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#50 道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ。

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ

結果にこだわりすぎると安全な道を選び、進歩は止まってしまう
囲碁棋士 藤沢秀行

TIPS:藤沢秀行(ふじさわ しゅうこう)その打ち筋は「異常感覚」とも称される鋭い着想を見せ、「華麗・秀行」とさえ呼ばれた。一方で破天荒な生き方で酒、ギャンブル、女性関係、借金などで問題があり「最後の無頼派」とも呼ばれた。現在でもファンの多い伝説の囲碁棋士。

2022年の正月に神社でおみくじの「末吉」を引いた。

諸説あるようだが、末吉は凶と大凶の前という事である。新年早々、その年の運勢がどちらかと言うと悪いと知らされるのは、何とも言えない気持ちだ。

大まかに、なんかいろいろとトラブルがあるので、決して心を荒げることなく耐え忍びなさい。そうしたら、道が開けるでしょう。とか書いてあったような気がする。

そうですか、今年は何かしらトラブルがあるのですか、なんか嫌な感じ。と憂鬱な気持ちを抱えながら、「境内のおみくじを結ぶべき紐が棚的な形になっているやつ」(あれの名前がわかりません)に、おみくじを結んだ。なんでかは忘れたけど、そうすると良いって聞いたからだ。そして、末吉を引いたことは、たぶんその日の夜にはもう忘れていた。

それから約3か月経った。

なぜふと「あ、そういえば末吉を引いたなぁ」と思いだしたのだろうかと考えたところ、多分、それは年度末だからじゃないかと気づいた。

年度末になると、どうしても先の事を考えなくて行けなくなる。先の見通しを含めて考えて、いろんな人と話さなくてはならない。やれ、予算がどうとか、計画がどうとか。見込みが良いとか、悪いとか。

今までもこのnoteには書いてきたような気がするが、未来の事を知るのは人間にはまだ不可能だ。過去の事例や現在の状況を踏まえて、予測や予想する事は出来るが、それには何の保証も根拠も存在しない。

だから、年度末になって先の話をする時には、いつでも「知らねぇよ」という言葉が頭の中に浮かんでは消える。

ぶっちゃけ僕にとってはこの「知らねぇよ」こそが、唯一の真実であると言っても過言じゃない。だって、未来の事はわかるハズ無いのだから。

しかしそれを許してくれないのが世の中だ。どういう見込みで、どういう見通しで、何を目指して、どうやって活動していくのか。出来る限り明確に示せと言う。

そういった事無しには、物事の達成も、周囲からの支援も集めにくいのは確かだ。

だから先の事を計画する時、結局は自分勝手で好き勝手な予想を立てる事になる。

以前勤めていた会社でも、予算会議の時、このクライアントからこのくらいの売上をあげます。と入れていたが、何の根拠も持っていなかった。

なんだったら、1000万の予算がありそうだ、というクライアントは何となく1500万にしていたりした。

どうして、1500万なのか。と聞かれれば、そうだと良いなぁと思うからです。と言ってた。すげぇバカだ。

これは単に、情報収集や分析を出来ていなかっただけなのだが、その時は、めちゃくちゃ適当な数字を書いていた。ほぼすべてがこうだといいなぁ。ぐらいの気持ちである。しかも努力しない。ほんと、ダメすぎると自分でも思う。

昔、スーパーマーケットの鮮魚コーナーの責任者をしている友人と話したことがある。

僕はこの人に、「商品の仕入れは、どういう事を考えてやってるのか?」と尋ねた。何となく興味があったのだ。

「会社からこれをこのくらい仕入れて売れ。と指定される物もあるが、あとはもうゲーム感覚だね。」と彼は言った。

僕は正直、驚いて失礼ながら笑ってしまった。あまりにも簡潔で明瞭で、等身大な答えだったので「そんなバカな」と思ってしまったのだ。

仕入れを担当する人は、何かしらのデータを見てマーケティングの事を考えていると思っていたのだ。

しかし、彼はそうではなく、売上データや数字でもなく、とりあえず雰囲気でやってみるという形で、仕入れを行ってきたそうだ。

「もしそれで、売れ残ったり損害が出たらどうするんです?」

「加工に回せるものもあるけど、後は廃棄しかないよね。損害は、うーん、会社が払ってるんじゃない?」

との事だった。

この話を聞いて、何か釈然としなかったのは、僕がその時にもう経営者だからだと思う。

しかしながら、雇われて働いている人にとっては、そんなもんかもな。と過去の自分の事を思い出しても、妙に納得した部分もあった。

要は、自分の金じゃないのだ。会社が損しようが、得しようが、彼の給与にはあまり関係しないのだと言う。そういえば僕もそういう気持ちだったと思う。心底、売上なんてどうでも良かった。全てが成り行きでしょ、と考えていた。

くどいようだが、未来の事は絶対にわからないから予測なんて、どうでも良いのだ。当たるも当たらぬも、やって見て、結果を見て判断するだけのゲーム感覚でしかない。しかも勝ち負けにこだわりもしない。

おみくじを引く時の気持ちと言うのは、そういう確約の無い未来を、せめて一瞬でも「今年は良い事がありそうだぞ、頑張って生きよう」と思いたいからだ。

そもそも実際にはおみくじ通りになったかなんて、誰にもわからない。だから、おみくじの結果を忘れる間までの、刹那的な精神安定薬の様なものなのかもしれない。

逆に、悪い結果が出た時は努めて忘れようとする。無かったことにしたいのだ。皆さんの中にも、今年引いたおみくじが何だったか覚えていない人もいるのではないだろうか。

この年度末が、僕が「末吉」という微妙な結果を引いた、というあまり思い出したくない記憶を思い起こさせた。新年度の事を考えなきゃならないというタイミングで、今年はあんまりいい年じゃなさそうなんだよなぁ。というくび木みたいなものを付けられたような気分だ。

「どうせあんまり良くないのなら、一生懸命になんかなれんわ」

という気持ちがどんどん心の中で膨らんでくる。だからもう何にもやりたくない、めんどくさい。どうでも良くない?もうさ、全部さ、投げ出してさ、ドラえもんでも読もうや。どれってことないから、目をつむって手を伸ばしたのを読もう。えい・・・これは、42巻だ。

すると、このコマが僕に真正面から飛び込んできた。

小学館 てんとう虫コミックスドラえもん第42巻収録「右か左か人生コース」より

人は、道一本違うだけでも、違う人生になる。そう思ったのび太が、ドラえもんに出してもらったのが、道にかざすとその先を言った自分の未来が見えるという、ひみつ道具「コースチェッカー」だった。このコースチェッカーで道を調べて困難を回避していくのび太。やがて、どの道を選んでも障害にぶつかる事がわかり、座り込み泣き出してしまう。そんなのび太に対してドラえもんが諭すシーンだ。

まず言いたいのはこのセリフが、ハリのある吹き出しではないという事だ。

これは重要なので、もう一度言う。

ハリのある吹き出しではない

わかんない?えっとね、これじゃないって事。

ハリ吹き出し

丸みを帯びた吹き出しに、何を感じるか。

これは、ドラえもんがのび太に感情的に言っているのではない。という事を表している。勘違いをしているのび太には、どうしてもわかってもらう必要がある内容を、ちゃんと伝わるように、強すぎる感情がノイズにならないように、落ち着きながらも熱を帯びた形で伝えるために、こうなっている。

だから、叱っているのではなく、諭していると表現した。しかし、諭すに十分な熱を帯びている事は、ドラえもんの表情から、特に目線と、その前傾姿勢から読み取れる。

仰々しく、ハリ吹き出しを乱発して使う最近のドラえもんには、このあたりを見習って欲しい。ここが違う。と個人的には強く言いたい。あんまり強い言葉を使うなよ、弱く見えるぞ。と言いたい。特に映画の漫画版、すごく薄っぺらく見えちゃってるよ?

さて次に見ていただいたのは、ドラえもんの左手である。これは、のび太の顔を指している動作であると言える。

ご存じの通り、ドラえもんの手は丸い。これが、人間の様な手だとおそらく人差し指で顔を指す事になるだろうが、ドラえもんならば人を指しても、こんなに詰め寄った形になっても、必要以上の圧迫感を与えないのかも知れない。

いわば、ドラえもんの造形その物が「やさしさ」を帯びたデザインである事に再度気が付かせられる。

また、ドラえもんの伸長が129.3cmである事はあまりにも有名だが、世話をするのび太を見下ろす事が無い様に設定されている。と言う事をあまり知らない人が多い。このコマは、勘違いしているのび太を正しい方向へと誘うのに、下からの目線を突き上げる様に向けている構図になる。

普段は目線を共(一緒ではない)にしてくれるドラえもんからの、この突き上げがのび太にとって驚きを孕んだ物であった事は、のび太の表情や、のけぞり具合、そして開いた手のひらから見る事が出来るだろう。

このあたりの構図に描かれた感情の表現は、シンプルでストレートかつ、パーフェクトだ。要するに、登場人物の感情が絵を見てすぐにわかる。この辺りの絵の表現方法も、最近のドラえもんは過剰だと感じる事がある。見ればわかる事を、読者を信じないために、より説明的にするからなのかもしれない。ほんと、そういうところが良くない。

では、セリフを見て見よう。

「道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ。」

ドラえもんの名言としても良く使われることの多い、有名なセリフである。

一度、口に出して言って見て欲しい。

決して、感情的になり過ぎないように、言葉を噛みしめるようにして、ゆっくりと熱を持って言ってみる。絶対に、ハリ吹き出しにならないように。染み込むように言う。

もちろん、自分に言い聞かせるようにだ。勘違いしている自分に。すると不思議とその熱が、自分に移ってくるような気になってくる。・・・かも知れない。

迷いや戸惑い、さらには怠惰な気持ち。のび太は、その具現化であると言える。しかし、それは僕にもあなたにもある普通の感情だ。

末吉を引いた僕が今年行く道は、かならずしも歩きやすい安全な道では無いのかも知れない。きっと障害が沢山あるのだろうと思う。

僕とのび太と違うことは、その障害がなんであるか事前にわかるか、そうでないかである。

のび太は、ボールが頭に当たって、犬にかまれる事を覚悟して、選んだ道を行った。その姿を見て、ドラえもんは「少しはたくましくなってきたかな」と思って物語は終わる。

僕にとってのボールや噛んでくる犬が何なのかはわからない。それでも、選んで進むべきなんだろうとは思う。何であっても、結局は選んだ道を行くしかないからだ。

未来の事がわからないから、どこにも選択肢が無いような気持ちになっていたような気がする。しかし、障害があっても進むしかないと言うのが、生きるという事なんだと思うし、ある意味で、ゲーム感覚で生きるという事なんだとも思う。

結局、何もかもやらんとわからん。

今や大人になってしまったのに怠惰である僕には、こんなに前傾姿勢になってまで熱を持って諭してくれる人はいない。のび助がおばあちゃんにあった時に泣き出してしまう気持ちがわかるようになって来てしまった。だから自分の中に、このコマのドラえもんにいてもらう必要があると感じる。

何がどうなってもどうしようもないでしょ?と言う僕を、下から突き上げるようにしてまっすぐと力強く、まっすぐに向き合ってくれる、心の中のドラえもんだ。それを、僕はもう今の媒体に求めなくてもいいんだ。

要するに、自分で自分の機嫌は取らなくてはならない。そうすれば少なくとも自分で選んだ道を、自分でちゃんと歩いてきたと感じれるハズだ。

その時、結果はどうあれ、少しはたくましくなれるのかも知れない。

だから、根拠のない見通しだとしても、障害の多い案件でも、選んだ道として進んでみようじゃないの。末吉のおみくじにあったように、耐えれば、その道が開けるかもしれないのだから。


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