恋愛SF『ミッドナイト・ブルー ハニー編』13章-2
13章-2 ハニー
わたしを支えるのは、意地だけだった。絶対に、しおれた様子など見せてやらない。
醜いことを気に病みすぎて、それを認めることすら耐えられなくて、自分の針路を間違えてしまったのは事実……でも、今はそれを克服しかけているのだから。
そう、自己憐憫なんか、もうたくさん。あの男がわたしを哀れもうと、軽蔑しようと、それは彼の勝手。わたしはわたしの目的のために、彼を利用すればいいだけ。そうでしょう?
だから優美なドレスをまとい、髪を結い上げ、宝石や香水を選び、昂然と頭を上げて歩く。今朝は水色のドレスに、アクアマリンのイヤリング。真珠のロングネックレス。ドレスの裾には、オレンジの花の香りを一吹き。
わたしは美しいものが好き。自分を美しく保つのが好き。そうやって、あの惨めな子供時代から遠ざかってきた。朝の光の中では、過去を悔やむより、前に進む方が容易い。
一階の朝食室に降りると、シヴァはもう食事を済ませたらしく、コーヒーを前にして、中央のニュース番組を見ていた。惑星代表の議員の選挙。子供たちの学校行事。葡萄の収穫祭。骨董市。新しい遊園地。辺境から見る市民社会は、あまりに遠くて、架空の別世界のよう。辺境生まれのシヴァにとっては、余計にそうなのだろうか。
「おはよう」
「ああ……おはよう」
わたしはアンドロイド侍女に自分の朝食を注文してから、離れた席に着く。それでも、声をかければ届く距離だ。
「後で、昨日の続きをお話したいわ。いいかしら?」
「ああ……もちろん」
シヴァも、ぎこちない様子ではあるけれど、友好的だった。何とかわたしとの関係を構築しようと、努力しているのがわかる。食事を済ませて、湖を見下ろすテラスのテーブルに移ると、自分の過去のあれこれや、有力組織の様子などを話してくれた。その中で、イレーヌとどんな風に働いてきたかも、説明してくれる。
彼にとってイレーヌは、あくまでも〝ショーティの仮面〟に過ぎないようだけれど。
人間と犬であっても、二人は親友であり、戦友だったのだ。だからイレーヌは、何とかしてシヴァを復帰させたいと思っている。辺境の最前線に。彼の能力を活かせる場所に。わたしは、そのための手蔓。
構わないわ。
わたしたちは、協力し合えるはず。
だからわたしも、自分の事業のことを話した。バイオロイドの女たちをどう教育し、配置してきたか。市民社会から逃げ出してきた若者たちを、どう発掘したか。衣類や小物や装飾品の工房のこと。主立った部下たちのこと。
シヴァはぽつぽつと質問してきて、わたしが答える。お互いに、お互いの輪郭を描いていく。
しばらくは、これでいい。仕事の話ができれば。
いずれそのうち、お互いの愛読書のことも、語れるかもしれない。好きな映画や音楽や……何よりも、好きな作家。
どんな作品を愛するかで、その人の心の内が、かなり見えてしまうものだ。わたしは、もっとシヴァを知りたい。彼にも、悪鬼の部分があるのだろうか。それは、辺境で生き残るために、どうしても必要な資質なのだろうか。
わたしはマックスに守られてきたから、人を殺す決断はしなくて済んでいた。これからは、シヴァに守ってもらえるのだろうか。それとも、そんな甘えは捨てるべきなのだろうか。
何日か経つうちに、そういう意味のことを伝えたら、彼は口許をゆるめた。笑っているらしい。
「一人の人間が、美しいものを創り出しながら、誰をどう殺そうか企むのか。それは、忙しすぎるな」
その時の黒い目は穏やかで、まっすぐわたしを見ていてくれた。まるで、昔からの知己のように。
「ショーティだって、そんなことは望んでいない。ここから出られたら、おまえは、人を育てたり、店を広げたりすることを考えていればいいんだ。外敵と戦うことは、俺がやる。俺には、それしかできないからな」
あまりにも都合のいい話なので、わたしが何と言えばいいか困っていると、彼は続けた。
「番犬を飼っていると思えばいい……俺が、おまえの犬だ」
わずかに笑っているが、目は真剣だ。つい、何か錯覚してしまい、くらりと気が遠くなりかけた。全身がゆるんでしまい、日向に置いたバターのように、形がなくなりそう。
これが、守られる幸せならば……錯覚でいいから、しばらく浸っていたい。態度に出さず、ただ心の中でうっとりするだけなら、構わないではないか。
その手で抱き寄せてほしい、あの肩に頭をもたせかけたいなんて、そんな願い、絶対に口には出さないから。
***
食事時とお茶の時間には、大抵顔を合わせるようになった。彼の豪快な食べっぷりを、間近で見られるのは楽しい。大きなお皿が、あっという間に空になる。
強化体は、人より食べないと、保たないのだそうだ。特に戦闘用の強化というのは、良い面も悪い面もあるらしい。
「運動が足りなくても、眠れなくなる。だから毎日、走ったり泳いだりしないと、バランスが取れない」
空手の稽古をして、アンドロイド兵士を壊してしまうこともあるという。
「長いこと、じっとしていられないんだ。エネルギーが湧き上がってくるから、それをうまく発散しないと、どこかで爆発してしまう」
彼の従姉妹である〝リリー〟も、同様の体質らしい。だから彼女は、悪党狩りを趣味にしているのだという。悪党は尽きないし、逮捕に抵抗するから、年中、忙しく走り回ることになる。
「ただの趣味なの、命を懸けているのに!?」
わたしが驚くと、シヴァはにやりとする。
「迷惑な奴だよな」
そういう従姉妹が好きで、誇りに思っているのだ。彼がぽつぽつと語る、辺境のこぼれ話も興味深い。わたしやマックスより、ずっと長く生きている男だから。
「伸びてきている新興組織があると、最高幹部会は監視をつける。様子によって、潰すか、吸収するか、それとも独立組織として引き立てるかだ。おまえのマックスは優秀な男らしいから、どこかで別の任務を与えられているかもしれん」
「わたしの、じゃないわ」
そんな言われ方をしただけで、マックスは怒るだろう。
「わたしは、おまけよ。彼は、自分の考えで組織を育てていたもの」
《ディオネ》はマックス一人を頂点とする組織であって、わたしは命令系統の外にいた。彼の気が変われば、わたしはいつでもお払い箱になっていただろう。口では、繰り返し愛していると言ってくれた。ぼくの女王さまと。色々な贅沢もさせてくれた。
でも、バイオロイドの女たちには、わたしのような庇護は与えられなかった。みんな、輝くような美女ばかりだったのに、男たちに尽くすことを強いられ、消耗しきって捨てられた。わたし一人がいつまでも例外だなんて、どうして思えるだろう。
「だが、おまえの事業を応援していただろう」
「わたしが鬱状態になったから……治療の代わりよ」
「それを考えついただけ、たいしたものだ」
そうかもしれない。でも、シヴァがマックスを高く評価しているのは、不思議な気がした。
「あなただって、一人で生きてきたんでしょう……ショーティの知能強化に成功するまでは」
「俺は、一族の財産を少しばかり、持ち出したからな。最初の資金がなかったら、途中で潰れていたかもしれん」
「でも、よく一人で飛び出したわね……生まれた組織の外に」
すると、シヴァは苦いものをこらえる顔をする。
「自分が馬鹿だった。どれだけ恵まれていたか、わかっていなかった。十五の時の自分に出会えたら、殴り倒してやりたいくらいだ」
彼には彼の後悔があり、間違いを繰り返さないという決意があるのだとわかってきた。だから、わたしにはきっと、ひどく気を使ってくれている。これまで一度も、思いやりのない態度を示されたことがない。無愛想に見えて、実は繊細なのかもしれない……いえ、怖がりでさえあるのかも。
自分からわたしに接近しなかったのも……もしかしたら、わたしに選択権を与えていた、ということなのだろうか?
気がついたら、今の自分は、ほとんど朝から晩まで、シヴァのことを考えている……イレーヌにはわかっていたのだ。こうなることが。
シヴァと間近に向き合えて、嬉しい。
話し込んでいると、時が経つのを忘れる。
これが恋だというのなら、わたしがマックスを恋慕ったことは、たぶん一度もなかったのだ。ただ、感謝と尊敬の気持ちで一緒にいただけ。辺境では、彼の庇護が絶対に必要だったから。
(ごめんなさい……あなたが生きているのか、どこにいるのか、知らないけれど。もう、それを気にすることもしてないわ)
たぶん、マックスと再会することはないだろう。彼が自由の身になり、再び自分の組織を率いているとしても。忙しくしていれば、わたしのことなんか、そのうち忘れてしまう。彼なら他に幾らでも、相応しい女性を求められるだろう。
(わたしだって、ただの駒なのよ)
最高幹部会にとっては、《ヴィーナス・タウン》が新たな人集めの策略にすぎないことも納得した。辺境では、人間の女性の絶対数が少ないことが大問題だから。
違法都市に女性の聖域ができ、そこが職場として、娯楽施設として、多くの女性を集めるようになれば、男たちも周囲に引き寄せられ、都市がますます繁栄する……
いいわよ、それに乗るわ。
だから、わたしをここから出して。
シヴァとカップルになるふりも……こんな様子で、イレーヌが納得してくれるかわからないけれど……このまま続けていきたい。この時間そのものが、貴重な幸せだから。
***
春が晩春へと向かう時期、明け方から、細かい雨が降っていた。季節が逆戻りしたかのように、肌寒い。三階にあるわたしの部屋から見ると、湖にうっすら霧がかかっていて、遠くの方はかすんでいる。
前はこんな日には、つい暗い気持ちになってしまったけれど、今は違う。シヴァが、二階の部屋にいるとわかっているから。
雨の日は乗馬も散歩も楽しめないので、シヴァとの朝食の後、わたしは一人で広い屋敷内をぐるぐる歩き回った。
三日に一度は泳いでいる、地下の温水プール。ここは亜熱帯庭園になっていて、デッキチェアにいると、南洋のリゾート地のよう。
設備の整ったスポーツジムには、温泉風の露天風呂が付属している。扉を開放すれば、湖の眺めが楽しめる。いつか二人で入るなんて……そんなこと、起こりうるかしら?
ワイン蔵もあれば、食器や花瓶の収納部屋もあった。映画鑑賞室、図書室、サロン、無数の客室、透明な屋根を持つ屋内庭園。ホテルにしないのが勿体ないくらい。
でもイレーヌは、この小惑星基地から収益を上げようなんて、思っていないのだ。ただ、シヴァのための贅沢な牢獄にしているだけ。
他にどれほどの財産があるのか、計り知れない。長く続いてきた組織の実力は、わたしやマックスには想像の世界でしかなかった。彼があと十年か二十年、生き延びられれば、《ディオネ》は中規模組織になれるのかもしれないけれど。わたしがそこで暮らすことは、もうない……たとえ戻れるとしても、戻りたい気はしない。
だって、シヴァを知ってしまったのだもの。
彼に視線を向けてほしくて、話しかけてほしくて、こんなにそわそわして、じれている。
やがて、シヴァの部屋の前で足が止まった。彼はよく外で走ったり、湖で泳いだりしているけれど、今日はさすがに屋内にいるはず。どうせ次の食事時には会えるけれど、今、声をかけたら迷惑がられるかしら……
しばらく立ち尽くして迷ってから、結局、ノックできずに引き返そうとした。なのに、背中を向けて数メートル進んだ途端、シヴァが慌てた様子で扉を開ける。
「どうした!?」
屋敷の管理システムが、何か告げたのか。シヴァは、わたしに異変でもあったのかと思ったらしい。
「あ、いいえ、何でもないの。ただ……雨だから、退屈で……」
彼は唖然として、それから苦笑した。ほっとしたように。
「そうか」
その笑みを見て、わたしもまたほっとする。よかった、怒らせたのではなくて。呼ばれもしないのに私室まで押しかけるなんて、図々しかったわ。
「乗馬……は無理だな。道がぬかるんでる」
シヴァはやや考えて、提案してきた。
「一緒に、料理でもするか」
わたしは驚いて、棒立ちになった。何を言われるにしても、こんな言葉は予想外だったから。彼は戸惑ったらしく、自分の顎のあたりを手でかいて言う。
「山賊料理……程度のものなら、できると思うが」
そういえば、そうだ。シヴァはこの屋敷に戻る前、野外で巧みに料理をしていたではないか。鹿を解体したり、魚を捌いたりして。
「ごめんなさい。ちょっとびっくりして……」
同時に、これは好機だと思った。シヴァから歩み寄ってくれたのだ。応えなければ嘘だ。
「こういう日は、煮込み料理に向いているわね。ビーフシチューはどう?」
また、シヴァが笑った。ごく自然に。
「悪くないな」
***
二人で厨房に立つなんて、新鮮だった。レトルトのシチューではなく、野菜と塊肉から作るのだ。人参、じゃがいも、玉ねぎ。
シヴァは形成肉ではなく、本物の牛肉を使いたいという。構わないと答えた。わたしも別に、菜食主義ではないから。マックスもまた、本物の素材を好んでいた。人類は昔から、殺した生き物を糧にしてきたのだと言って。
「サラダはどうしましょう」
「俺がやる。海老と帆立でどうだ。レモンとオリーブオイルであえる。そっちはデザートを担当してくれ」
まだ半分、信じられない。まさか、シヴァとこんな会話を交わす日が来るなんて。マックスだって料理は得意だったけれど、辺境に出てからは、そんな余裕などなかった。たまの気晴らしで料理することはあっても、普段は専用のアンドロイドに任せきり。
わたしもまた、《ディオネ》の中では長いこと、料理の楽しみを忘れていた。他にすることが多すぎて。ここに幽閉されてからは、たまに一人分の料理くらいはしていたけれど……シヴァと一緒に立ち働くなんて、夢みたい。
少女時代の、ロマンスへの痛いほどの憧れが、いま叶っているのではないだろうか。昔の自分に、教えてやりたい。いつか、自分にも、映画のヒロインのような素敵な舞台が用意されているのだと。
彼は大柄だけれど、不器用ではなかった。限られた空間で、わたしとぶつからないように動き、刃物の扱いにも不安がない。圧力鍋でシチューを煮込んでいる間、パンを切り、ワインを選び、チーズやオリーブを添えた。シヴァにはシチューとサラダだけでは足りないので、レトルトのキッシュやローストチキンも並べる。
外の雨は、食堂で食事をしているうちに止んだ。デザートのムースやアイスクリームを楽しんでから、まだ濡れている庭に降りて、敷石をたどって歩く。うっすらと霧が残っているのも、趣があっていい。慣れた散歩道も、魔法の世界のよう。
庭園の薔薇が水を含んで重く垂れているのを見て、花鋏で切ったり、揺すって水滴を落としたりした。シヴァはわたしが持たせた花籠を掲げて、おとなしくついてくる。なんて素敵な番犬なの。世界中に叫んで、自慢したいくらい。
「そうだわ、薔薇のジャムを作ってもいいかも」
わたしの思いつきにも、彼は逆らわなかった。市販のジャムで足りるじゃないか、とは言わない。アンドロイド侍女に花を摘ませればいいじゃないか、とも言わない。
「どうやって作るんだ? ジャムは作ったことがない」
そこからまた、話が広がった。子供の頃、祖母のジャム作りを手伝ったこと。庭の無花果に蜂が集まりすぎて、手が出せずに困ったこと。収穫を楽しみにしていた温室の苺を、妹たちに全部食べられてしまったこと。お返しに彼は、ショーティと二人で猪を追い詰めた話をしてくれる。
「子供の頃は、よく野宿をしたな。火を焚いて、テントで寝て。屋敷の敷地内なら、大人たちも大抵、放っておいてくれた。敷地の境界線の川を越えなければ、森は俺たちの天下だった」
境界線を越えれば、そこは違法都市の公共の緑地帯であり、遠くには繁華街のビルがそびえていたという。他組織の拠点や兵器店や娼館。少し大きくなるとバイクで探検に出掛けるようになり、中小組織の下っ端に喧嘩を売って歩いたという。
「大人たちに止められなかったの?」
「叱られはしたが、外出は禁止されなかった。それも勉強の一つ、という判断だったんだろう。いずれ違法組織の経営をすることになるなら、自分で危険を体感しておいた方がいい」
「あなたの従姉妹たちも?」
「リリーの方は……俺より乱暴だったかもしれない。ヴァイオレットの方は……じっとリリーの帰りを待っていたな」
彼の少年時代を、わたしは空想した。どんなに無鉄砲だったのか。どんなに孤独だったのか。彼が授けられた教養と、違法都市の現実は、さぞ矛盾していたことだろう。その矛盾を解決するためには、愛犬だけを連れて家出するしかなかったのか。
(よかった。シヴァにショーティがいてくれて)
あのイレーヌが本当は人間ではないなど、まだ戸惑う面はあるけれど、わたしは全てに感謝していた。この出会いに。自分を辺境に連れ出してくれたマックスに。マックスから引き離してくれたイレーヌに。
『ミッドナイト・ブルー ハニー編』13章-3に続く