら次の動作を待ち望むだけ。
サンドラはわたしが怖がっていないか、嫌がっていないか、何度も確かめながら、優しく愛撫してくれた。サンドラの髪がわたしの肌の上を滑るのも、気持ちいい。わたしの髪は半端なウェーブがついているのでパーマで整えるしかなく、さらさらの髪は憧れだった。
背の高さも、腕力も、神話のアルテミスのような美貌も、何もかも、サンドラはすてき。
わたしを裏返して、背中にも丹念なキスをしてくれた。そのうち、わたしの腰をぐいと持ち上げて、後ろから下着の隙間に指を入れてくる。もう片方の手は、他の部分を愛撫してくれる。
下手だなんて、どこの誰のこと。男の人より上手。恥ずかしいけれど、ぐっしょり濡れてしまっているのがわかる。溶岩が流れ出す噴火口のように、芯が熱い。
「もう、もうだめ、死にそう……何とかして」
と頼んだ。本当は、このまま夜明けまで責め続けてほしかったけれど、サンドラ自身はおそらく、何も楽しくないだろうから。
サンドラはわたしを仰向けに戻すと、唇にキスしてくれてから、ささやいた。
「どうしようか、本格的に指を入れてもいい? それとも、何か探して使おうか? あんまり大きくないものを」
わたしが怖い思いをしないように、気を遣ってくれている。あのケダモノたちとは、全然違う。
「指にして……」
わたしが頼むと、サンドラはそうしてくれた。わたしの反応を確かめながら、痛くないように、慎重に。
痛いどころか、全身がとろけていて、指では物足りないくらい。もし次の機会があるなら、その時は、何か道具が欲しいかも。サンドラなら、わたしが怖いと思うことは絶対しないもの。
でも、サンドラは器用だった。指だけでちゃんと、わたしを満足させてくれた。わたしが高く叫んでしまい、甘い痙攣を味わっている間、指を入れたまま、じっと待っていてくれた。それからそろそろと離れて、ティッシュを持ってきてくれ、わたしの脚の間をぬぐってくれる。
「大丈夫?」
わたしはぐったりしたまま、目尻に涙を流していたけれど、それは幸せだったから。片思いなのはよくわかっているけれど、それでも、サンドラに会えてよかったと思う。
「ありがとう。とってもすてきだったわ」
と言うと、サンドラは安心したように、わたしの横に寝そべった。気がついたら、サンドラは寝間着代わりの下着を着たまま。わたしだけが一方的に奉仕されて、天国に行ったのね。サンドラはずっと、地上で苦労していたんだわ。
「ごめんなさい。疲れたでしょ。あの、わたしも何かしましょうか」
でも、それはサンドラには、迷惑でしかないらしい。
「それはいいんだ。気にしないで。ミオが満足したなら、それでよかったよ」
どうしよう。わたしには、何もお返しができない。一方的に甘えるだけなんて。これでは長続きしないわ。何か、サンドラの役に立つことができないかしら。
そう言うと、サンドラは笑った。
「そうだね。仕事のパートナーはヴァイオレットがいるから、ミオにその気があったら、身の回りの世話でもしてもらおうかな」
「してもいいの!?」
それはきっと、ヴァイオレットさんが嫌がるわ、と思った。それでも、サンドラの側にいたい。そのためなら、誰に嫌われても仕方ない。
「ま、それはまた明日。もう一度、お風呂に入ってきたら」
一緒に入ろうとは言われなかったけれど、それは仕方ない。わたしはシャワーでさっと躰を流してきて、再びパジャマ姿でサンドラの横に潜り込んだ。そして、サンドラの腕に腕をからめると、安心して、すぐに寝入ってしまった。このまま永遠に、夜が明けなければいいのにと思いながら。
ミオ編6 15章 紅泉
妙なことになったものである。まさか自分が、女の子を抱く羽目になるとは思わなかった。よもや、この指を他人の体内に入れることになろうとは。
自分ではもちろん、自分なりに欲求を解消しているけれど。〝される側〟に廻る空想が好きだなんて、たとえ探春にでも絶対言わない。
これでも女なので、女がどう感じるか、どうして欲しいかはよくわかる。ただ、それをミオにしてやったところで、あたし自身は別に面白くないのである。
いや、面白くないからこそ、冷静にそうしてやれるのか。
SMの専門家の著作によれば、真に快感をむさぼるのは、責める側より、責められる側なのだという。責める側は、実は、責められる側の無言の欲求を汲んで、その通りに動くだけなのだと。
愛情からであれ、プロ根性からであれ(希望者が集まって、そういう行為を楽しむクラブは、市民社会でも合法である。当然、指導力を持つ熟練者や、セミプロというものが存在する)、責める役割を引き受けた側には、相手の状態を見極める、冷静な判断力が必要なのだという。
この場合も、似たようなものだろう。他のことを忘れて耽溺したいのはミオなのだから、こちらが冷静なのは当然ということになる。
まあ、ミオが堪能してくれたようで、よかった。谷間はたっぷり潤んでいたし、絶頂に達した時の痙攣は、この指で確かに確認したから。
あたしって本当に、プレイボーイの素質があるのかも。
しかし、男というのは、大変な苦労をするものだと改めて感心した。お世辞を言って女につきまとい、さんざん頼み込んで、やっとのことで、こういう奉仕を〝させていただく〟とは。
まあ、本当の男だったら、挿入という目的が果たせるわけだから、そこまでの過程も楽しいのだろうけれど。
ただの男役のあたしは、職人的な反省をするのみ。もうちょっと、じらしたり意地悪したりしてもよかったかな? ちょっとくらいは、小道具を使ってもよかったかも。でも、それでミオが怖がってはいけないし。
ミオはぐっすり寝入っていたが、あたしはそっと起き出して、窓から外を眺めた。雨が降り続いて、街の明かりがにじんで見える。深夜ではあるが、たまに車の行き来はあった。都会というのは、完全に眠ることはない。
探春がいるホテルは、ここからは見えないが、すぐ近くだ。明日の朝、どんな顔をして探春と会えばいいだろう。何もなかったような、平然とした態度がとれるかどうか。
うーん。きっと、浮気をした男というのは、妻の所へ帰る時、こういう気分なのだろうな。
探春は別にあたしの妻ではないけれど、でも、似たようなものかも。何十年も一緒に暮らしていて、あたしのすること、考えることは、大抵お見通しである。もしも気づかれて、怒られたらどうしよう。
『ミオを励ますのはいいけれど、いくら何でもやりすぎよ。それは、間違った同情というものだわ』
しかし、あれほど身も世もなく泣くものを、突き放せるわけがない。ミオの気が紛れるのなら、別にいいではないか。妊娠の心配もないわけだし。
そもそも、いつも探春にしていることと、程度の差はあれ、同じことではないだろうか。風呂で全身を洗ってやるのも、ベッドで愛撫するのも似たようなもの、と言ったら、探春は怒るかもしれないが。
どちらにしても、あたしは男の代用をしているだけだ。探春もミオも、本物の男を嫌悪するから。
どう考えても、おかしい。間違っている。可愛い女は男が嫌いで、男に敬遠されるあたしが男好きというのは。
だいたい、世間の男どもが悪いのだ。ちゃんと女に優しくしないから、女が脅えたり落胆したりして、男嫌いになるのではないか。モテないから女に優しくできないのか、優しくできないからモテないのか、ニワトリと卵だけど。
***
翌朝、あたしはいつものように夜明け前に起きた。ミオを起こさないよう、居間で静かにストレッチをし、筋力トレーニングをし、シャワーを浴びる。
雨はもうやんで、雲が薄れているから、じきに日が差すだろう。昨日の服を着て、身支度を済ませた。ミオが起きるのを待って朝食にするか、それとも先に食べるか考えていると、寝室のドアが開いて、パジャマ姿のミオが顔をのぞかせた。
「おはよう」
と照れたように言う。顔色はいい。長い黒髪がくしゃくしゃ乱れているのも、可愛い。
「おはよう。よく眠れた?」
「ええ。サンドラ、早起きなのね」
「ミオはまだ、寝てていいんだよ」
「いえ、いいの。一緒に朝食したいから」
それで、ミオが身支度している間、あたしは観光マップで朝から開いている店を探し、三人分の食べ物を注文した。配送チューブですぐに届いた料理を、あたしがテーブルに並べようとしていると、ミオが昨日の白いニットドレスで現れて、
「わたしがします」
と張り切った様子で言う。任せておくと、いそいそと皿を並べたり、バターやジャムの容器を開けたり、コーヒーを注いだりして、立ち働く。
元々、家庭的な娘なのだろう。探春も、本当はそうなのだけれど。あたしがハンター稼業を選んだせいで、血生臭いことに慣らしてしまって、探春には申し訳ないといつも思っている。この上ミオまで、そんな世界に引き込みたくないんだけど。
ミオはまだ、あたしを捜査官だと思っているからなあ。ハンターだと教えたら、それこそ探春に叱られる。
『普通の人間が、あなたについてこられるはずがないでしょう。深入りさせてはだめよ』
ごもっとも。違法都市で生まれ育ち、相当に気丈な探春ですら、しばしば疲労のため息をついているのだから。
あたしはテーブルについて、ミオと差し向かいで朝食にかかった。香ばしいバタートースト、とろりとしたチーズオムレツ、南瓜のポタージュ、オレンジジュース、コーヒー、野菜を添えたベーコンエッグ、こんがり焼いたソーセージ、トマトと隠元豆のソテー、コーンサラダ、苺やメロン、洋梨の盛り合わせ。
「サンドラ、毎回それだけ食べて、ちっとも太らないのね」
とミオが感心する。
「全部エネルギーになるんだ、基礎代謝が高いから」
「鍛えているのね」
戦闘用強化体なので。長いことじっとしていると、むずむずしてきて我慢できない。あたしの肉体は、暴れ回るようにできているのだ。しばらく平和なバカンスをしていると、戦場の緊張が恋しくなってしまう。退治するべき悪党がいないと、エネルギーの行き場がないのだ。
いつか、人類社会が完全に平和になったら、よその銀河を探険しに行くしかないだろうな。
「さて」
食事が済み、ミオがいそいそ後片付けをしてくれると、もうこの部屋にいても仕方なかった。探春が待っているだろう。
「あたしの荷物は全部あっちのホテルにあるんで、あっちへ帰らないと。ミオも来るでしょ」
と手を差し伸べた。昨夜、あれほどあたしにすがりついて、泣いたり笑ったり、夢中のあえぎ声をあげたりした娘である。たとえ傷心ゆえの錯覚であろうと、あたしに対する好意は強いらしいし、ああいうことをしてしまった以上、こちらにも責任がある。
ミオが望む限りは、なるべく一緒にいてやるべきだろう。そうすれば、そのうち本当に元気になって、あたしを卒業するのではないか、と思うし。
「行ってもいいの? 本当は、迷惑よね。わかっているの。ごめんなさい」
ミオが悲しげな顔をするので、慰めるしかない。
「あたしたちの仕事について、まずいことは聞かない、他所でしゃべらない。それが守れる限りは、一緒にいていいよ」
ミオは晴れやかな笑顔になって、あたしにすがりついてきた。
「ありがとう。なるだけ、いい子でいますから」
外の天気も、さわやかな秋晴れになっていた。雫を宿した街路樹は、わずかに紅葉を始めている。
「あの、お願いがあるんだけど、いい?」
出勤や通学の人々に混じって朝の街路を歩いているうち、ミオが言い出した。
「サンドラのホテルに置いてくれるのなら、いったん家に戻って、着替えや何かを取ってきたいんだけど……一緒に行ってくれる?」
それだけの間でも、あたしから離れるのが心細いらしかった。そこで、あたしたちはタクシーでミオの家に行く。むろん、ナギの車が離れてついてくる。
首都のはずれに近い、静かな住宅街の一角である。見渡す限り、銀杏と桜、楓の街路樹が交互に植えられ、手入れのいい庭に囲まれた、ほどよい大きさの家が整然と続いていた。
温室と一体のプール、犬たちが遊ぶ芝生の前庭、薔薇のアーチ、ジャスミンの巻きついたフェンス、子供用のブランコや滑り台。まさしく、子供時代のあたしが憧れていた、平和な理想郷。
ミオについて玄関から居間に入ると、ニュース番組を見ていた美少年が、ソファから立ち上がった。カールした黒髪で、つぶらな黒い瞳、顔立ちがミオによく似ている。大学生と聞いていたが、ほっそりしていて、まだ少年という風情だ。それでも、姉のことを心配していたらしい。
「姉さん、外泊の時は連絡してくれよ。気になるじゃないか」
と真っ先に言う。事件のことは知らないはずだが、やはり、ミオの様子がおかしいのは察していたのだろう。
「ごめんなさい。うっかりしていて、悪かったわ。お友達の所に泊まったの。サンドラ、弟のタケルです」
「よろしく」
とにっこりすると、白いシャツの似合う坊やは、やや緊張した様子。
「あ、初めまして。姉がお世話になっています」
と直立不動で言い、ぺこりと頭を下げる。どんなお世話か知ったら、目を回すかもしれない。
「どういたしまして。会えて嬉しいな」
あたしはつい、獲物を見る目でにんまり、美少年を見てしまったらしい。彼は握手をすませると、すぐさま逃げる態勢になった。
「パーシスを呼んでくるよ。まだ家にいるはずだ。サンドラさんに会いたがっていたから」
ほほう。あたしは期待されているらしい。ミオが自分の部屋で着替えや身の回り品をまとめているうち、パーシスという青年がやってきた。
「やあ、あなたがサンドラさんですか」
こちらはすらりとした、理知的な印象の伊達男である。焦がしバターのような褐色の肌で、さらりと分けた金茶色の髪、鳶色の瞳。あたしと変わらない身長があり、あたしを見る目に期待と興奮の色がある。
これはもしかして、脈があるのでは。男の子の恋人がいても、あたしは一向に構わないからさ。
「初めまして、パーシス・ウェインです」
がっしりした手を差し出して、熱のこもった握手をしてくれる。タケルと違って、あたしに脅えたりしない。
「ミオから話を聞いて、お会いできるのを楽しみにしていたんです。ミーハーですけど、私立探偵なんて、実際にお目にかかったことがないんです。色々、危ないこととかもあるんでしょ?」
なるほど、仕事に対する興味か。まあ、きっかけは何でもいい。
「まあ、たまにね。大抵は家出人を連れ戻すとか、夫婦喧嘩の仲裁とか、浮気調査とか、そんなもんだけど」
「面白そうだなあ。守秘義務があるんでしょうけど、さしさわりのない範囲で、聞かせてくれませんか。空手もお強いとか」
「ま、そこそこ」
「ますますいいなあ。ぼく、強い女の人、大好きなんです」
うーむ、嬉しいことを。思わず、期待を持ってしまうではないの。
あたしとパーシスが別荘行きについてしゃべっている間、タケルがコーヒーを運んできてくれた。ミオは大きな旅行バッグ三つに、荷物をぎっしり詰めて二階から降りてくる。
「何だい、それは。引っ越しか」
パーシスが呆れたように言うと、ミオは助けを求めるようにあたしを見た。
「あー、えーと、別荘行きだけの荷物じゃなくてね。どのみちミオは、しばらく、あたしの所に泊まりに来ることになってるんだ。姉さんを借りるよ、タケル」
あたしは美少年にウィンクしてみせた。タケルはパーシスと顔を見合わせ、ミオは正直に顔を染めている。はたして彼らに、どう思われたことか。
結局、今夜はウェイン家の別荘に泊まりにいく、と約束して、いったんホテルに引き上げることにした。待たせておいた車に荷物を積んで、あたしは内心、脅えている。違法組織を怖いと思ったことはあまりないが、探春の機嫌だけは怖い。ミオを連れて戻ったら、探春が怒るんじゃないかなあ。
ホテルに着くと、探春は着物姿で刺繍をしていた。この間買ったばかりの、薄紫とベージュの花模様の着物に、濃い赤紫の帯を締めている。
「まあ、きれい」
とミオが感嘆の声をあげたのは、着物姿に対してと、緻密な刺繍に対してと、両方の意味だろう。まさしく、一幅の絵のような情景である。
「お帰りなさい」
長い茶色の髪を夜会巻きに結い上げた探春は、にっこりした。髪に挿してあるのは、お気に入りの翡翠の簪だ。
「これはあなたの差し入れね。後で頂いてもいいかしら」
テーブルの上の箱は、ケーキか何からしい。
「あ、はい、お口に合うといいのですけど」
ミオもやや緊張しているようで、態度がぎこちない。ここは、あたしがうまく説明しないといけない。
「あー、えーと、しばらくミオを泊めてもいいかな。といっても今夜は、温泉に浸かりに行く約束をしてきたんだけど」
パーシスたちの話を聞くと、探春は微笑んだ。
「まあ、嬉しいわ。温泉は大好き。ハンサムが二人もいるなんて、なおすてき」
しかし、あたしはまだ怖い。探春が、本当には笑っていないから。ミオが席を外したら、何を言われるか。
「あー、ミオ、こっちがあたしの寝室だから、ここで荷物を広げればいいよ」
ミオを寝室の一つに案内し、あたしの荷物をどけてクローゼットに場所を作ってやってから、そっと探春の側に戻った。ミオに聞こえないよう、低く言う。
「ゆうべはごめん。ミオが不安定だったんで、つききりで。もうしばらくリハビリしないと、手を離せないと思うんだ」
探春は依然、不自然な笑みのままだった。
「そうだと思ったわ。あなた、いつも女の子に優しいから」
それが、とても悪質なことのように響く。
「探春、怒ってる?」
「あら、どうして。いいのよ、何でもあなたの思う通りにして。これから順次、ハレムの人員を増やしていくつもりなんでしょ」
ひええ。これは相当、ご機嫌を害している。
「だからさ、ミオの心のリハビリ……」
「このぶんだと、いずれ、仕事にも連れていくことになるわよ。その時こそ、本当にリハビリが必要になるわね」
それを言われると痛い。確かに、普通の娘には耐えられないだろう。違法組織との戦闘の現場など。司法局長にまで昇りつめたミギワだって、新米捜査官として初めて違法都市で事件に遭った時には、うろうろ、まごまごし、半泣きになっていたのだ。
「その時は、もちろん、ナギをつけて安全な所に置いていくよ」
「ミオがおとなしく、留守番に甘んじればね」
うーん、また泣かれるのは困る。しかし、核ミサイルの炸裂だの、捕虜の尋問だのを間近に見たら、それこそミオの神経が保たないだろうし。
「とにかく、この休暇の間はここに泊める。もし探春が不愉快なら、別に部屋を取ってくれれば……」
ぎょっとした。探春の顔が白くなっている。元々色白だけれど、血の気が失せているのだ。初めて会った時のミオのように。
「どうしたの、貧血!?」
探春は細くても丈夫で、はるか昔、生理痛でちょっと寝込んだことがあるくらいだ。あたしは生理が軽いので、そんなに痛かったり辛かったりするのかと、びっくりしたものだけれど。
「いえ、ちょっと寝不足なだけ」
まずかった、と思う。やっぱり、探春も一人にしてはいけなかったのだ。雨の晩はよく、あたしのベッドに入ってきたがるのだから。
「ごめん」
思わずぎゅっと抱きしめると、最初、くたりと崩れるような気配があった。ところが、探春はすぐにしゃんと背を伸ばし、あたしを押しのけるようにして身を離す。
「髪が乱れるから、触らないで」
と冷たく言い、顔をそらせたままで、自分の寝室に去っていく。
「別荘に行くんでしょ。支度をするわ。山の中なら、着物じゃない方がいいわね」
弱った。もしかしたら、あたしは非常にまずいことを引き受けてしまったのかもしれない。探春がそんなに、ミオのことを気に入らないのなら。
ミオ編7に続く
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