恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 泉編』6章-1
6章-1 ダイナ
あたしは二十数年の人生で初めて、無能になっていた。
《ティルス》に逃げ帰ってきて半月にもなるのに、仕事の段取りがうまくできない。頼まれた連絡事項を忘れる。何もない場所で転びかける。廊下で人にぶつかる。階段を踏み外す。デスクの上でコーヒーカップを倒す。
報告書や資料を読んでも、うまく頭に入らない。会議で、人の話がきちんと聞けていない。部下からの質問に、即座に答えられない。新しいアイディアを求められても、何も思い浮かばない。前は、もっと頭が働いていたはずなのに。
とうとう、ヴェーラお祖母さまに呼ばれてしまった。紅泉姉さまによく似た骨格の、威厳ある金髪の美女だ。
「ダイナ、しばらく休暇を取りなさい。今のままでは、皆の迷惑です」
総帥の命令は絶対である。あたしはうなだれ、怖々と確認した。
「あのう、いつまででしょうか……?」
「あなたが冷静になり、職場に復帰できるようになるまでです」
それでは、いつになることやら、自分でもさっぱりわからない。
あたしは、ふらふらとセンタービル内の自室に戻った。今では贅沢な続き部屋を与えられていたけれど、これまでは、寝に帰ってくるだけの毎日だった。改めて室内を見回して、茫然としてしまう。
ここにいても、することがない。あたしには、趣味らしい趣味もないのだ。ただ座っていても、落ち込むばかりではないか。
気分を変えよう。どこかへ行かないと。
でも、どこへ。
シレール兄さまのいる《サラスヴァティ》には、間違っても近寄れない。あの青紫のハイヒールが頭に浮かぶと、心がぐしゃぐしゃになってしまう。
(……あれを見る前の自分には、二度と戻れないの!?)
こんな時、同性の友達が身近にいればと、心から思う。中央にいるリーレン・ツォルコフとは、司法局の黙認の上で、たまに連絡を取り合っているけれど、彼女はいま新入社員として、希望する企業に入ったばかりで、毎日忙しい。こんな話、司法局経由の通話回線なんかでは、とても話せないし。
リーレンのことを思い出す時、必ずセットで思い出す泉のことは……
友達になり損ねたことを、今でも悔やんでいる。もしもあたしが、もっとうまく話せていれば。あんな重傷を負わせなければ。
けれど、記憶を失った泉は再教育施設にいて、新しい人生を歩んでいるのだから、それこそ、接触してはいけない。グリフィンに利用された過去は忘れて、再出発してもらわないと。
グランド・ツアーで知り合ったルディも、いい友達なのだけれど……彼に相談したらきっと、
『ぼくが一人前になったら求婚しますから、他の男のことなんか、忘れて下さい』
と笑顔で言うだろう。でも、ルディはまだ大学生。これから先、どんな仕事でも選べる。どんな女性とも付き合える。もっと大人になったら、きっと冷静になって、辺境の人間なんか伴侶にできない、と悟ってしまうだろう。
うちの一族は、悪質な商売は極力避けているけれど、それでも、人身売買や誘拐や洗脳という仕事をする組織からの上納金を集めているのだもの。市民社会から見れば、立派な(?)違法組織に違いない。
ただ、ヴェーラお祖母さまの補佐をする中で、そういう組織との付き合いも必要なのだと、納得するようになってきた。辺境には、辺境の存在意義がある。自由な挑戦、自由な冒険が許される世界。
紅泉姉さまたちのように、一族から遠く離れて、市民社会に参加するというのでない限り、あたしもまた、『違法組織の一員』という非難を受けなければならない。
(そうだ、ミカエルなら!!)
同性ではないけれど、少年の姿をしているから、話しやすい。ミカエルならば、きっと冷静な助言をくれるだろう。彼自身、恋愛問題で悩んだ経験者なのだもの。
***
あたしはミカエルに連絡を入れ、《ティルス》から船で三十分ほどの移動をした。自分専用の船があり、身一つで、どこにでも行けるのは便利なことだ。一族の勢力圏内のことだとしても。
「ダイナさんが来てくれたら、賑やかになって嬉しいですよ」
と言ってもらえたので、一安心。麗香姉さまの隠居小惑星なら、安全この上ないし、あたしがどれだけ滞在しても大丈夫。ここには、麗香姉さまとミカエル、それにミカエルの秘書のセイラ、たった三人しか住人がいないのだ。
紅泉姉さまとの婚約を取り消した後、ミカエルは麗香姉さまの研究助手として、ひっそりと暮らしていた。セイラはミカエルの身の回りの世話をしたり、庭園の花を集めて香水を作ったり、お使いであちこち出掛けたりしている。
ミカエル自身は、今でも紅泉姉さまを愛しているのに、紅泉姉さまだって彼を愛しているのに、距離を置いて生きるしかないという理不尽。
でも、それは彼らが選んだ解決策だから、おまえは口を出さないようにと、もう何年も前、シレール兄さまからきつく言い渡されていた。
その時のあたしは内心で、
(好き合っているなら、障害なんか打ち破ればいいのに)
と思ったけれど、今は……少しなら、わかる気がする。紅泉姉さまは、自分の恋愛の成就よりも、探春姉さまの心の平和を優先したのだ。
探春姉さまの世界には、紅泉姉さましかいない。たぶん、子供の頃からずっと。それが我欲だろうと妄執だろうと、他人の口出しすることではない。
紅泉姉さまにとっても、幼馴染みの探春姉さまは、魂の半身なのだ。探春姉さまが不幸になる道を、紅泉姉さまは選べなかった。
それはもしかしたら、姉さまたち三人の、不幸の総量を増やす決断だったかもしれないけれど。
隠居用の小惑星に着くと、船から車で降りて、ミカエルの住む桔梗屋敷へ向かった。姉さまの薔薇屋敷には寄らなくていいと、通話画面のミカエルは言う。
「麗香さんは、何か研究に没頭したいということで、挨拶にも来なくていいということです」
それなら、それでいい。どうしても会いたい相手、というわけではないから。
麗香姉さまはいつも優雅で平静だけれど、その平静さは、底知れない冷徹さに裏打ちされている。だからこそ、地球を出発してから何百年も、一族の最高指導者でいられるのだ。
過去にどれだけの敵対者を葬ってきたか、ヴェーラお祖母さまやヘンリーお祖父さまでさえも、全容を知らないという。
今現在、どんな恐ろしい研究に没頭しているのか、知らない方がいい気もするし。
一族には、あたしの後、新しい子供は生まれていない。それは、麗香姉さまが、次の子供の遺伝子設計をじっくり考えているから、のようだ。
『ダイナ、あなたはわたしの最高傑作なのよ。知性と体力のバランスがとれていて、人格的にも安定しているわ。あなたを超える子供でなければ、あえて生み出す意味がないと思うの』
と言われている。そんな、無限にハードルを上げていかなくてもいい気がするけれど。
だいたい、あたしが最高傑作だなんて、このざまを見てから言ってほしい。自分でも、自分に呆れてしまうくらいの情けなさ。
でも、麗香姉さまにとっては、より優れた子供を創り上げることが、一族を繁栄させる正道だという確信があるのだろうから、仕方ない。
次に生まれるのがどんな子供であっても、あたしは姉の立場になれるから(それでようやく、末っ子から脱却できる!!)、楽しみにしていることは確か。
『ダイナお姉さま』
なんて慕われたら、嬉しくなって、何でもしてあげたくなってしまうだろうな。
ああ、でも、尊敬される姉になるためには、まず、この現状を何とかしなくては。
『ブルー・ギャラクシー 泉編』6章-2に続く