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【The Evangelist of Contemporary Art】第14回光州ビエンナーレ―水の美的教育について(その3)

その2より続き

4. ビエンナーレ・ホールの外へ:テーマの例証の先にあるビエンナーレの結論としての作品

・ビエンナーレ・ホールに近い国立光州博物館(46)

 この会場(47)は、ビエンナーレ・ホールに近いせいか、未だ水のテーマの例証の延長と思われる作品群(48~54)だった。つまり、アンビギャスな表現のカオティックな作品によって占められていた。とはいえ、カオスは前アンビギュイティの段階と解釈されるので、アンビギュイティから離脱するモーメントを秘めた作品の集合である。とくにJames T. Hongの両面スクリーンのヴィデオ(52~54)は、1つのナレーションから生成する2つの映像という優れた事例を提示することで、アンビギュイティの2つの意味を切り分けることに成功している。それは、アンビギュイティの両面を同時に鑑賞することができないことを、見事に形象化しているのだ。

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・Horanggasy Artpolygon(55) 

 この会場には、水の流動性が生き生きと表現された作品(56~63)が集められた。水のアンビギュイティが解消されて、融通無碍な流動性に合流したのである。このなかでは、ベルリン在住のAnne Duk Hee Jordanのインスタレーション(61~63)が、水の流動性が揮発して色彩の極限的なハルシネーションを惹き起こしている。

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・Mogaksa(64)

 この仏教寺院のアートスペース(65)では、場所柄か、宗教色のある表現が取り上げられていた。アートは宗教に取って代われるというヘーゲルの歴史的予言を実践しているのだろうか。5.18記念公園内にあるMogaksa寺の会場に展示された作品(66~72)は、どれも「解脱」を結論に持ってきたかのようだ。融合し解消したアンビュギュイティのあとに現れる世界は、モダンの主客二元論を止揚した、その間に流れる非人称の時空間なのだろうか。

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・Artspace House(73、74)

この会場は、1点のみの展示(75、76)だった。アーティストの編み出す映像は、虚と実、生と死のアンビュギュイティ以後の混然一体となった世界の水域を遊泳しているように思えた。

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5. むすび

 ビエンナーレ・ホールとその他の全会場(ナショナル・パビリオンを除く)の展⽰作品から垣間見えるのは、2023年の光州ビエンナーレがアートとしての教育を実践しているとすれば、倫理的価値の介入なしにアート=教育は成立しないということである。したがって、今ビエンナーレに際して私が提起した水のアンビュイティの解消は、1980年に勃発した光州市民の抗争の現場(77、現在5.18記念広場)の記録(78)が民主主義の顕彰の役割を果たしているように、この倫理的価値の再考を促すものだった。

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  了

(文・写真:市原研太郎)

◾️前のブログ
第14回光州ビエンナーレ―水の美的教育について(その1)
第14回光州ビエンナーレ―水の美的教育について(その2)

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市原研太郎 Kentaro Ichihara 
美術評論家
1980年代より展覧会カタログに執筆、各種メディアに寄稿。著書に、『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(2002年)、『アフター・ザ・リアリティ―〈9.11〉以降のアート』(2008年)等。現在は、世界のグローバルとローカルの現代アート情報を、SNS(Twitter: https://twitter.com/kentaroichihara?t=KVZorV_eQbrq9kWqHKWi_Q&s=09、Facebook: https://www.facebook.com/kentaro.ichihara.7)、自身のwebサイトArt-in-Action( http://kentaroichihara.com/)、そしてTokyo Live & Exhibits: https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/にて絶賛発信中。

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