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田中みゆき×近藤銀河 『誰のためのアクセシビリティ?』刊行記念対談 (第3回)

2024年9月、田中みゆきさんの著書『誰のためのアクセシビリティ?』の刊行を記念し、近藤銀河さんをお招きしたトークイベントを開きました。(会場:ジュンク堂書店池袋本店 9階イベントスペース)
トークの一部を全3回の記事でお届けします。ついに最終回です!
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■マイノリティの表象はどうすれば当たり前になるのか?

近藤 表象は、今後どうなっていくでしょう? ゲームや映画では、障害のある表象を見つけるのが本当に難しくて、登場していてもスーパーヒューマン的に描かれることが多い。義足だけど、すごい機能が付いているとか。かっこいいけど、障害がある日常にそれは全然ないから、どうなんだろう?とは思います。車いすユーザーはサブキャラにしかならないので、実際に車いすユーザーが主人公のゲームをやったら自分はどう思うんだろう?と。それが想像つくようになると、もっと変わっていくんじゃないかという気はします。

田中 そうなんですよね。以前、『Marvel's Spider-Man 2』というゲームの音声描写を書く機会がありました。ゲームの中にろう者の女の子が主要なキャラクターの一人として出てくるんですが、その子がいるシーンには必ず手話通訳が描かれているんです。ただいるだけではなく、その子が見える位置にちゃんといるんですよね。やっぱり当事者が入ってやらないとそうはならないなと。

近藤 いろんなディテールも含めて、自分が生きている経験だと思えるような。マジョリティがインクルーシブしてあげるんじゃなくて、この人たちに送りたいんだという気持ちが背景にあって作られるものが増えてくると、どんなふうに感じ方が変わっていくのかなというのには興味があります。

田中 今日のお話を踏まえて振り返ると、やっぱりコミュニティに向けているからだなと思いました。健常者にとっての見え方とか、ダイバーシティを売りにしたいとかじゃなく、コミュニティに向けて、コミュニティに恥ずかしくないものを作っているという感じがします。

近藤 おそらくそれが一番大事で、クィアもそうですが、マジョリティに自分たちの文化を説明しようとかではなく、当事者やコミュニティの中にいる人々に向けて作るという考えがあると、表現の仕方が変わってくるし、自分も作ってみようということが増えてくるんじゃないかと思います。そうやって自分の体験を語ったり、共有したりすることは、アイデンティティ形成、あるいは自分の人生を考えたり振り返ったりするために重要なことです。そういう表象が、マジョリティのために描かれていると、どんどん自分の人生が奪われている感じがして、結局、自分に近いものを見たいという気持ちすら奪い去られてしまうんですよね。そこで、自分に近い人々やコミュニティに向けたものが増えたときに、どう感じられるかなというのを、これから楽しみにしたいです。

田中 そうですね。アメリカだと、アクセシビリティの批評をする当事者も一定数いて、記事にして発信しているんですよね。日本でも、少ないけれど、私の周りでも、そういうことを書き始めている人はいる。そういう人をちゃんと応援するのも大事だなと思っています。

近藤 それは、私もやってみたい。美術館をひたすら車いすの目線からレビューするみたいなものはいつか書きたいなと思っています。美術館はすごく嫌がると思うんですけれど。

田中 私の友人のアーティストも車いすで、アーティストとして参加することを全く考えられていないから、自分の展示の施工や設営がめちゃくちゃ大変だと言っていて、その点は掘りようがあるなと。

近藤 私もアーティストとして展示をすることがあるんですが、今まで自分が参加させてもらった展示の6割から7割は私が行けない会場で行われているんですよ。ギャラリーとか美術館も、小さいところだとエレベーターがついてない。そうなると、Zoomで繋いで置く位置を指示することになりがちです。それをやらないと美術の世界で展示は全然できなくて。

田中 以前、「車いすのダンサーに参加して欲しいから、誰か紹介してほしい」と言われたので、「稽古場にエレベーターありますよね?」と訊いたら、稽古場は2階なのになかったことがあります。勝手に来て勝手に上がると思っているのか、不思議なんですけど。

近藤 誰かが何とかしてくれるでしょ、みたいな意識でどうやっていくんだろう?と思いますね。劇場に観客として観に行くことはできるかもしれない、でも登壇することはできないときに、そもそも障害者が作ることにリアリティを感じられるんだろうか?と。そこが開かれていかないと、何かやれるかもとは思えないですよね。

田中 例えば、私がアメリカで会った友人は、障害のある人は「本を書きませんか?」と声をかけられるときに、必ず自叙伝を書くことを求められるんだけど、自分は批評を書きたいんだ、と言っていたんです。批評もそうだし、舞台監督や照明技師に障害がある人がいたっていい。あらゆる役割で必要だから、同時に進めていかないといけないなと思います。

近藤 障害者が障害者であることの意味を求められなくていい。それが広まっていくと、やがて障害のある人々が自分たちの文化を作ることができるようになっていくと思います。

■健常な身体が尺度の「インクルーシブ」は要らない

近藤 今、障害のある人が何をやってもいいという話がありましたけども、障害者の就労というものが狭く捉えられているんですよね。障害者の仕事や居場所があらかじめ決定されていて、そこに当てはまればお仕事をさせてあげますよ、と。昔はそれさえなかったと思うと進歩ではあるんですが、その進歩も絶望的というか。これだけ時間をかけてもこれなのか。表現って、就労とか生活とか、そういう個人的なこと、あるいはすごく大きい社会的な政治が想定していることに、実はすごく縛られているのでは?という気がします。

田中 そうですね。今の仕組みの中で働くこと自体に限界を感じます。例えば、障害者雇用というと、障害のある人だけずるいと言われがちだけど、それって多分みんなが今の働き方に不平を感じているということだから、働くことの構造自体から見直していかないといけないと思うんですよね。

近藤 本当にそう思います。今の社会の仕組みとか、資本主義とか、そういったもの全てが健常な人や身体を尺度に作られていて、それを大きく変えていこうと思うと、実はすごくラディカルで、いま想定されているわかりやすいアクセシビリティにとどまらないような広い変革が求められるのではないか。逆に言うと、そこには可能性があるのではないのかなと思います。
もう一つ、田中さんの本の中に、障害が違うと一緒にいることが難しいという話があって、大事なことだなと思ったんです。私は電動車いすを使っていますが、他の手動の車いすの人がどう暮らしているのか、どういうアクセシビリティを必要としているのか、全然わからないんです。
私なんか、電動パワーで電車も乗っちゃうくらいバンカラな暮らしをしているけれど、そういうことができない人だってたくさんいますよね。あるいは他の障害のある人とニーズがぶつかることだってあると思う。みんなが一緒にいられるよっていうインクルーシブも、結局、それは一つの身体に人々を押し込めていく行為だから、一緒にいることの意味自体を考え直すことも必要なのかもしれないと、田中さんの本を読んでいて思いました。

◇参加者とのQ&A

Q1「本の中で、合理的調整の合理性をマジョリティが決めてしまうことの問題が描写されていました。私もいわゆるコンテンツ業界の中で、そのことを強く感じます。それを解決するには法律のように上から義務化するしかないのでしょうか? 今のように罰則規定がない状況では、何も変わらないような気がしています」

田中 盲導犬を連れた友人と食事に行こうとすると、かなりの確率で断られるんです。この前はあまりに腹が立って、「法律違反ですよ」と言ったんですが、「でも衛生的に…」と、話が全然通じなくて。一緒にいた友人は喧嘩っぱやいので、昔は「何言ってるんですか、盲導犬ですよ!」と立ち向かっていたんですが、最近は「次の人のときにはちゃんと対応してあげてくださいね」って言っていて。そのくらい彼は相当な数、断られてきたんだよなと。
 
近藤 車いすも、予約の段階で断られたりします。「満席なので」、「階段ないので」、「うちの店に障害者が来ることは想定していないです」とかもあったり。人々が何を嫌がるのか、その場その場でどのように障害者を想定していないのかというのもありかたが違うのだなとわかります。

田中 罰則を設けるにしても、合理的配慮の場合、難しいなと思うのは、過重な負担をどこまで追求するのか。そこにもコストが伴っているので、「合理的配慮」というふわっとした言葉には、対話をもとに詰めなきゃいけないところがたくさんあると思います。

近藤 企業が労働者の権利を守りつつ、障害者に配慮できるようなサポートをしていくしかないんですが、それができるのは大企業じゃん、と。何度もこの話に戻ってしまいます。ボランティアだけでやっているところほど、負担が過重になっていくのもよくないですし。どうやって助成金や補助金を出すのかとか、そういう仕組みの拡充がまず必要なのではないかと思います。
 
Q2「エイブリズムに関して質問です。映画やダンスの文化は、そもそもメインストリームが作ってきた文化形態の中で楽しさを享受すること自体がエイブリズムになりえないかというような議論があったりするのでしょうか? 例えば、目の見えない人にとって試行錯誤して演劇を楽しむよりも、ラジオドラマを聞いている方が自分らしいというようなイメージです。本当の意味でフラットにと考えると、もっと別の形式の文化になるのではという葛藤を抱いたことがもしあれば伺いたいです」

田中 この前、『オーディオゲームセンター』のハッカソンに、視覚障害のアクセシビリティのコンサルタントを40年ぐらいなさっている方が参加してくださったんです。「今、ゲームがアクセシブルになってきていますが、アクセシブルなゲームとオーディオゲームの違いは何ですか?」と質問をしたら、「アクセシブルなゲームはみんなで楽しむもの。オーディオゲームは、自分らしく楽しむもの」と仰っていて、腑に落ちました。
やはりメインストリームのゲームを楽しむ人は人数的には多いから、周りとのコミュニケーションツールとしてアクセシブルなゲームの意義は、それなりにある。一方で、制約なく楽しむという意味では、オーディオゲームにも意味がある。それぞれ違う役割だということです。

近藤 どちらも大事ですよね。どちらの権利も保障されて初めて、独自のことを考えられるようになるのであって、初めの段階で「それはエイブリズムじゃないの?」という話になってしまっては意味がないのでは?と私も思います。

Q3「マイノリティ表象に関心があります。大きな資本によってアクセシビリティが保たれてしまう仕組みは日本のゲームでは違う気がします。国産のRPG、Dクエスト、アクション、Zの伝説。大作であるほど、クィアが表象が差別的なのはどうしてでしょうか?」

近藤 先日、任天堂の株主総会でアクセシビリティに対して質問した方がいて、素晴らしい質問だなと思いました。そこでもやはり周辺の議論が「いろんな人にリーチできた方がいいよね」という進め方になってしまって、人権に重点が置かれていないところに問題を感じました。
日本が海外と大きく違うのは、コミュニティが弱いのだと思います。クィアも障害も、特にゲームみたいな古典的ではない表現形式について何か言ったり、考えたりできるコミュニティがすごく弱い。なぜかというと、それだけ差別が苛烈だからだと思うんです。それは欧米も変わらないんだけれども、欧米では当事者たちが発信できるようなコミュニティがある。それによって、開発者も励まされて、やっていけるという状態があって。私もそういう場を作っていきたいし、そのきっかけになればと思って、この本を書かせてもらったんです。先ほど批評の話もありましたけれども、今後それらをちゃんとやっていくことは、大事だなと思います。

田中 いわゆる健常と言われる人も、批評についてどれぐらいの人が学び、実践できているのかと考えると、障害の有無問わず、この国の根本的な問題な気がします。

Q4「もう30年も社会モデルの話をしているということ、マジョリティの特権をマジョリティ側に気づかせるために、今後どういう方法が考えられますか? 何をやれば変わるのでしょう。気づいた人は今こうやって集っている方だと思いますが、教育はどうやって進めていけるでしょうか?」

田中 見慣れる必要があると思うんですよね。もっと何気ない生活のなかで、隣にいる人が聞こえない人だったとか、そういうことが起こらないと変わらないんだろうなと。本でも最後に書いたんですが、障害のある人がいざ目の前に現れたときに、それを根本的に否定できる人はいない。そのことに私は可能性があると思っています。『オーディオゲームセンター』も、隣でゲームをしている人は見えない人だったという状況を作りたいからやってるのですが、私たちはこんなに分けられて育ってしまっているから、社会にそういう場所はまだまだ足りていない。あんな小さなイベントをやっていても、捌ける人数なんて限られているので、本当に細々とでも続けていくしかないなと思っています。

近藤 私はやっぱり、障害のある人やマイノリティが多少なりとも安全な、行ってもいいかなと思える場所をどうやって増やしていくのかが大事だと思います。そのためには、やっぱり表象も大事だと思います。その人が当たり前にいる表現が、どうしたら当たり前になっていくか。その過程では大きい抵抗もあると思うんですが、気づいた人たちからゆっくりやっていってもとても時間がかかると思います。でも諦めずに粘り強く、100年後ぐらいを目指してやっていくしかないのかな。
もう一つ、私が重要だと思うのは、マイノリティ同士でどう繋がれるかということ。マイノリティがマイノリティに向けて何かをやっていくことは、マジョリティに説明する以上に大事です。それはもちろんマジョリティの人々がマイノリティに向けてということも含めて。マイノリティを受け手に設定したものというものをどう考えていくかが大事なんじゃないのかなと私は思います。少なくとも、ちょっと避難できる場所があればいいんだろうなと。マイノリティ同士だからといってできるわけではないので難しいのですが。

田中 表象の話でいうと、最近、障害のある人で配役にふさわしい人がいないという話が問題になりましたが、障害のある人に与えられた機会は圧倒的に少ないのに、最初から障害のない人と同等なものを求めるのは残酷だなと思います。今それなりに有名な俳優さんも、昔はめちゃくちゃ下手でしたよね。それをみんな許容してきているわけじゃないですか。
あと、当事者同士が繋がるということに関して。私の本を読んでくれた当事者の方から言われるのは、「他の障害のある人のことを、自分は全然知らないんだということを改めて感じた」と。印象的だったのは、「自分にもエイブリズムがあるということを、最後の章を読んで気づかされた」と言う方がいて、「自分ができないことがあることによって、代わりに周りの人ができることが増える。そういうふうにポジティブに捉えようとしてたけど、それすらエイブリズムだと思った」と言っていて、なるほどと感じました。そのくらい、私たちの中にエイブリズムが内面化されていて、それをどう解体できるのかというところから始めないといけないんだと思います。

近藤 そのために、どうやってゆっくり成長させていくか、失敗や許容をしていくかということが大事なんじゃないのかなと、お話を聞いていて思いました。そろそろ時間なので、この辺で締めたいと思います。今日はありがとうございました。

田中 ありがとうございました。

*このトークイベントでは、UDトークを使用した字幕配信を行いました。
字幕配信:RoiS株式会社

田中みゆき『誰のためのアクセシビリティ?障害のある人の経験と文化から考える』

◇田中 みゆき
キュレーター、プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマにカテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害のある人たち含む鑑賞者とともに再考する。近年の仕事に、映画『ナイトクルージング』(2019年)、21_21 DESIGN SIGHT企画展「ルール?展」(2021年)共同ディレクション、展覧会「語りの複数性」(東京都渋谷公園通りギャラリー、2021年)、『音で観るダンスのワークインプログレス』(KAAT神奈川芸術劇場ほか、2017年〜)、『オーディオゲームセンター』(2017年〜)など。2022年ニューヨーク大学障害学センター客員研究員。美術評論家連盟会員。共著に『ルール?本 創造的に生きるためのデザイン』(フィルムアート社)がある。

◇近藤 銀河
1992年生まれ。アーティスト、美術史家、パンセクシュアル。中学の頃にME/CFSという病気を発症、以降車いすで生活。2023年から東京芸術大学・先端芸術表現科博士課程在籍。主に「女性同性愛と美術の関係」のテーマを研究し、ゲームエンジンやCGを用いた作品を発表する。ついたあだ名が「車いすの上の哲学者」。著書に『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)がある。ライターとしても精力的に活動し、雑誌では『現代思想』『SFマガジン』『エトセトラ』、書籍では『われらはすでに共にある──反トランス差別ブックレット』『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド──ゲームの沼』など寄稿多数。

誰のためのアクセシビリティ? 障害のある人の経験と文化から考える』(田中みゆき・著/リトルモア刊)好評発売中!
https://littlemore.co.jp/isbn9784898155912

「はじめに」を
こちらでお読みいただけます。

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