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【連載】かくれ念仏/No.19~大口の一向一揆~

●大口の一向一揆

九州は全国平均に比較して、一揆のような農民の騒擾は少ないという。
鹿児島純心女子短期大学教授で尚古集成館館長、鹿児島県立図書館館長などを勤めた芳即正先生の研究によると、〝薩藩における抵抗運動〟は「愁訴嘆願、不確かなものまで含めて19件、薩摩国5件、大隅国11件 (ほとんど奄美諸島)、日向国3件」でいずれも江戸期のものだという。しかし、この数は、最低これだけは確証があるというだけで、歴史の波間に消えてしまった一揆がまだあるだろうことは容易に考えられる。

かつて大口で〝一向一揆〟が起った。この勃発年には2つの説があって、『伊佐郡史』・『菱刈史』には明治元年9月とあり、『鹿児島百年』・『菱刈町郷土誌』・『東京日日新聞』には明治6年10月とある。また、人別調査掛の職にあった郷士、須佐美行正の履歴書に、「明治三年十一月、真宗僧捕縛シ筋々へ訴出且陰謀客ヲ鎮治ノ廉ニ依リ金五拾銭下賜候事 鹿児島県庁」と記録されている。これが件の一向一揆を指すのか、別の件なのかは不明である。

いずれにせよ、明治初年から真宗解禁の間に、大口にて真宗門徒の騒動があったことは事実である。

事件の概略は、牛山郷市山村(現伊佐市菱刈市山)にて、真宗の僧が密かに布教をしていた。これを知った大口常備隊の有村隼治・松下助治らは市山に急行。隠れていた僧を捕えて牢(現伊佐市大口仲町中央通り付近)にぶち込んだ。信徒たちは僧を奪い返そうと鎌やナタを手に松明をかざして青木方面から篠原を通り木崎原の常備隊練兵場へ向った。市山の信徒を中心に青木・篠原の農民信徒も合流、その数は数百に達した。これを知った常備隊では隊員を集め大砲三門を水の手・仮屋・町入口に配置し木崎原に向けて発砲したので、たちまち信徒の集団はクモの子を散らすように逃げてしまった。翌日、僧は仮屋に引き出され小隊長大脇宗八郎の取り調べを受け鹿児島に護送されたが、このあと海路送還されるように見せかけ、海中に葬られたと伝えられている。

明治6年11月、大山県令が宍戸教部大輔あてに提出した報告によると、「三潴県(福岡県)柳川の真宗僧侶属心という者、ひそかに県内牛山郷に潜入し、野山辺鄙の場所へ農民ども数百名相集め、後生の虚誕を唱え、布施賽銭をむさぼり、愚昧の農民どもこれがため惑され、農事を擱き饗待しわけて政体の妨害を成し候につき…」と、僧侶の情報まで詳しく書かれており、明治6年10月22日の『東京日日新聞』には「大砲等の備えありて遂に発砲なせしより、頑民は山林へ遁走せしかど死傷少からざる由」と一揆で犠牲者が出たことを報じている。

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