【Physical Expression Criticism】壁のシミに抽象画を見る、だけではない。叶野千晶展
壁景の意味
不思議な作品を見た。抽象のようだが、版画のようでもある。そして、筆などで描写したようには見えなかった。どうやってつくっているのか。これは写真なのか、ペインティングなのか。
叶野千晶「壁景」展
そのタイトルが気になった。「壁景」。なるほど、これは壁を描いたか、写したものだろう。だが、普通の壁には見えない。何か特殊な壁を撮影して、加工したものではないか。そういう作品がいくつも並ぶ。
さらに、他の作品を見た。これらはすぐに写真とわかる横長の小さな作品群。緑の野原、のどかな風景だ。だが、よく見ると、一つには墓がちらり、他のものには手前に鉄条網、さらに奥に古い建物がある風景もあった。
となると、と思い当たる。アウシュビッツ、ポーランドのナチスの収容所だろうか。見ると文章に、ポーランドの文字があった。間違いない。
しかし鮮やかな青。壁らしくない平面。もう一枚は、緑っぽい色。いずれも抽象画のような模様が入っていて、味のある美しさを備えているといっていい。
(イメージ)叶野千晶〈WALL-SCAPE〉2018-2021
在廊していた作者に写真であることを確認した。だが、特に加工していないという。プロフィールを見ると、写真家だった。井の頭動物園にいた、象の花子なども撮影している。リアリズムの写真家といっていい。そして、この「青色」についてたずねると、青酸ガスだという。これは、ナチスがユダヤ人を虐殺した有名な「チクロンB」の使われたガス室内の写真なのだ。
一見、緑の溢れたのどかな風景の小さい写真群。そして、紙に刷り出された抽象画にしか見えない平面作品。これらが合わさると、第二次大戦時のナチスの恐怖、ホロコーストのアウシュビッツ、その外と中を構成することになる。
アウシュビッツと現代
(イメージ)叶野千晶〈WALL-SCAPE〉2018-2021
アウシュビッツについては詳しくない。子ども時代に読んだ『アンネの日記』(1947年)。次が、V・E・フランクル(1905~97年)の『夜と霧』(1946年)、そして、いくつかの映画やドキュメンタリーなどだ。しかし、『夜と霧』などで見た写真は、衝撃的だった。収容者たちから集めたメガネ、義足、刈られた髪の毛。その膨大さに驚いた。重ねられた死体、人間の皮でつくられたランプシェード。さまざまなエピソードとともに、ともかく恐ろしかった。人間が人間に対する所業とは思えない。両書ともに、時折話題になると、読み返したりするのだが、以前ほどリアリティを感じなくなっている。
だが、日本軍の侵攻においても、似たようなことが浮き彫りになっている。毒ガスといえば、最後は陸軍中将となった石井四郎(1892~1959年)の731部隊による人体実験。そのデータが戦後、米国に渡り、石井は戦犯を免れ、後に米国で細菌兵器などに使われたという。そして、ホロコーストについても、ドイツと同盟国として戦った日本人として、まったく関係ない、ではすまされないだろう。当時、来日したヒトラー・ユーゲント、ナチス青少年団の行進を見て、憧れた人も多かった。また、現在、ヒトラー、ナチはひどいといいながら、他方で、反中、反韓発言を垂れ流す人が、なんと多いことか。彼らの多くは、やがてホロコーストなかった論や、陰謀論を唱え出すだろう。
(イメージ)叶野千晶〈WALL-SCAPE〉2018-2021
『ヒトラー 最期の12日間』(オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督、2004年)という映画がある。最期まで立ち会ったヒトラーの私設秘書の手記と、ヨアヒム・フェストによる研究書に基づくものだ。ヒトラーの理想都市、「ゲルマニア」を設計した建築家、軍需大臣をつとめたアルベルト・シュペーア(1905~81年)も描かれる。映画の冒頭と最後に、その秘書トラウドゥル・ユンゲ自身が登場して証言する。ヒトラーとゲッペルスの遺言を作成し、ナチスドイツに翻弄される一般女性として、ヒトラーとともに主人公として描かれている。
だが、映画に出てこないトラウドゥルの夫は、実はナチス親衛隊将校だった。建築家シュペーアは、戦後、すぐナチスの非を認め、ニュルンベルグ裁判で米国検事に擁護された。ホロコーストの関与を否定して死刑を免れ、禁固20年で1966年に自由になった。だが近年、検事との密約などで証言の真偽が疑われ、ヨアヒム・フェストとの関係も問題になった。さらに、後にオークションに出した大量の美術品も、彼が隠していたナチスの略奪品だと報道された。
トラウドゥル・ユンゲとともに働き、脱出した女性が亡くなったのは、フランクルと同じ1997年。ヒトラーとシュペーアのゲルマニア構想でつくられ、1936年のオリンピックで使われたベルリン・オリンピア・スタジアム(ベルナール・マルヒ設計)は、2006年のワールドカップ、2009年の世界陸上でも使われている。シュペーアの息子はドイツで建築家として、2008年、北京オリンピックのマスタープランを担当し、父のナチス・ゲルマニアとの類似が問題になった。ナチスとホロコーストはまだ現代につながっている。
(イメージ)ベルリン・オリンピア・スタジアム(1936年。現在は改築され屋根がついている)
邦題の『夜と霧』がロマンチックに思えるとしたら、それは間違いだ。ナチスが制定した政治犯狩りのための法律で、ユダヤ人撲滅作戦につながった。当時、少壮の精神分析学者で、アウシュビッツ収容所からドイツのダッハウ収容所を体験したフランクルは、その体験を淡々と客観的に書く。
引用:「一体この身体は私の身体だろうか、もうすでに屍体ではなかろうか。一体自分は何なのか? 人間の肉でしかない群衆、掘立小屋に押し込められた群衆、毎日その一定のパーセントが死んで腐っていく群衆、の一部分なのだ」
生還したフランクルは、ウィーン大学医学部神経科教授として、心理学、精神分析学の著書を多数執筆している。作家の野上弥生子は、『夜と霧』を、ダンテの地獄篇以上、現代のヨブ記と評する。評論家の中村光夫は、「読むだけで寒気のするような悲惨な現実をつづりながら、不思議な明るさを持ち、読後感はむしろさわやか」と述べる。残されたものの意味を忘れてはいけない。
壁のしみとダ・ヴィンチ
(イメージ)叶野千晶〈WALL-SCAPE〉2018-2021(部分)
叶野千晶展に戻ろう。壁のしみが絵になるということについては、次のような文章がある。
引用:「レオナルド・ダ・ヴィンチは門下生に寺院の壁のしみを写せと教えた事があるそうだ。なるほど雪隠などに這入って雨の漏る壁を余念なく眺めていると、なかなかうまい模様画が自然に出来ているぜ。君注意して写生して見給えきっと面白いものが出来るから」
これを語っているのは、猫である。といえばおわかりだろう。夏目漱石の『吾輩は猫である』(1906年)。猫の主人(漱石)は、「何にでもよく手を出したがる」ので、俳句、新体詩、英文、弓、謡、ヴァイオリンなど、「どれもこれも物になっておらん。その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ」が、今回、水彩画に挑戦している。そして、友人の美学者(迷亭)に、イタリアのアンドレア・デル・サルトの言葉で、「画をかくなら何でも自然その物を写せ」と助言される。それで、主人(漱石)は吾輩(猫)を手始めに写生するのだ。
主人は、うまくいかず諦めているが、再び美学者が来たので、さすがデル・サルトというと、「あれは捏造だった」と笑われる。そして、さらに美学者がいった言葉が引用した一文だ。主人(漱石)は、後架(トイレ)で謡はうなったが、結局、雪隠(トイレ)で写生はしなかった。南伸坊は、これを読んで、デル・サルト(1486~1531年)も架空だと思ったらしいが、レオナルドの言葉はちゃんと『絵画論』(1632年)にあって、さまざまな影響を与えた。
(イメージ)叶野千晶〈WALL-SCAPE〉2018-2021
例えば、シュルレアリストたちである。マックス・エルンスト(1891~1976年)は、『善悪の彼岸』(1937年)で、ジョゼファン・ペラダン版のレオナルド『絵画論』を引用している。そのなかで、ダ・ヴィンチが、ボッティチェルリを叱って次のように述べている。
引用:「もしも、君が立ち止まって壁の染みや暖炉の灰や雲や小川を凝視し、それらがどんな様相だったか、幾度か思い出すとしても、私が思うにはそれを軽視すべきではない。それらを注意深く眺めていると、そこに非常に驚くべき創意をいくつもみつけることだろう」
また、シュルレアリスムの創始者、アンドレ・ブルトン(1896~1966年)は、『狂気の愛』(1937年)のなかで、次のように述べている。
引用:「レオナルドの教えは、長い時間古い壁を注視し、そこに描き出されてくるもの(中略)を見て、模写するよう弟子たちに勧めるものだが、この教えが理解されたと言うにはほど遠い。主観性から客観性への移行という問題の全てが、そこで、暗黙のうちに解決されている」
このように述べて、ブルトンは、「漆喰のはがれた壁」とシュルレアリスムの関係を論じる。もっともエルンストは、レオナルドのこの壁のしみの言葉で、「耐えがたい視覚的強迫観念」に襲われたと述べている。つまり、しみや汚れを見るたびに、それにとらわれすぎたということだろう。だが、それほどまでシュルレアリストたちに、この「レオナルドの壁のしみ」は影響を与えたといえる。そして、漱石も注目したことが、興味深い。それは、おそらく芸術の本質に関わることだからだ。
(イメージ)叶野千晶〈WALL-SCAPE〉2018-2021
主観性と客観性
叶野千晶の「壁景」は、その壁の美の典型といえるだろう。ブルトンのいう主観性と客観性に注目すれば、現実の壁を注視して見えるものを主観でイメージするとともに、それを描くことで客観化する。それは、この作品の見方、そして写真というものの見方にも通じるものがある。アウシュビッツ、あるいはポーランドという情報がなければ、ホロコーストを思わない。一つの抽象画、そして風景の写真というとらえ方にとどまるだろう。
だが、そのまま見て、そのまま理解しても、美として認識して、強く惹きつけられるものがある。そこに、情報が与えられることで、思考とともに、イメージが広がる。想像力が広がる。それは、おぞましい歴史の痕跡であるのだが、同時に美を感じさせる。
ホロコーストのランプの写真は、人の皮ではなかったようだ。それを利用していたことは、証言されているが、写真に感じたおぞましさは虚構だった。
これらは、客観的現実に、主観がどう向き合うかということでもある。叶野千晶の「壁景」は、それらの問題を、私たちに突き付けている。
(文・写真:志賀信夫)※掲載写真は本サイトのみとなります。
---------------
叶野千晶 壁景 Chiaki KANO WALL-SCAPE
2021年9月3日(金)~9月15日(水)
横浜・ギャルリーパリ
http://www.galerieparis.net/coming.html
---------------
参考
古屋詩織「シュルレアリスムのオートマティスム―画家たちの「レオナルド・ダ・ヴィンチの壁」の実践―」
谷川渥『孤独な窃視者の夢想―日本近代文学のぞきからくり』月曜社
■志賀信夫他のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%bf%97%e8%b3%80%e4%bf%a1%e5%a4%ab/
志賀信夫
Nobuo Shiga
批評家・ライター
編集者、関東学院大学非常勤講師も務める。舞踊批評家協会、舞踊学会会員。舞踊の講評・審査、舞踊やアートのトーク、公演企画など多数。著書『舞踏家は語る』(青弓社)共著『美学校1969~2019 』『吉本隆明論集』、『図書新聞』『週刊読書人』『ダンスワーク』『ExtrART』などを執筆多数。『コルプス』主宰。https://butohart.jimdofree.com/
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?