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『料理と利他』土井善晴、中島岳志 共著:さりげなく優しさを差し出せる人

料理研究家の土井善晴さんと政治学者の中島岳志さんが語ったオンラインイベント「MS Live!」の内容を「MS Live! BOOKS」としてまとめた本。

最近よく話題になる「利他」。私はちゃんと理解できていないと思うが、「人にいいこと(と自分では思っていること)をしようとするのは、見返りに感謝されたいから、または、自分は役に立ち、自分には価値がある、と思いたいから」という身勝手さや自己愛にとらわれないようにするのは難しいのだろう。

お礼はしっかり伝えたいと思うし、人の好きなところやよいと思うところを伝え合うのはいいことなのだろうと思う。しかし、過度に褒めてくる人が、実は自分もその分褒めてもらいたがっていて、思うように褒めてもらえないと怒る、という場面に遭遇すると疲れる。

人のためと思って何かをして、感謝されないかもしれない、むしろ怒られたり、何かの事故につながったりするかもしれない。だから、「いいこと」をするのは簡単ではなく、相手が本当に欲していることか見極めたり実際に聞いたりする必要があるし、時には知識も必要だし、「感謝されるのが当然」とか「こちらからしたのだから、向こうもこちらに何かするべき」などと期待してはいけない。授受の関係が上下関係につながり得る危険性にも自覚的であらねばならない。

それでも、ごく自然に、おそらく「作為」なしに、人がまさに必要としているときに必要な優しさをさりげなく示せる人がいる。そういう人はとてもすてきだし、憧れるし、感謝している。

中島 僕たちはどうしても、利他というときには、いいことをしようとか、いい人間になろうみたいな、そういう問題意識が非常に強くはたらくんですけれども、親鸞、あるいは浄土教的な発想からすると、それこそが実は、苦しみのもと、自分自身がいい人間になろうというはからいとか、作為性という問題に、なにか人間がとらわれているというふうにみえるんだと思うんですね。
(p. 40)
土井 とくに子どもたちにとっては、手料理というようなものを食べるという経験が、未来への想像力、イマジネーションをはたらかせる力というかね、(略)いわゆる直観力みたいなものを育むものだということ。目に見えないものをはたらかせる力、いわゆる健康のため栄養のために食べるという以上のものが、料理をして食べることの中には生まれてくる、ということですね。
(p. 45)

料理を作って食べることが、直観力や感性のような感覚を磨く、という話は面白い。体の全感覚を使って自然とつながる行為だからか。

ダンスをするのにも、料理をするのがよさそうだ。そういえば私は一応少し研究生活をしていた時期に料理をするのが大いなる息抜き、しないとやってられない、と思っていたが、そこから研究のヒントを得られることもあったし、息抜き以上のものだったのかもしれない。

土井 レシピを意識した途端に、人間という生き物は感覚所与(五感)を使わなくなるんです。なにかに依存すると感性は休んでしまうようです。「さあ、どうなるかわからない」というところで、心を使って料理することになります。
(p. 52)

私はレシピには全然とらわれていなくて、いつも適当に作っているが、新しいことにどんどん挑戦するのではなく、いったんこれがおいしいかなと思うとしばらくだいたい同じようなことを繰り返すので、感性は鈍っていそう(笑)。

中島 (引用者注:『土井家の一「生もん」2品献立』の内容を引いて)ベーシックななにかのつくり方を覚えれば、いろいろな素材と対話しながら汎用可能なんだ(略)そういうものは、自分自身がつくったものというよりは、死者というんですかね、亡くなった人たちの大きな歴史とか、これまでずっと積み上げてきた無名の人たちですよね。家庭料理のなかでそういう人たちがすっとつながってきて、私がいて、またつながっていくという、そういう時間の流れのなかに身をおくっていうことなのかなと。
(p. 53)

「家庭料理の歴史の積み上げ」が、北島紗衣さんの本『批評の教室』の批評理論について書かれた部分「巨人の肩の上に立とう」の話と、勝手に私の中でつながった。

「巨人」は先行する人々の業績の積み重ねを指し、「肩の上に立つ」はそれをふまえることです。過去の蓄積を参考にしたほうがものがよく見え、遠回りをせずに済むという意味で、知識とは何かという問題の核心を突く表現です。
(北村紗衣著『批評の教室』、筑摩書房、2021年、p. 70)

批評では先行研究を調べることによって先人たちの蓄積を踏まえられるし、家庭料理でも基本的なレシピを知ることで過去の名もなき料理人たちの蓄積を得られる。しかし、研究は先へと進めていくが、料理は進化もするのかもしれないがそれよりもそれぞれの感覚を通したバリエーションができていくということなのだろうか。研究も、派生して広がり、深化もしていくものだと思うが。

料理や批評だけでなく、生きることすべて、生きること自体が、過去からの積み重ねなのかねえ。人類だけでなく、ほかの生物や自然環境も含めて、歴史が自分につながっているのかねえ。そうすると、中島岳志さんが専門とする政治も同じなのかな。

土井 エビデンスがないものや数値化できない、計量できないものが、まさに「直観」、いわゆる情緒的なことですけども。岡潔(おかきよし)という数学者なんかも、情緒を加えて考えないと数学は答えが出ない、と言っていたりするところに、私はやっぱりそうかと。私は哲学者の言葉に自分の料理観の答えを求めているという感じです。
(p. 60)

論理的にどうだとしても、感覚を信じた方がいい。と私も思っている。論理も考えるが、最終的にどうするかを決めるところでは自分の感覚に聞いた方がいい。

pp. 152-153の参加者からの「在宅勤務が続いていて、季節を実感し、自分の感覚を養っていくのが難しいが、どうしたらいいか?」という質問とその回答も興味深かった。


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