見出し画像

恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 天使編』10章-1

10章-1 ミカエル

 
 二日後、リリーさんはぼくに未練を残しながらも、ヴァイオレットさんに引き立てられるようにして、屋敷から去っていった。

「ミカエル、すぐにまた来るからね!! 姉さま、ミカエルを頼みましたよ!!」

 と車の窓から何度も言い残して。

「はいはい、わかっていますよ」

 穏やかに微笑む麗香さんと並んで、遠ざかる車を見送ると、ぼくはがっくりきてしまった。

 リリーさんの姿がないと、花で溢れた楽園ですら光が翳り、気温が下がったような気がする。リリーさんが市民社会で新たな事件に取り組むことになったら、次はいつ会えるか、わからないのだ。

「ミカエルは本当に、あの子が好きなのねえ」

 黒髪の美女に哀れみ半分、からかい半分で言われてしまった。

「はあ」

 と言う以外、答える気力もない。リリーさんに泣いてすがらなかったことだけで、自分としては精一杯の強がりなのだ。

 唯一の慰めは、ぼくの指にあるサファイアの婚約指輪だった。

 リリーさんの瞳と同じ、深い海の色の石。

 リリーさんが《ティルス》の宝石店に注文して、買ってくれたものだ。本当は、ぼくが払いたかったのだけれど、ぼくの全財産は、後に残してきてしまったから。

『ミカエルが一人前になったら、あれもこれも買ってもらうから、今はあたしに払わせてね』

 というリリーさんの思いやりに、感謝するしかない。そのリリーさんの指には、ぼくの目の色と同じ、エメラルドの指輪がある。

『これをお守りにして、仕事、頑張ってくるからね』

 と言い、顔中にお別れのキスをしてくれた。ぼくにとっても、この指輪は大事なお守りである。

 もっともリリーさんの方は、いったん任務にかかったら、邪魔な指輪など、外してしまうだろうけれど。

 それから一週間ほど、投薬治療を受けながら、穏やかに過ごした。薬品で腫瘍の成長を抑えている間に、本格的な治療方針を決めるという。

「治療法は何通りもあるから、焦らなくていいのよ。あなたの健康は、わたしが責任持って取り戻します」

 と麗香さんに保証されたことで、かなり安心できた。

「ここに慣れるまで、のんびりしていらっしゃい」

 と言われた通り、庭園の薔薇を摘んでルビー色のジャムを作ったり、刺繍を習ったり、ピアノを弾いてみたり、乗馬に連れ出してもらったり。

 屋敷の周囲に広がる緑地には、あちこちに、ちょっとしたお楽しみが仕掛けてあった。実をつけたレモンの木やオレンジの木、オリーブの木。百合の群生。斜面一杯に咲く菫の花。

 隠れ家のような、ささやかな丸太小屋もあった。小屋には家具や道具類が置いてあり、暖炉で湯を沸かしてお茶を飲むことも、ベッドで昼寝をすることもできる。

 馬に慣れると、一人で小道をたどって、遠くまで行けるようになった。小川に添って進み、湖の岸に出たり。そこから森の中を抜けて、見晴らしのいい崖の上に出たり。

 馬で森を抜ける途中、さっと通り雨が来て、大木の下で雨宿りすることもあった。植生を保つために、時々、人工の雨が降るのだ。待っていれば止むと知っているから、馬を降り、手綱を木の枝にひっかけ、自分は太い根っこの上にでも座っていればいい。

 肌寒い霧が流れてくると、視野が閉ざされ、世界にたった一人でいるかのようだった。雨によって強まる緑の匂い、湿った土の匂い。馬は静かに休んでいて、ぼくを一人にしておいてくれる。

 神聖なほど静謐な時間が過ぎるうち、外界のことを全て忘れてしまいそうな気分になる。生まれてからずっと、ここで過ごしているような。

 もしかしたら、これまでのことは、全て夢なんじゃないだろうか。

 ぼくはもう死んでいて、ここは天国で、ただ、リリーさんと出会ったという夢を見ているだけなのでは。

 それでも、雨があがり、霧が晴れると、ぼくはまた馬に乗って、屋敷に戻る。屋敷には麗香さんがいて、

「楽しかった?」

 と尋ねてくれる。こんなに確固とした夢、自分の想像力で作れるわけがない。

 麗香さんは親切で、寛大な女主人だった。おおかたの時間、ぼくを好きにさせておいてくれるが、ぼくが迷ったり、不安を抱いたりすると、適切な助言をくれる。

「急いで体を鍛えようなんてしなくていいから、乗馬と散歩を楽しんでいらっしゃい。格闘技が習いたかったら、治療が終わってからにすればいいのよ」

「料理は、できるに越したことはないわね。少しずつ、わたしがリリーの好きな料理を教えてあげます」

「書斎の本を読むなら、お薦めリストを作っておいてあげるわ」

 リリーさんが信頼して、ぼくを預けていっただけのことはある。たぶん、一族中から尊敬されている女性だ。

 それでもなお、

(リリーさんと一緒だったら)

 とは幾度も思った。噴水の傍のベンチで、花の写生をしている時。ランチボックスを横に置いて、花畑に囲まれた芝生に寝そべる時。蓮の花が咲く池の周りを歩く時。

 この景色を、リリーさんと一緒に楽しみたい。

 同じものを見て、感動したい。

 リリーさんといれば、何をしても、百倍は楽しく充実しているだろう。たとえ宇宙空間で事故に遭っても、未知の惑星上で遭難しても、リリーさんと一緒なら、きっと耐えられる。

 だが、自分で自分を叱咤した。

 今はまず、健康になり、役に立つ一人前の男になることだ。リリーさんの側にいても、足手まといになるだけなら、意味がない。

 吊り橋が砲撃で断ち切られた時、ぼくはあっさり気絶して、リリーさんのお荷物になっただけだった。そのことを思い出すと、一人で頭を抱えて唸ってしまう。

 もう二度と、あんな醜態はさらしたくない。今はまだ子供でも、男なのだから。

   ***

 吟味された贅沢な夕食の後は、本物の炎がパチパチと燃える暖炉の前で、麗香さんと一緒に蜂蜜入りのハーブティを楽しんだ。

 アップルミントやレモングラス、カモミールやレモンバームというハーブも、麗香さんに教えられ、あたりの野原で摘んできたものだ。紅茶の葉に混ぜてもいいし、ハーブだけで使ってもいい。

 美しいワンピースを着た麗香さんは、お気に入りの安楽椅子で寛いで、遠い思い出話をしてくれた。

「わたしはね、地球時代の末期に生まれたの……今の常識では、信じられないでしょうね。たった一つの惑星上に、百億近い人間が暮らしていたなんて。川は腐臭がしていたし、海には大量のごみが浮かんでいたわ。人間が廃棄した有毒物質や、放射性物質が、全て海に流れ込んでいたの。汚染のひどい場所では、空気を吸い込むことすら、危険なことだったのよ。防毒マスクがないと、外出できなかった時期もあるわ」

 確かに、想像もつかない。

 ぼくのいた《エリュシオン》も、人口は五千万ほどだった。首都を離れれば、どこまでも緑の野山が続いていた。川も海も清らかで、たくさんの魚が泳いでいた。もちろん、人間が強引に移植した生態系だが。

「しかも、互いに土地や資源を奪い合い、殺し合っていたのよ。うまく分け合えば、みんなが暮らせるだけのものは、かろうじてあったのにね」

 麗香さんは、ぼくが歴史の本でしか知らない地球時代の、貴重な生き残りだった。

 現在の地球は、歴史遺産として保存される田舎惑星に過ぎないが、かつては人類の全世界だったのだ。

「当時はまだ、男たちが権力を握っていた時代だったから、平和や平等を願う女たちの声は、圧殺されることが多かったの。多くの男たちは、女が独立心を持つことを、ひどく恐れていたわ。女が判断力や行動力を持ったら、つまらない男は見捨てられてしまうから。わたしの少女時代には、女に学問は要らないという声さえ残っていたのよ……わたし自身、女に知恵がつくと、ろくなことはないと、何度も言われたわ。利口ぶっていて、可愛くない。人に尽くす気持ちが足りない。勉強に打ち込む娘たちは、そうやって貶められたものよ。男たちは最初から、人に尽くす気持ちなんて、持っていなかったくせにね」

 当時は、先進国の市民社会でさえ、そんなものだったらしい。何だかまるで、人間がバイオロイドの反乱を恐れるような……

 ああ、そうか。

 相似形で当たり前なのだ。

 女たちに独立されてしまった男たちが、新たな奴隷として創ったのがバイオロイドなのだから。

「男というのは、哀れな種族なのよ。男同士の戦いに勝つため、女を得るために、強がらなくてはならないと思っている。実力がない者ほど、必死になって強がり、弱い者を踏みつける、負の連鎖ね。そんな見栄張りなんか、女にはすぐに見抜かれるのに。何百年、何千年、そうして強がってきた習性は、簡単には抜けないらしいわ」

 科学的真理を説明するような、淡々とした言い方だった。一応、男の部類に入るぼくとしては、

「はあ、そういうものですか」

 くらいしか言えない。ぼく個人は、無駄に強がったことなどない……と思うのだけれど。

 いや、強がったのかな?

 リリーさんに相応しい男になりたい、ならなくてはと思って、ここに預けられることを承知した。本当は、ヴァイオレットさんにうとましがられても、リリーさんの傍にいたかったのに。

「それでも、未来を見据える人たちが常にいて、少しずつ進歩は続いていたわ。わたしが中年を過ぎる頃にようやく、地球連邦が誕生したの。女性の政治家や学者たちが力を合わせて、ようやくね。戦争に使っていた資源を、教育や科学研究に振り向けることで、事態が好転したわ。それでも、ぎりぎりだった。人類が自滅する前に、超空間航法が完成したのは、奇跡だったわね」

 初期の実験船は幾度も失敗し、爆発したり、難破したりして大勢の犠牲者を出したが、人類はあきらめなかった。ついに、実用に堪える船が完成した。無人探査船からの報告を元に、有人船が次々に旅立っていった。

「それからはもう、爆発的な探険と移民の時代だったわ。太陽系内のあらゆる資源が、調査船や移民船の建造に回された。他の星系に、人間が住める惑星が幾つも発見され、何億という人間が、怒濤のように地球から出ていった。しまいには、地球に残っている方が少なくなってしまった。歴史の流れが、ゆるい大河から大滝になったかのよう……」

 そのあたりの歴史は、ぼくも再教育施設で学んだ。けれど、実際に体験した人の話は説得力がある。

「わたしは既に老人になっていたけれど、その流れに加わりたかったから、自分を実験台にして、若返りの技術を試したの。もう失うものはないのだから、失敗して元々でしょう。もちろん、先人たちの遺産を受け継いだ上での挑戦だったけれど」

 麗香さんは簡単に言うが、それは、もう一つの奇跡だったのではないか。遺伝子操作の実験もまた、多くの犠牲を必要としたはず。

「幸いにして、中年の頃の活力を取り戻せたので、移民計画の立ち上げに参加することができたの。当時は、あちこちで多くの移民計画が進行していたけれど、失敗したものも多かったのよ。技術不足や資金不足、事故や内紛。わたしたちは、初期の希少な成功組ね」

 話は、幾夜にもわたって続いた。

 麗香さんと仲間たちが移民船団を組んで、辺境の宇宙をさまよった話。星系探査を繰り返し、資源を採掘し、試験的な小惑星都市を建設した話。そこを基地にして調査研究を繰り返し、また新たな小惑星都市を築いた話。

 《ティルス》のような、何十万人もが安心して暮らせる都市が誕生するまで、ずいぶんな試行錯誤があったのだ。

 その間にも、遺伝子操作や生体改造の技術は進歩し続け、若さを保つことが容易になった。活力があれば、新たな挑戦もできる。そうやって、麗香さんたちは、一族の繁栄の基礎を築いたという。

「その頃には辺境も、野心家たちの飛び回る戦国時代になっていたわ。法律も協定もないのだから、強い者が言い分を通す状態だった。地球から波のように広がった移民たちのうち、地球周辺の星系に留まった人々より、更に遠くを目指した人々の方が、もっと欲深だったのね」

 更に豊かな星系。更に広い領土。もっと多くの武器。優れた肉体。そして永遠の命。

「その試行錯誤の中から、バイオロイドも誕生したわ。単なる機械の兵士より、もっと便利に使える、生きた奴隷ね。心を持たない召使では、人間の心を推測することができないから、人間にとって不便なのよ。人工知能もずいぶん研究されたけれど、人間の肉体を持たない限り、人間とは本当に分かり合うことができなかったの」

 人間たちが、人工知能や、心を持たないアンドロイドの召使で満足してくれていたら、それで平和だったのに。

「それに、多くの男たちにとっては、〝自分に都合のいい女〟が、どうしても必要だった。傷つきやすい、哀れな自尊心を慰めるためにね。普通の人間の女に相手にされない男たちが、バイオロイドの女に救いを求めたのよ。彼女たちにとっては、悲劇だったけれど」

 哀れな自尊心……

 麗香さんといい、ヴァイオレットさんといい、女性はどうも、男に厳しすぎるのではないだろうか?

 ぼくの場合は、包容力の大きなリリーさんに救われたからいいけれど、そうでなければ今頃は、世界を恨んだまま、ねじくれて悪意の塊になっていたはずだ。それこそ、惑星全体を道連れにして、自殺しようとしていたかもしれない。

 救ってくれる女性に出会えれば、どんな荒んだ男でも、そこから更生できるだろうに……

 いや、それは女性の側に、途方もない重荷を背負わせることだと、麗香さんたちは思うのだろうな。

 とにかく、対立する他組織と戦い、ある時は殲滅を選び、ある時は共存を模索しながら、麗香さんたちは更なる研究を続けていった。

 より優秀な形質を持つ、新世代の人間たち。

 全知全能を目指す〝超越化〟への挑戦。

 そうしながら、新たに押し寄せる移民を受け入れ、《ティルス》を大都市に育て上げた。《インダル》や《サラスヴァティ》という姉妹都市も建設した。

 そして、後から興隆してきた〝連合〟との確執。

 いかにして彼らとの武力対決を避け、棲み分けを工夫し、一族の独立を保ってきたか。

 それだけで、本が何冊も書けるほどの物語だ。この人は一族を率いて、常にその戦いの最前線にいた。リリーさんが尊敬するのは、当然のことだろう。

 辺境中で恐れられるハンターの〝リリス〟が誕生したのは、この人のおかげだと言うべきなのだ。


   『ブルー・ギャラクシー 天使編』10章-2に続く

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?