見出し画像

恋愛SF『ブルー・ギャラクシー 泉編』8章-6 9章-1

8章-6 ダイナ

 それからしばらく、贈られたドレスを着て、シレール兄さまと向かい合い、正餐を楽しむ日が続いた。

 それ自体は、悪くない。

 昼間のビジネススーツを脱いで、女らしいドレスをまとい、美味しい料理とお酒を味わうことは、一日の終わりには、ちょうどいい気晴らしだ。

 あたしが美しいドレスを着ることが、兄さまの目を楽しませているなら、それは嬉しい。いまだ優雅な美女とは言えないにしても、少しは大人になったと自分で思えるし。

 お互いに、頭を痛めるような難しい話はしない。中小組織同士の争いの調停とか、研究施設に紛れていたスパイの処分とか。そんなものは、明日になれば、また押し寄せてくるのだから。

 貴重な夜の時間の、ほんの二時間か三時間、世界の果ての小島にいるかのように、他のことを全て忘れて、二人でいられることを祝福する。

 毎晩、別世界へ小旅行しているかのよう。

 部屋には新しい花が飾られ、違う音楽が流される。

 兄さまと何曲かダンスすることも、最後におやすみのキスを受けることも、毎晩のことになれば、それなりに慣れてくる。

 それでも、兄さまに引き寄せられる時の嬉しさは格別だった。背中を支えてくれる手の温かさ、額に受ける慎重なキスの感触は、こそばゆくて癖になる。

 もっと長く一緒にいたい気もするけれど、そうしたら際限がない。また明日の晩、こうして向かい合えるのだから。

 あたしはようやく《サラスヴァティ》に碇を下ろしたようで、密かに安心していた。シレール兄さまとも、以前とは少し違う形で、また親密になれたと思うし。

 あたしが子供だった頃は、兄さまも、厳格な教師でいるしかなかったのだ。一族の役に立てるよう、あたしの能力を育てなければならなかったのだから。でも、あたしが自立できるようになれば、もう、がみがみ叱る必要もない。

 穏やかに話していられるのなら、心地よい時間が過ごせる。古典文学の話、地球時代の神話の話。話題の映画や、新しいインテリアの流行。兄さまの寸評は皮肉が効いているけれど、的確で、こちらも勉強になる。泉も、だから、兄さまと一緒にいたいんだろうな。

 あたしがほとんど毎日、仕事以外の兄さまの時間を奪っているのは、泉にしてみたら不公平かも。

 いいえ、かも、じゃない。不公平そのものだ。

 本当は泉に、今の組織から抜けて、こちらに来るように言うべきではないの? どうせもう、スパイとしては役に立っていないことが、リザードやグリフィンにも知られているのではない?

 別組織への移籍は、上手く話をつければ、可能なことだ。兄さまなら、遺恨が残らないよう、泉を引き抜くことができるはず。それが不可能なら、泉の死を偽装することも、罠を仕掛けて、向こうの組織を潰すことだってできるだろう。

 よほど強力な組織でない限りは。その後ろにいるリザードや、グリフィンを怒らせない限りは。

 でも、その提案は、あたしの口からは出なかった。まだ、このままでいたい。もう少しだけ。

 いいでしょう、そのくらい?

 だって泉はもう何年も、兄さまの優しさを一身に味わってきたのだもの。あたしはその間、《ティルス》でお祖母さまにこき使われ、兄さまには見捨てられたと思っていたのだから。

9章-1 ミカエル

「そうか。そういうことなら、ダイナとシレールの邪魔はしないでおこう」

 久しぶりに帰郷したリリーさんとヴァイオレットさんは、マダム・ヴェーラや麗香さんに挨拶した後、ぼくの桔梗屋敷に遊びに来てくれた。セイラがいそいそ、もてなしの準備をしている。リリーさんはいつも三人前食べるから、料理のし甲斐があるのだ。

 シレールさんを巡る三角関係は、いずれ穏便に決着がつくだろうとぼくは話した。これがダイナさんの乗り越えるべき試練だという点も、リリーさんたちと共有できた。

「あの子ももう、子供とは言えなくなったもんね。それどころか、総帥の座を継がなきゃならないんだから。恋敵の一人や二人、抱え込む度量がないと」

 とリリーさんはおおらかに言う。

 リリーさんならたぶん、男女取り交ぜたハレムを構えるくらいの度量があるとぼくは思うが、それを許さない人が側にいるから、ぼくは撤退せざるを得なかったのだ。

 ふと、思うことはある。もしもぼくが人間のままでいて、リリーさんと暮らすようになっていたら、どんな日々だったろうか。

 きっと、幸福の絶頂と絶望の地獄の間を行き来する、ジェットコースターのような毎日だったろう。

 リリーさんが危険にさらされる度に、ぼくは寿命が縮み、生還してくれる度に、跪いて天に感謝する。ぼくは自分に十分な力がないことを嘆き、悪魔に魂を売ってでも、リリーさんを守りたいと願ったはずだ。

 だから、こうなることはむしろ必然だった。ぼくは、望んで堕天したのだ。悪魔の側に堕ちたからこそ、いつまでもリリーさんを愛することができる。

紅泉こうせん、あなたが総帥を引き受ければ、ダイナに重荷を負わせなくて済むのよ」

 とヴァイオレットさんは微笑んで言うが、根っから自由人のリリーさんには、そんな制約だらけの生活は、とても耐えられないだろう。それはヴァイオレットさんにもよくわかっていて、からかうつもりでそう言うのである。

「あたしより、シヴァが戻ってくれればねえ。ダイナの助けになるのに」

 リリーさんは、あえて言う。彼の名前をヴァイオレットさんが聞きたくないことは、よく知っていて。

(いつまでも男嫌いを引きずっていて、どうするの。男なんて、邪魔なら蹴り飛ばして、通り過ぎればいいんだから)

 という励ましなのは、ぼくにはわかるが、ヴァイオレットさんには、まだ苦痛なのに。

 彼女は、単に男嫌いなのではない……男という種族に、見切りをつけているのだ。辺境の現状を見る限り、それは正しい判断だと、ぼくも認めざるを得ない。この世の不幸のおおかたは、男の愚かさに起因している。

 ただし、シヴァはその中では、かなりまともな部類なのだ。若い頃の事件で嫌悪されたままというのは、不当ではないだろうか。

 シヴァは現在、ハニーの元で《ヴィーナス・タウン》の番犬と化しているが、それはこの二人の知らないことである。いつ彼らが再会するのかは、麗香さんの考え次第だ。

 再会した後、どんな協力体制ができ、辺境がどう変わるのかも。


   『ブルー・ギャラクシー 泉編』9章-2に続く

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集