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SF小説『ボトルペット』5章

5章 リュス

「ここにいてもいいが、きみを隠してくれる霧は、もう出ないよ。おじさんも、もう来ることはない。病気が治って、退院してもね」

「どうして。おじさんは、いつもたくさん、お土産を持ってきてくれるんだ」

 そして、ぼくに色々な話をしてくれる。待っていたのに。毎日、毎日、いつ来てくれるのかと。

「おじさんは、きみを騙していたんだよ。本当は、戦争などないんだ」

 言われたことが、よくわからない。

 さっきは戦争が終わったと、言ったじゃないか。

「山の向こうに、戦争などないんだよ。そもそも、きみには、お父さんもお母さんもいない。全て、あの男の作り事なんだ」

 何を言っているんだ。頭がおかしいんじゃないか。でも、あの乗り物には、操縦している兵隊がいるようだ。頭のおかしい男を、わざわざ送り届けたりするものだろうか。

 ぼくが突っ立っていると、男は続けて言う。

「信じられないのも、無理はない。生まれた時からずっと、騙されていたのだからね。わたしはいったん引き上げるが、また来るよ。この晴れがずっと続いたら、きみにもわかるだろう。これまでの霧の方が、おかしかったのだとね」

 何度試しても、出られなかった霧の谷。

 それがいま、青く晴れた空の下、まぶしい日の光に照らされている。

 男の乗った、ヘリコプターという乗り物は、山を越えて消えていった。あの山の向こうには、ただ町と海があるだけで、戦争など、一度も起きたことはないのだという。

 それから十日を数えたが、霧は一度も出ない。毎日、朝になると青空が広がる。思い立って、山に登ろうとしたら、それもできた。これまであんなに迷ったのが嘘のように、細い山道をたどって、尾根を越えられた。

 本当だ。山を下った先の平地に、小さな町が見える。そして、その向こうに広がる海も。海は青く輝いて、どこまでも続いている。

 そのままどんどん、山道を下った。森を抜け、畑を抜け、白い建物が並ぶ町に近づいた。子供たちが、走り回って遊んでいる。大人たちが、呑気にしゃべりながら通る。どこにも、爆撃の跡なんかない。ぼくを捕まえようとする兵隊もいない。

 その子供たちの中から、一人の少女が抜け出てきた。まっすぐぼくの前に来て、にっこりする。白いブラウスに、青いスカート。褐色の肌。

「こんにちは。あなたがリュスね。わたし、スーリヤというの。わたしが町を案内するわ」

 女の人は、母さんしか知らなかった。でも、本では読んでいた。世界には、男の子や女の子、赤ん坊や老人がいることを。

「どうして、ぼくのことを知っているの」

「あなたが来るのを、待っていたのよ。あなたはずっと、騙されていたんでしょう。わたしもそうなの。ここは、騙されていた子供たちが、助け出されて保護されている場所なの」

 騙されていた子供。

 この、スーリヤも。

 彼女はぼくを連れて、町の診療所へ向かった。そこには、ぼくをヘリコプターで迎えに来た男がいた。白衣を着て、手に飲み物のカップを持って。

「やあ、リュス。きみは自分で、真実を確かめに来たね。それでいい」

 彼はぼくとスーリヤを待合室の椅子に座らせ、説明を始めた。

「きみがおじさんと呼んでいた男は、きみを騙して、閉じ込めていた罪で逮捕されたよ。だから、もうきみに会うことはない」

 逮捕。罪。言葉はわかるが、意味が通らない。

「大丈夫よ、リュス。これから、わかるようになるわ。わたしもそうだったの。ずっと砂漠のオアシスに閉じ込められて、そこが全世界だと思っていたの。でも、そうじゃなかった。世界はもっと広いのよ」

 スーリヤが横のテーブルから透明なグラスをとりあげ、ぼくに手渡した。半透明の液体。勧められて飲んでみたら、酸っぱいけれど、甘さもある。知らなかった味だ。

「レモネードだよ。これから、きみが知らないことをたくさん教えてあげよう。きみは今日、世界に生まれたのだよ」

 生まれた? どういう意味で?

「きみはこれまで、霧の底の世界に閉じ込められていた。それを今日、自分で歩いて抜け出したのだ。本当の世界へ」

「本当の世界?」

「すぐには信じられないだろう。しかし、じきに納得できるはずだ。きみのいた世界は、小さな箱庭だった。きみがおじさんと呼んでいた男が、きみを創り、そこへ閉じ込めていたのだよ。きみがどうやっても、霧の谷から出られないように細工してね。だが、我々が通路を連結して、きみを脱出させた。それが、我々の仕事なんだ」

 この男は、何を言っているのだろう。谷から出られなかったのは、ぼくが正しい方向を選べなかったからだ。谷がいつも、霧で閉ざされていたから。

 ……でも、その霧が十日も出なかったから、ぼくは……あまりにも簡単に、山を越えられた……もっともっと、険しい山だと思っていたのに……

「きみを閉じ込めていた男は、きみをペットにしておきたかったのだ。きみが自分を慕い、頼ることが、彼の自尊心を満足させていた。だから、他人にはきみのことを教えなかった」

 まだ、話がわからない。

「ペットって……何ですか」

 ぼくは山羊を飼っていた。乳をもらうために。それとは違うのか。

「愛玩するために、手元で飼う生き物のことだ。その男は、きみを飼っていたのだよ。秘密の谷間に閉じ込めて」

「ぼくは、母さんに連れられて、あの土地にいたんです」

「だが、生まれた村のことは覚えていないだろう。それに、一人になってから、何年経っているかわかるかね?」

 わからない。日を数えてはいない。でも、そんなに長くはない。ぼくはまだ、少年のままなのだから。

「きみを飼っていた男は、老衰して判断が甘くなっていた。だから我々が、きみを発見できたのだ」

「おじさんは、年寄りじゃなかった」

「そう、彼は、きみの前に出る時は、中年の男の姿をとっていた。きみは何十年も、彼の囚人だったのだよ。我々の時間での、何十年だ」

 我々の時間?

 それは、ぼくの時間とは違うというのか。


   『ボトルペット』6章に続く


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