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恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 天使編』8章-1

8章-1 ミカエル

 幸せなのに、苦しくてたまらない。

 毎日、リリーさんの姿を見られて嬉しい。会話できて楽しい。それなのに、別れの日が近付いている。自分でも落ち着かず、何度も無駄に舞い上がったり、そこから落ち込んで絶望したりする。

 あと十日。あと一週間。あと三日。

 船は中央星域を離れ、無法の辺境に入っていた。大小様々な違法組織の占有する領域を避けながら、目的地に向かっている。他組織の艦隊と行き合うこともあるが、こちらも無人の護衛艦隊に囲まれているので、トラブルは起きない。互いに無視して、通り過ぎるだけ。

 リリーさんがぼくを預ける先に選んだのは、リリーさんが信頼する、身内の女性だという。何でも、リリーさんやヴァイオレットさんの遺伝子設計をした人物だとか。

「姉さまは辺境でもトップクラスの科学者だから、ミカエルの治療は任せて大丈夫。姉さまの元で、いい子にしていてね。またそのうち、暇ができたら遊びに行くから……」

「はい」

 リリーさんは司法局から必要とされている身だから、次に長い休暇を取れるのはいつのことか、わからない。その時には、ぼくのことなんか、綺麗さっぱり忘れているかもしれない。

 でも、ぼくは、寂しいとも、必ず会いに来て下さいとも言えない。

 だって、何の権利があるというのだ。リリーさんは、旧友の司法局長に頼まれたから、ぼくを送り届けてくれるだけ。〝病気の子供〟に対する好意にすぎない。

 だけど、もし、いつか……

 ぼくが成長して一人前の男になり、十分な準備ができたら、リリーさんのために何かできるのではないか。新鋭艦を設計するとか、秘密兵器を作るとか、情報集めや裏工作をするとか……そういうことならば。

 そう思って、自分を励ましていた。脳腫瘍から解放されるだけで、十分に素晴らしい幸運なのだから、この上、贅沢やわがままは言えない。リリーさんは、ぼくなんかに手の届く人ではない。

 とうとう、明日には目的地に到着する、という日になった。夕食の後、ヴァイオレットさんは先に自室に引き上げてしまったので、ぼくはリリーさんと二人、ラウンジに残って話している。

 目の前のテーブルにはチョコレートの盛り合わせと、二杯目の紅茶。深い紫色のドレスを着たリリーさんは、親切にあれこれと言ってくれる。

「ミカエルはきっと、姉さまに気に入られると思うわ。姉さまから色々教わって、ゆっくり進路を決めればいいのよ」

「はい、そうします……ぼくが、ご迷惑でなければいいのですが」

「そんなこと、心配しなくていいの。ミカエルはいい子だもの。姉さまだって、可愛がってくれるはず」

 そうだろうか。二百人あまりを殺して、そのことを、微塵も後悔していないぼくなのに?

 確かに、反逆の計画を立てたのは、二つ年上のウリエルとガブリエルだった。ぼくは後から引き込まれたのだが、積極的に協力したことは間違いない。それに、ぼくはラファエルを見捨ててきた。同じ部署に配属され、ぼくを慕ってくれた年下の少年を。

『ミカエル、ありがとう』

『ミカエルは、何でもよく知っているんですね』

『ミカエルは、この基地の外に出たことあります?』

『海って、本当に塩辛いんでしょうか?』

『地震って、本当に地面が揺れるんでしょうか?』

『いつか、惑星に降りられたらいいなあ』

 素直な彼を陰謀に引き入れるのは、危険が大きかった。仲間が増えれば、それだけ秘密が漏れる可能性も高くなる。あの子はあの日、小惑星基地のどこかで冷たくなっていたはずだ。ぼくに裏切られたことも知らないで。

 後悔するとすれば、そのことだけ。

 それはこれまで、誰にも言わないできた。同情されても、責められても、事実は変わらない。ぼくは他人を犠牲にして、生き延びた。これからだって、生き延びるつもりだ。病気さえ治れば、何でもできる。

 再教育施設では、ぼくたちの知力は、人間の天才レベルだと評価された。たぶん、そうなのだろう。科学技術局でも、周囲にいた人間の研究員たちは、たいした能力を持っていなかった。中央だろうが辺境だろうが、ぼくならば、そこに適応して生きられる。

 それに、今度からは、心の中の神殿にリリーさんを住まわせることができる。それだけでも、孤独がうんと楽になる。そのはずだ。

「……そういえば、ぼくたち、滝を見なかったですね」

「ん? ああ、そうか。吊り橋から落ちて、そのままだったね」

 あそこから百メートルも上流に行けば、滝にぶつかっていたはずだ。あの狙撃がなかったら。もう二度と、あの時、あの場所に戻ることはない。桜の咲く山道。菫や山吹の花。青みがかった黄昏。

「今度、どこかのリゾート星に行こう。そしたら、滝でも何でも見られるから」

「いいですね。楽しみです」

 そんなこと、本当にあるんだろうか? 別れたらもう、二度と会えないのでは? いつかまた、というのは、別れをごまかす修辞に過ぎないのでは?

「お下げしますか」

 ナギが来て、空になったカップを運び去った。ぼくもそろそろ、部屋に引き取る頃合いか。立ち上がって、おやすみなさいと言おうとした時、ぽつりと、リリーさんがつぶやいた。

「ああ、今日まで本当に楽しかった……寂しくなるわ。ミカエルがいない毎日なんて」

 どきんとして、硬直してしまった。本気にするな。社交辞令だ。たいした意味はない。

 なのに全身がかっと熱くなり、また冷たくなり、がくがくと震えがくる。

 ――ぼくだって、言いたい。叫びたい。リリーさんと別れるのは、寂しくてならないと。

 本当は、泣いてわめいて、リリーさんにすがりたい。何でもしますから、傍に置いて下さいと哀願したい。

 リリーさんがぼくを預け先に置いて立ち去ってしまったら、毎日、どれほど苦しくなるか、今からわかる。毎日、中央のニュース番組を見て、〝リリス〟の活動の様子がわからないかと、そわそわ、やきもきするだろう。報道されたらされたで、もっと詳しいことが知りたくなり、あれこれ調べようとしてしまうだろう。

 期待を持つということは、すっかりあきらめるより、はるかに苦しいことだ。あきらめられたら、楽になるのに。

 でも、何にも未練を持たなくなったら、それは、生きながら彼岸にいるのと同じこと。悟りなんか開くのは……まだ遠い未来でいい。苦しんでいることが、生きていることだ。

 リリーさんはぼくを船室の前まで送ってくれ、そこでおやすみを言い、円周通路を遠ざかっていく。ぼくはその姿が見えなくなるまで、立ち尽くしていた。

 本当は一晩中でも眠らずに、ずっとリリーさんを見ていたい。明日の今頃は、ぼくは知らない場所でベッドに入るのだ。麗香さんという人が、内心でぼくを迷惑だと思っていても、表面上はきっと、そつなく対応してくれるのだろう……

 リリーさんの足が止まり、ゆっくりとこちらを振り向いた。ぼくは客室の戸口に立ったままでいる。

 次の瞬間、リリーさんがずかずかと大股で戻ってきた。怒ってでもいるかのように、肩をいからせて。

「どうせなら、玉砕した方がましなんだ!!」

 信じられないことが起きた。リリーさんが身をかがめて、ぼくの肩を捉え、揺さぶって、低く叫んだのだ。

「あたし、ミカエルを離したくない!!」

 頭が白くなり、思考が吹き飛んだ。口が勝手に、言葉を送り出す。

「ぼくだって……ずっと貴女といたいです!!」

 そうだ。本音を言って、何が悪い。もう、明日でお別れなのだから。

「ずっとずっと、貴女と暮らしたいです。貴女の行くところ、どこにでも一緒に行きたいです」

 どうせ、失うものは何もない。精々、ヴァイオレットさんに、余計に嫌われるくらいだ。

 あの人こそ、リリーさんのためだけに生きている。だから、リリーさんを慕うぼくが、目障りで仕方ないのだ。言葉は丁寧だけれど、針のような敵意が、ちくちくとこちらの肌に突き刺さる。

 だけど、もはや二度と会わないかもしれない人に嫌われても、どうということはない。リリーさん以外の人間のことは、ぼくにとって、かなりどうでもよくなっている。

 ぼくには、リリーさんのような人類愛は持てないから。自分が憧れる相手でなくては、意味を持たないのだ。

 リリーさんが、怖いような眼でぼくを見据えている。

「……ミカエル、あたしのこと、嫌いになってない?」

 ぼくは驚いた。リリーさんは真剣な顔で、返答を待っている。

 そう、いつだって、真剣に向き合ってくれる人だ。だからこそ、正義の味方。ヴァイオレットさんのような慇懃で冷たい態度、リリーさんからは一度も受けたことがない。

「まさか、貴女を嫌うなんて、どうしてですか」

 豪快な食欲、裏表のない笑顔。毎日、毎日、新たに好きになるのに。

「だって、あたしのせいで、死にかけたのよ」

 ああ、吊り橋の上で、狙撃されたことか。そんなこと、リリーさんのせいではない。この世にたくさんいる、つまらない悪党たちのせいだ。

「リリーさんが来てくれなければ、どうせ、脳腫瘍で死んでいました」

「ううん。あたしがいなくても、ミギワが何とかしてくれたはず。あたしはただ、バカンスのついでにミカエルを拾いに行っただけ」

 そうだろうか。市民社会が、お荷物のバイオロイドのために、そこまでお節介を焼いてくれるものだろうか。

 部下から嘆願を受けたクローデル局長だって、リリーさんというあてがなければ、ぼくを誰に託したというのだ。市民社会は、辺境の違法組織を全否定しているのだから。遺伝子操作で誕生したバイオロイドのことだって、彼らが自力で亡命してこない限り、助けてなどくれない。違法組織の中では、便利な奴隷として使い捨てられるだけだと、よく知っているくせに。

「でも、ぼくは嬉しかったです……貴女と海で遊んで、神社にお参りして、山道を歩いて、どんなに楽しかったか」

 リリーさんは、ぼくが科学技術局の宿舎に置いていた私物も、こっそり引き取ってきてくれた。わずかな写真や、日記の類いだ。全て過去のものとして、置いてきてもよかったのに。

「貴女は、ぼくの女神です。たとえ一緒にいられなくても、一生、貴女を愛します」

 ああ。

 言ってしまった。とうとう。

 せめて、尊敬します、と言えばよかったのに。軽々しく軽薄なことを言う、と思われたかもしれない。

 するとリリーさんは、ぎゅっと口許を引き締めた。ぼくはやはり、礼儀に外れたことを言ったのだろうか?

 でも、それでも……言わずにいられなかったし、言ったこと自体は後悔しないと思う。だって、二度と会えない可能性が高いのだから。考えたくもないけれど、次の事件で、リリーさんは誰かに殺されるかもしれないのだ。

「ミカエル、あたし、言うのは卑怯だと思って、黙ってたんだけど……」

「はい?」

 深刻な口調だ。何か叱られるなら、それでいい。リリーさんがぼくに与えてくれるものなら、叱責でも何でも受ける。

「きみはまだ子供だから……いくら知能が高くても……あたしの感情を押し付けるわけにはいかないと思って……」

 不思議だ。何の遠慮だろう。

「何でも言って下さい。どうせもう、明日でお別れですし」

「うん……」

 リリーさんは難しい顔のまま、困りごとのように言う。

「あたし、ミカエルが好きなの。一時的な錯覚かもしれないと思って、冷静になろうとしたけど、やっぱり好き。毎日、好きになる」

 え。

「ミカエルにとっては迷惑だろうから、あきらめようと思ったんだけど……ずうっと努力してきたんだけど……でも……もし、ミカエルが本当に、そう思ってくれるなら……もしかして……あたし、あきらめなくてもいい?」

 リリーさんは正直な人だ。圧倒的に強いから、自分を飾ったり、嘘をついたりする必要がない。

 つまり、これは真実の言葉。

 火山の地下から溶岩が噴出するように、心が爆発しそうになって、どうしたらいいか、わからない。

「ぼくだって……」

 ああ、どう言えば伝わるだろう。

「ぼくだって、リリーさんが大好きです。離れたくなんか、ありません。ただ、今のぼくはこんなざまで、リリーさんのお荷物にしかならないから」

 恐怖で気絶するなんて、情けない自分が許せない。リリーさんは毎年何回も、何十回も、命の危険にさらされているはず。足手まといになるようでは、ついていく資格なんかない。だからヴァイオレットさんも、ぼくを冷ややかな目で見ているのだ。少なくともあの人は、リリーさんと同じだけの危険を乗り越えてきている。

「だけど、十年、いえ、五年したら、何かの役には立てるかも……もし、ぼくを助手として使って下さるのなら……裏方の雑用くらいなら、きっと……」

 リリーさんは、がばっとぼくを抱き寄せた。濃くて甘い百合の香り。弾力のあるふくらみ。このまま、谷間に埋まって窒息しそうだ。ぼくの頭の上で、深いアルトの声が言う。

「ミカエル、あたしと結婚しない?」

 え。

 ぼく、上ずって、何か聞き間違いを。

「ううん、今は婚約だけでいいの。結婚を前提として付き合う、っていうことよ。ミカエルが大人になって気が変わったら、離れてくれて構わないから!!」

 世界がぐるりと転回したようで、目眩がする。恐ろしい崖の下をのぞき込んでいたら、背中に羽が生えて、ふわりと宙に浮き上がったようだ。

「あの、もう一度……説明を……」

 ぼくは恋しさのあまり、都合のいい幻聴を聞いたのではないだろうか。しかし、リリーさんの明晰な言葉が届く。

「あたし、ミカエルと恋人同士になりたい。ずっとそう思ってたの」

 高い空から見れば、地上の崖なんか、障害でも何でもない。

「ぼくみたいな子供を、リリーさんが、本気で相手にしてくれるんですか?」

 リリーさんは何かを振り払うように、頭を左右に振る。

「年齢は関係ない。ミカエルはいつも、あたしの聞きたいことを言ってくれたわ。あたし、ミカエルといると嬉しくて、舞い上がってしまうの。今は子供でも、五年経ったら青年になるでしょう? あたし、ミカエルの成長を待てるわ」

 気がついたら、ぼくは顔中にリリーさんのキスを受けていた。頬に、額に、そして唇の端に。まるで磁石のように、互いに引き合ってしまう感じだ。

 歓喜が極まると、苦痛と変わらなくなるのだと知った。幸福すぎて、心臓が苦しい。苦しいが、このままでいたい。いま、この瞬間に、宇宙が止まってしまえばいいのに。

「貴女が好きです……一生、傍にいさせて下さい。何でもします。貴女がぼくを望んでくれるなら」

 他人が言うのを聞いたら、馬鹿みたいだと思っただろう。古来からの本能に引きずられているだけだと。

 でも、今はこれが真実の気持ちだ。生きていてよかった。生まれてきてよかった。たとえ、誰を殺しても。

「ありがとう……嬉しい。あたしも愛してる」

 リリーさんは身をかがめて、繰り返しキスしてくれた。甘くて柔らかい唇だ。何だかむずむずしてきて、じっとしていられないような感じがする。必死に抑えつけていないと、躰が内側から爆発してしまいそうな。

 もしかして、これがその……発情期のきざしなのか!? この先に、もっと深い快楽の世界がある!? ぼくの肉体が成長して、青年になったら、これまでは知識でしか知らなかった世界に踏み込めるのか!?

「約束よ。早く大人になってね。あたし、待つから」

 ぼくも何だか、待ちきれなくなってきた。ぼくが大人の男になったら、ぼくの方から腕を回して、リリーさんを抱けるのか。そうなったら……何だかもう、自分が期待で破裂してしまうような気がする。

 ああ、大人になりたい。早く、早く、たくましい大人の男に。


   『ブルー・ギャラクシー 天使編』8章-2に続く

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