『誰のためのアクセシビリティ?』刊行記念対談 田中みゆき×近藤銀河(第1回)
田中 田中みゆきです。私は、キュレーター、プロデューサーという肩書きで活動しています。元々、美術館や科学館で展覧会をつくる仕事をしていたのですが、2014年頃から「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、様々な障害のある人と展覧会やパフォーマンス、ゲーム、映画などをつくっています。
近藤 近藤銀河と申します。もう15、6年、人生の半分以上を車いすで生きています。専門はセクシュアルマイノリティと美術ですが、同時にゲームについても研究や執筆をしていて、今年『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)という本を出しました。この本も含め、最近は障害のことを書かせてもらう機会があり、田中さんがぜひとお声がけくださって、本日ここにおります。
田中 私もゲームのプロジェクトをやっているんです。目が見えない人と、音から作って音で遊ぶ『オーディオゲームセンター』です。いわゆる健常者によるメインストリームのゲームとは違う作り方や価値を提案したいという思いで始めました。やはり今、ゲームのアクセシビリティはすごく進んできています。そういう社会の流れがありつつ、マイノリティが自分のルールで物事を作っていくとはどういうことなのか?と考えさせられる場面が多々あって。そんななか、近藤さんの本を読み、ぜひお話を伺いたいなと思いました。
また、クィアの作り手の場合は、アクセシビリティの問題がクリアされていることが多いというのもあり、進んでいる部分があるなと感じます。そこから学べることがあるんじゃないかなと思うので、そのあたりもお話したいです。
■会場に来るまで、どんな障壁があるのか?
田中 さて今日は、現実のバリアの話から始めたいと思います。例えば、このトークイベントに近藤さんがいらっしゃることに、何か特別に感じることはないと思うのですが、近藤さんが会場にたどり着くまでにどんなバリアがあったのかを想像する機会って実はあまりないですよね。私はそういうことこそ大事だと思うので、本の中でも自分の体験にもとづくエッセイを書いていたりします。
近藤さん、今日はまず家を出るまで、どういう感じでしたか?
近藤 私は、筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)という病気を抱えています。コロナ後遺症に似た病気で、体力が本当にない、常に苦痛があるみたいな感じで、歩いてるとすぐに疲れてしまうので、車いすを使っています。でも逆に言うと、ちょっと歩けるんです。今日は4時頃から、そろそろ出かける準備をしなきゃと、服を着替えて休んで、化粧してまた休んで、車いすに乗りました。私が住んでいる家はバリアフリーとか大層なものは何もないので、うんとこしょとドアを開け、部屋と廊下の間にある段差は、許可を取って置いているスロープを使って降りて。そこから先の、駅までが第1関門です。バスもあるのですが、嫌な思いをすることが多いんです。バスの運転手は時間に厳格なので、スロープを出すのを嫌がる方もいるし、乗った後にも何か言われることがあったり……。それで私はバスには全然乗らなくなってしまいました。人通りは少ない地域ですが、高速で突っ込んでくる自転車が多い。それがすごく怖くて。自転車に乗っている人が悪いというより、うまく分離できなかった日本の交通行政に問題があるのですが、猛スピードの自転車を見て、止まってよけて、よけて止まってをしながら、うんとこしょというのが、まず第一関門ですね。
田中 近藤さんは電動車いすですよね。
近藤 はい。電動なので、レバーを押していれば動く。そこに関しては、手動の方とは全然違う体験だと思います。電動車いすだと、急に止まることが難しいんです。あと、人間って左右にさっと動けるじゃないですか。でも車いすは、前に進みながらでないと左右に動けないので、衝突を回避する時間が足りないんです。だから街では、自転車に冷や冷やすることが多いですね。
田中 それで、電車に乗ると。
近藤 電車に乗るときは、ご存じの方も多いとは思うんですけど、駅員の方にスロープを出してほしいとお願いします。JRの場合、駅員の方が目的地の駅に連絡して、確認が取れて初めて乗れるので、手続きを含めると、2、30分かかり、電車を何本も逃がすことになります。メトロだと、さくっと乗れることもあるんですが。JRが一番安全性に気をつけているということだとは思うのですが、本当に時間がかかる。私はうんざりしたので、本当はやらない方が良いことだと思うし、誰にもおすすめはしないですけど、自分1人で無理やり前輪をちょっと押し上げて、電動パワーでぐいっと乗るというのをここ1、2年やっています。
田中 なるほど、身につけたんですね。
近藤 バッドノウハウだと思いますが……。絶対に。
田中 でも煩わしいというのは、ありますね。
近藤 もし溝にはまっても誰かが助けてくれるからいいやと思っているんですが、そうじゃないと……。駅員さんにスロープを頼んでいる場合、この駅で降りたら面白そうだと思って途中下車したりとか、そういうことも一切できないんです。
田中 そこですよね。
近藤 お手洗いに行きたくても行けなくて、全てあらかじめ決まっていることしかできない。いちいち人にお願いするのもすごく疲れるんですよね。お願い許容量みたいなのがあって、お願いをずっとし続けているとだんだん何も頼めなくなってくるというか。それが嫌なので、私は自分で乗って自分で降りています。
田中 なるほど。それで、池袋に着きましたと。
近藤 駅に着いた後は、使い慣れた駅ならいいんですが、そうじゃないと「あれ?エレベーターどこ?」と探すのが大変だったり。何も標識がないところで降りちゃうと、どっちなのかパッとわからないので、探し回ったりとか。
田中 しかもエレベーターがある出口は、だいたい端の方ですよね。
近藤 そうなんです。ホームから改札へ向かうのもそうだし、そこから地上に上がるのも難しかったりします。池袋みたいな繁華街だと、人が多いですよね。特に人の流れを横切らないといけないときは大変で、「ちょっと通ります!」と叫びながら移動することになる。車いすって、背が低いんですよね。視覚で気づかれにくいので。
田中 歩きスマホの人がぶつかってきたり?
近藤 歩きスマホもそうなんですが、最近音楽を聞きながら移動している方が多いじゃないですか。あれが一番怖い。人の耳を見て、警戒しながら移動しています。
田中 なるほど。
近藤 もちろん、感覚過敏の方や補聴器の方もいますし、音楽を楽しむのも必要なことで悪いことではないのですが、車椅子の側は気をつけることになります。駅から出た後も、人が多くて移動しづらいので、表通りからひとつ外れた道に入って移動しながら、ジュンク堂までやってきました。アクションゲームみたいですよね。向かってくる人を頑張って避けるみたいな。
田中 周りが気づいてくれない場合、そうなりますよね。先ほどの、スロープを出してもらわないと電車やバスに乗れない問題、ありますよね。例えば海外だと、電車やバスからスロープが自動的に出てきて一人で乗れる車体も増えているから、そうなると良いんだろうなと思い込んでいたんです。でも車いすユーザーの友人と話していたときに「正直、混んでいる電車に乗って、スペースを開けてくださいと言う負担が全部自分にかかってくると考えると、僕は今の方がいいかもしれない」と言っていて、なるほど、そういうこともあるよなと思いました。
近藤 ありますね。「降ります、降ります」と叫ばないと降りられなかったり。人によってどこにコストを感じるかはすごく違うと思います。あと、疲れて寝ていても乗り過ごせない。
田中 誘導される場合は、降りる駅が決まっているから。
近藤 私は自分で乗るようになってから、疲れていると乗り過ごすな……と、乗り過ごす人々の気持ちがわかるようになりました。
田中 なるほど。
■マジョリティの「規範」によって奪われるもの
近藤 ある意味、この世界は障害者が「失敗する」ことも体験できないように作られています。失敗しないことは良いことでもあるけれど、どうなんだろう?という引っかかりはあります。あと、イベントに登壇するときに、壇上に上がるためのスロープがないことはよくあって、観客として来ることのアクセシビリティはあるけど、壇上に上がるためのアクセシビリティはない会場が多い。受け手としてのアクセシビリティはあるけど、送り手としてのアクセシビリティはないというのが、これから田中さんとの話の中でたくさん出てくると思います。
田中 『誰のためのアクセシビリティ?』を書こうと思ったのは、まさにそこなんです。差別解消法で「合理的配慮」が義務化になりました、と。その言葉を聞く機会は増えましたが、じゃあどうするか?と考える人の目線が、健常者が作ったものを目が見えない人、見えづらい人、聞こえない人たちにどう伝えるかというベクトルばかりだと思うんです。それすらない領域もまだまだあるので、過渡期だとは思うんですが。でも、すべてが整うまで待ってから作り手のアクセシビリティを考えるのか?というと、そういうことではないんじゃないか。作る側のアクセシビリティも同時に考えないといけないと私は思っています。そうでないと、やっぱり健常者は健常な自分たちの身体を基準として考えてしまう。「そこに満たない人のために代替方法を考える」というやり方だと、健常者の文化をマイノリティに押し付ける形になってしまうので、そうではなく、障害のある人が、自分たちの文化を作って発信していけるようなアクセシビリティも必要です。この本には、その話が繰り返し出てきます。
近藤 本をまだ読んでいない方や途中の方もいると思うので、どんな内容かぜひ伺いたいです。
田中 サブタイトルを「障害のある人の経験と文化から考える」としているのですが、実はそれがメインだったりします。いま近藤さんにお話しいただいたような、障害のある人が駅に着くまでにどういうバリアがあるのか。日常生活において、インペアメント(その人の持つ機能障害)に基づいて、解決方法を提供するとか、機能的なことを補助する必要はまだまだあると思っています。例えば、スロープをつける、視覚情報を音声で読み上げる。そういうことも必要ですが、それとは別に、障害のある人がどうしたら自分の身体でもって主体的に、アートやダンス、ゲームなど、様々な文化や芸術を楽しむことができるのか。そこへのアクセシビリティがまだまだないんじゃないかと思っていて。「情報を補完する」ことと、「主体的な体験を引き出す」ことは、全く別の考え方が必要だということを、私がこれまでやってきたゲームやダンスのプロジェクトのプロセスを書きながら伝えています。
例えば、私のやっている『音で観るダンス』では、三つの異なる視点からの音声描写を作り、それを通してダンスを見ることで、「そもそも自分たちはダンスの何を見ているのだろう? ダンスって何なんだろう?」と考える。一旦、視覚を前提にしないということを、音声描写というアクセシビリティを借りて実験する試みです。
障害のある人が主体的に作っていくアクセシビリティが必要だと強く思ったきっかけは、アメリカでの経験にあります。私は2022年にアメリカに滞在して、障害者コミュニティとアクセシビリティのリサーチをしていました。彼らは健常と言われる人が提供するアクセシビリティに全く期待しておらず、そこにあるのは結局エイブリズム(障害のない人の能力を基準に、障害のある人は劣っていると捉える差別)だと考えていました。自分たちが作って変えていかなければと感じて、実践しているたくさんの人々に出会いました。受け手でとどまっているだけではだめだという意識が日本よりも強いというか。そういう文化に触れたこともあり、この本では、障害のない人に、アクセシビリティとは何か、誰のためにあるのかということを考えてもらうのと同時に、障害のある人にも、自分はアクセシビリティとどう付き合っていけばよいのか?ということを考えてもらえたらなと思って。書き方がとても難しかったのですが、どちらにも向けて書きました。
近藤 さまざまな障害のある方々の話が出てくるし、それぞれの向き合い方も違う。生きていると、「このアクセシビリティって誰のため?」ということに直面します。例えば、建築によっては、裏口に車いすが乗れるエレベーターがちょっと付いている。でも、それって本当にアクセシビリティ?と。こうすればアクセスできるようになりますという発想が、能力主義というか、「同じことができる」というところで終わってしまっている。その質は問われないわけです。結局、それは「健常な身体」を強く想定して、そこに向かって障害者を押し上げているだけなのではないか? そこで、社会、国家、政府、市民が考える「健常な身体」とは何だろう?という問いが出てくるんですよね。この本ではそのことについて、いろんな事例とともに書かれていて、私もすごく勉強になりました。
田中 ありがとうございます。最近、「AXIS」というデザイン専門誌のウェブ媒体に「街からバリアがなくならない理由」というタイトルで記事を書いたんですが、近藤さんはよくご存じだと思うんですけど、車いすの友人とご飯を食べに行くとなったときに、選択肢が少ないんです。ショッピングモールか、ホテルになる。それ以外のあらゆる店には、入口に微妙な段差があるんですね。私にはそれが「段差をまたぐことによってちょっと気分が変わります」みたいな、デザイン的なエゴに見えることがあって、縁のある建築家の方、5、6人に「なぜ小規模店舗に段差ができると思いますか?」と訊いて回ったんです。すると、みんな言うことが違うんですね。それはすごく面白かった。私は車いすのことを全然考えていないからじゃないかと思っていたんですが、実はそうでもなくて、車いすのことを考えているけれど、その人が考える範囲が店の手前で終わっている。実は道路と店の間に段差があるけれど、そこを解消するのはその人の領域ではない。結局、誰がその街を作っているかの線引きの、線のところに段差ができていたりするんです。だからアクセシビリティって、自分のところだけで終わってもだめで、隣り合う店だったり、道路の担当の人とも話し合っていかないと、本当にアクセシブルにはなっていかない。
近藤 車いすだと本当に行ける店が少なくて、友達とご飯を食べに行こうとなると、いつも30分くらい探し回ってどこも行けない……ということがありますね。
もう一つ、大きな問題だと思うのは、そうなると車いすの人間が行けるのってチェーン店や駅ビル、とても大きな資本が投入されて、ジェントリフィケーション(地域に住む人々の階層が上がると同時に地域全体の質が向上すること)された場所だけ。でも、まさにそういう大資本の存在が、車いすを排除しているのでは?という話もある。先ほど、街自体が分断されているという話があったんですが、まさにアクセシブルな世界を阻んでいるのが、そういった縦割り的な行政であったり、いろんな仕組みであったりするのに、車いすの人は一番資本が投下されているところにしかいけないということに大きな矛盾がある。
私自身はクィアで、新宿2丁目に行くんですが、アクセシブルじゃなくて。でも大資本の投下された場に行きたいかというと、行きたくないし。行き場がないですよね。
田中 ゴールデン街とかも。
近藤 無理、無理、無理なんですよね。そうすると、障害がある人って本来オルタナティブな場所が必要なはずなのに、そこから排除されている。誰が悪いんだろう?という感じです。オルタナティブな場所がオルタナティブであり、小さな場所だから、入れないわけで。
田中 映画や演劇もそうです。結局、大資本があるところのものは音声描写や字幕がつくけれど、オルタナティブな映画でついている例って……。シネマ・チュプキ・タバタというバリアフリーの映画館がありますが、それは彼らがほぼボランティアに近い状態でやっていて何とか提供されているけれど、一般的にはまだまだないですよね。
近藤 そうなんです。そういうアクセシビリティが余暇だと思われていますよね。情報アクセシビリティというものがすごく狭く捉えられているなとも思うんですよね。障害者にとって必要な情報、つまり必要であると誰かが考えた情報だけがアクセシブルであればいい。それ以外のものは、別にアクセシブルじゃなくてもいい、みたいな。ゲームなどの娯楽もそうですが、「アクセシブルにしてあげてもいいよ」みたいな感覚があるのは、大きな問題です。最低限与えられるべきものは何か、というのを誰かが判断していて、それがまさに規範的な身体とか、能力主義と結びついているというのを、この世界を生きていると感じさせられるんですよね。(「第2回」へつづく…)
◇田中 みゆき
キュレーター、プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマにカテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害のある人たち含む鑑賞者とともに再考する。近年の仕事に、映画『ナイトクルージング』(2019年)、21_21 DESIGN SIGHT企画展「ルール?展」(2021年)共同ディレクション、展覧会「語りの複数性」(東京都渋谷公園通りギャラリー、2021年)、『音で観るダンスのワークインプログレス』(KAAT神奈川芸術劇場ほか、2017年〜)、『オーディオゲームセンター』(2017年〜)など。2022年ニューヨーク大学障害学センター客員研究員。美術評論家連盟会員。共著に『ルール?本 創造的に生きるためのデザイン』(フィルムアート社)がある。
◇近藤 銀河
1992年生まれ。アーティスト、美術史家、パンセクシュアル。中学の頃にME/CFSという病気を発症、以降車いすで生活。2023年から東京芸術大学・先端芸術表現科博士課程在籍。主に「女性同性愛と美術の関係」のテーマを研究し、ゲームエンジンやCGを用いた作品を発表する。ついたあだ名が「車いすの上の哲学者」。著書に『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)がある。ライターとしても精力的に活動し、雑誌では『現代思想』『SFマガジン』『エトセトラ』、書籍では『われらはすでに共にある──反トランス差別ブックレット』『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』など寄稿多数。
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