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不登校から人生を転換した親子の物語
はじめまして。
不登校親子のための
寄り添いコーチのゆららです🌸
✼••┈┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈┈••✼ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ
今の私は、、、
繊細な娘の気持ちに寄り添って
娘や息子のしたいことを
万全の体制で応援してあげられて
仕事も大好きな人たちに囲まれて
毎日新しい発見
ワクワクで楽しい毎日を
人生を心から
楽しめるように
なりました✨
公式LINEの登録者数は200名近く🙇
相談者数は、クライエントさんや体験カウンセリングの方はもちろん、
不登校や行き渋りに悩む、教員時代の保護者の方を含め、総勢150名以上。
でも…
以前は全く違って
教員として、学校の子どもたちのためには一生懸命向き合ってきたけど、
我が子に関しては、ほったらかし。
学校に行きたくないと泣き叫ぶ娘を
まるで誘拐犯のように車に乗せ、
腕を引っ張り学校に連れて行っていた、
毒親だったんです。
そして、自分も仕事と家事育児を両立できず、
職場で倒れ、
うつ病、適応障害に。
親子で学校に行けない不登校。
教員としても母としても、自己肯定感はゼロ。
布団から起き上がることもできず、
真っ暗なトンネルから一生出られない。
そう思って毎日泣いていました。
じゃぁ、なぜ人生が180度も変わったのかって?
気になります?
今回は私の人生観や生い立ち、失敗、挫折経験など、
すべてをさらけ出そうと思います。
同じように苦しむ人の、一筋の光となることを願って…
私は現在、教員の夫と、小5の娘と小2の息子と暮らしています。
私は、真面目で神経質な両親の元、3人きょうだいの長女として産まれました。幼少期から体が弱く、しょっちゅう熱を出しては、親が近くの病院に走ってくれ、点滴を受けたり、幼稚園の半数は欠席したりしていました。
幼い頃から体も気も小さく、小学校ではよく腹痛を起こし、母親が学校まで迎えにきていました。病院に行っても「自律神経失調症ですね」と言われていました。
小学校高学年で転校。人見知りの激しい私が、思春期に新しい環境になじめるはずもなく、人間関係では小・中学校と、ずいぶん悩みました。
いじめも経験し、
「誰も分かってくれない」
「自分なんていなくなった方が…」
と思っていた時期もありました。
そして、思春期には親にも反抗をし、ずいぶん心配もかけました。
高校は、荒れた中学時代の名残で、髪の毛は真っ茶色で入学。
でも、出会った一人の先生は、それを怒鳴って注意するわけでもなく、
「遠くから見たら、外国の人かと思ったわ」とユーモアを交えて気さくに話してくれました。
中学では「高校に行けないぞ」と言われた私が、
高校での素晴らしい出逢いのおかげで、
勉強の楽しさも初めて知りました。
素晴らしい仲間にも恵まれ、中学に引き続き3年間、バスケットボール部で最高の仲間と汗を流しました。
小中学校で私が一番辛かった時に、学校の先生は
何の力にもなってくれなかった。
そんな経験があったからこそ、
私は将来、全ての子どもが心から楽しく通える学校を創る先生になるんだ、と教員を志すようになりました。
大学を卒業してすぐ小学校の教員になった私は、初年度、33人の子どもの担任としてスタート。
右も左も分からぬ中、産まれて初めて親元を離れ、新天地で社会人生活を始めましたが、
ストレスと多大なプレッシャーで身も心も
ボロボロに。
ただ、子どもたちの笑顔を見たいという一心で、
毎日持ち帰った山盛りのノートの丸付けをし、
日記帳にコメントを書き、土日も仕事漬け…
その後、学生時代からの付き合いだった夫の地元の教員採用試験を受け直し、結婚。
子どもが大好きな私たち夫婦でしたが、
なかなか子宝には恵まれませんでした。
お互いに教員として忙しい日々。
土日の休みにも仕事をする合間を縫い、
不妊治療のため、病院に通いました。
そして、ようやく授かった、
小さな小さな尊い命。
涙を流して喜んだのも束の間。
お腹の中で、小さな生命は間もなくお空に逝ってしまいました。
泣いても泣いても戻ってこない。
そこから、治療と流産を繰り返しました。
心も体もボロボロなのに、仕事は待ち受ける。
もう、全てを投げ出したい。
手術のために仕事を休んでも、翌日からはまた仕事へ。
学校で子供達と接していても、私の心にぽっかりと空いた穴は、埋まりませんでした。
仕事がきつすぎるのかな…
もう、私たちのところには、赤ちゃんはきてくれないのかな…
泣いても泣いても涙は枯れないんだと、初めて知りました。
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そして、全てを手放し、旅に出ました。
今までしたことのないことを全部しよう、
と思いました。
そうして気持を全てリセットし、もう一度チャンスを!と願った矢先、
大切な命を授かりました。それが今は10歳になる娘です。
その後、再び奇跡が舞い降り、2歳差で息子を授かりました。
でも、繊細過ぎる娘と、多動傾向の息子、
そして近所に住む、義母の大病が発覚。
私の育児はがむしゃらで、めちゃくちゃでした。
でも、保健師さんからは、
「学校の先生なんでしょ。じゃぁ大丈夫ね。」
なんて言われ、弱音も吐けませんでした、
育児書通りにいかない毎日。
泣きながらご飯をつくっては子どもに大声で怒り、「もう無理…」と夫に子どもを預け、家を出たこともありました。
娘と息子をおんぶと抱っこで、近くに住む義母の介護に行き、「もう私は長く生きられない…」と泣く義母を、励ます日々。
私のキャパはとっくに超えていたけど、余命を宣告された義母の前で、弱音は吐けない。
子どもと3人になったとたん、ストレスは爆発しました。
娘の入園を見届けて、義母は霊山に。
自分の娘のように愛情をかけてくれた義母の死は、私にとってとてつもなく、大きなショックでした。
私の力では、子どもたちをまともに育てられない。子どもたちから離れなきゃ。
そう思い、息子が1歳半のときに職場復帰。
子育てをプロに任せたら状況は改善されると信じていましたが、待ち受けていたのは、さらに厳しい現実でした。
育児休業でブランクはあっても、年齢だけは重ねているので、職場での責任は重くなる一方。
子どもの迎えの時間までに仕事を終わらせて、
帰ってご飯、お風呂、翌日の準備に、持ち帰った山積みの仕事。
毎日これでいいのかという考えが頭をよぎってもそれについて自分の心と向き合う余裕もなく、
誰のために、何のために仕事を必死でしているのか、分からなくなることも多々ありました。
そして、娘はその間、ずっと登園・登校渋り。
低学年までは何とか説得し、担任の先生にも力を借りて学校に送っていき、その後はお任せ。
でも、中学年になり、自我も芽生え、自分の気持ちを言動で表せるようになった娘を、無理やり引きずって学校に連れていくことに、私自身も限界を感じていました。
そしてついに娘は、担任の先生とあまりにも合わなかったことが引き金となり、夜泣きや不眠など体にも不調が出て、不登校に。
私自身も、長年耐え続けてきた職場のパワハラで精神状態はギリギリだった上、娘の夜泣きを毎晩ケアし、心身のバランスが崩れていきました。
そしてついに、教壇に立っているとき、子どもたちの目の前で倒れてしまったのです。
病院では適応障害と言われ、診断書には「うつ病」と書かれていました。
何ヶ月も悩んだ末、最終的には、天職だと思っていた教員という仕事も手放すことになりました。
娘は不登校、私は無職に。社会人としても、母としても、自己肯定感はどん底。
そのとき、ふと、頭に浮かんだのが、私の実の妹でした。
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8歳下の妹は、幼い頃から破天荒で、真面目で神経質な家族の中では、1人異色を放っていました。
妹は、父親の説得もあり大学には渋々行ったものの、やりたいことを見つけ、卒業後は親の勧めにも断固として自分の意思を曲げず独立開業し、予約の取れないパーソナルカラーリストとしても活躍していました。
世界を飛び回る妹は、どこか違う世界に住んでいるように感じ、妹のサロンにも忙しさと育児を理由に1度も足を運んだことはありませんでした。
なぜ、その妹に連絡を取ろうと思ったのか、その時は分からなかったけれど、今なら分かります。
自分の人生に真っ直ぐ生きている、私の一番身近なモデルだったから。
「お姉ちゃん、今までよく続けたね」
「もう、休むことだけ考えて、自分の心に従って過ごしなよ」
妹からは、ワクワクすること、会いたい人に会うこと、心地良い場所に行くこと、というミッションを与えられ、私は今までにない自由を手に入れた感覚を得ました。
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大好きなヨガも再開し、段々と元気を取り戻していった私は、
娘の不登校、自分自身の人生と向き合うにあたり
これまでに学んだ心理学をもう一度深く学び、不登校、子どもの発達、親子関係、夫婦関係の本を
200冊以上読みあさり、親子でカウンセリングにも通い、
5か月間、毎日、毎日、自分の生き方と向き合いました。
その中で、教員としても母親としても、妻としても、
自己肯定感がどん底まで落ちた私を救ってくれたのは、
カウンセラーの先生でした。
「そんな酷いパワハラによく耐えたね。もっと怒っていいんだよ」
感情に蓋をし続け、自分が我慢して相手に合わせることで、全て丸く収まり、効率的に仕事が進むと思い込んでいた私は、
怒りも、悔しさも、悲しさも、
全てに気付かぬよう蓋をしていたのです。
そこから私は、感情や思いをノートに書くようになりました。
私にも感情はある。
娘にも感情はある。
娘と私は別の人格。
この感覚や気付きを忘れたくない!そう思い、
今まで見るだけだったSNSで、発信を始めました。
苦手なパソコンを使い、投稿の仕方も全く分からないところから、つたない発信をする中で、
お子さんの悩みを打ち明けてくれたママがいました。
そして、個別の相談会では、
「ゆららさんに相談して良かった。心が軽くなりました」と
言ってくださったのです。
無料相談では、お子さんの不登校に悩むのママの悩みをお聞きし、
ママのマインドがお子さんの変化に大きく関わると改めて感じました。
そして、多くのママが、幼少期の頃からの思考の癖が現在にも影響を及ぼし、色々な思い込みに縛られていると感じました。
同じように悩むママの力になりたい!
カウンセラーとして、悩める人のお役に立ちたい!との思いが沸き起こりました。
そうして、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、
ビジネススクールに入ったのです。
でも、自分でビジネスをしていくのは、並大抵の覚悟では続きません。
孤独で、毎日が自分との闘い。
心が折れそうになることが、何度もありました。
そして、出会ったカウンセラーのメンター。
そこのスクールは、とにかくスクール内の皆さんが互いに励まし合い、楽しく学んでおられるのが眩しく見えて、
底をついた貯金を切り崩し、更なる自己投資をして、カウンセラーとして悩めるママのお役に立つんだ!というビジョンをもって進むために、更に学ぼうと決めました。
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もう、ここで私の自己投資額は300万円を超えています。
もう、あと戻りできないと、慣れないSNSに必死に行動しました。
心に決めて行動した結果、
「ゆららさんと、一緒に進んで行きたいです」と
言って、カウンセリングを始められる方が、
一人、また一人と増えていきました。
![](https://assets.st-note.com/img/1721881813910-zYZW7dXbjt.png)
これまでの人生、無駄な時間も出来事も1つもなかったと信じているけれど
やっぱりどん底の頃はホントにきつかった…
だから、
今、子どもの不登校や子育て、家族の関係で本当にしんどい思いをしている人には、
私のように苦しいトンネルの中で孤独に悩まずに
人生のコンパスをもって、軽やかに明るく進んで行ってほしいと
心から願ってこの活動をしています。
幸せは、誰かに与えてもらうものじゃなく、
自分で気付き、創るものだから。
一度きりの人生、
心から幸せになりたい!
限られた子育ての期間、子どもの成長を一緒に楽しみたい!
そう思っているあなたと、繋がっていきたいと私は思っています。
さらに私は、学びを深め、
現在はヒューマンデザインという、世界最高峰の自己理解の学問を、カウンセリングの中で自己理解の1つのツールとして組み込んでいます。
あなたが生きているだけで、何にも代えがたい価値がある!それを一人でも多くのママや子どもに伝えたい。
あなたが一生モノの自分軸を手に入れて
人生を謳歌されることを願っています!
長くなりましたが、最後までお読みいただき
ありがとうございました✨
子どもの不登校や行きしぶりの対応に悩む…
私の子育て、このままで大丈夫かな…
夫婦関係、人間関係、自身のキャリアに悩む…
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