「障がい」について
(社会科教師として最後の講座より)
「障害」と「障碍」
「障がい」とは元々「障碍」という字をあてていたのですが、GHQの指示で国が*当用漢字を発表したとき、「碍」が表からはずされてしまいましたので、単に音が同じ「害」が使われるようになりました。
「害」は被害、災害、損害、殺害、害虫など、「損なうとか傷つける」とか全くいい意味が無い言葉です。
「碍」の本字は「礙」で大きな岩を前にして人が「どうしようか?」と悩んでいる姿を表わしています。「妨げられる」という意味で決して傷つけたり、殺したり、損なったりする意味はありません。「障」の字も同様に妨げられるという意味です。本講座では「障がい」「しょうがい」を使いたいのですが、戦後障がい者の法律として最初に制定された「身体障害者福祉法」で先ず使用され、「知的障害者福祉法」「障害者基本法」など何と法律名として無分別にどんどん使われてしまっています。そこでは「害」を使わざるを得ません。「たかが漢字一つ」と言われるかもしれませんが、人々の意識に「悪影響」を及ぼし、「障がい者」自身の気持ちを大きく傷つけている(正に「害している」)「害」をなるべく使いたくありません。
他の漢字を使う国(中国・台湾等)同様、一日も早く「碍」の字を復活させたいものです。
障がい者観
本講座が「障がいについて」というテーマにしたのは、「障がい者について」とすると、まるで「障がい者」という人種や民族のような「特別な人間の集団」がそれ以外の大多数の人間とは別に存在していて、その「特別な人間の集団」について学習するような誤解を与えるからです。
以下は1980年発表の国連が規定した「国際障害者年(1981年)*活動計画」障がい者観です。
「障がい者は、その社会の他の異なったニーズをもつ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的なニーズを満たすのに特別の困難をもつ普通の市民と考えられるべきなのである」
普通の人が普通のニーズをもっていること、しかしそれを満たすのに特別な困難があると書かれています。
例えば、「働きたい」、「時には旅行も楽しみたい」などと「普通のニーズ」を思いつつも、その実現には「特別な困難」があります。普通の人だといって困難を無視するのでもなく、困難だけをみて普通の人である点を無視するのでもないのです。ここではまた目が見えないことや手足のまひなどのことよりもむしろ「ニーズを満たす際の困難」が障がいであると示唆しています。40年以上前の規定ですが、今でも最も進んだ障がい者観と考えられます。
*当用漢字 :戦後GHQ(連合国軍最高司令本部)の指示により、「漢字の使用」を制限するため当時使用されていた漢字を1850字に減らしました。GHQは日本語自体もローマ字で表記させて、徐々に「漢字文化」を無くそうとしていました。これは日本語がひらがな、カタカナ、漢字と多種の文字を使い、理解が難しいからで、アメリカ同様アルファベット26字に限定すれば、「統治しやすい」という理由からでした。
その後1981年常用漢字が発表され、1945字に、そして2010年改訂常用漢字で2136字に増加しましたが、「碍」の字は加えらませんでした。
ただ2009年12月に内閣府に設置された障がい者制度改革推進本部で「障害」の表記の在り方について検討していますが、すでに10年以上が経過し、望み薄です。
1961年の厚生白書で当時の政府は次のように「精神薄弱者」(知的障がい者)を捉えていました。3年後には東京オリンピックが予定されていて世界が日本に注目していたのですが…。(「白書」とは政府が国民に周知させることを目的に発行する「報告書」)
『わが国にどのくらいの「精神薄弱者」(知的障がい者)がいるかは、全国的統計に欠けているため、容易に明らかになしえない。これまでの資料は、わずかに昭和二九年に行なつた精神衛生実態調査の結果により、「痴愚」以上の「精神薄弱者」が六〇万人程度いると推定されているのみである。
このように全国的統計が欠けている理由は、調査にあたってなかなか世帯の協力が得られないこともその一因である「精神薄弱者」を持つ肉親の情としては、あるいは当然であるかも知れない。しかし、調査を通じてみられる家族たちのこのような態度は、「精神薄弱者」を めぐるさまざまな問題を家族の中にとじこめる結果となり、それだけ「精神薄弱者」の福祉対策の出発を遅らせる結果になったことは否定できない。(中略)これらの「精神薄弱者」は、現在の医学ではほとんど治療が不可能であるが、しかし、「精神薄弱者」本人の不幸はもちろん、 その家族のこうむる苦痛にはきわめて深刻なものがあるし、優生学的見地からみても、いたずらに放置することは好ましくない。しかも、一部の「精神薄弱者」は、治安上からみて危険な存在であり、また売春婦女子などの相当数は「精神薄弱者」であって、社会秩序を守るうえでもなんらかの措置を必要とする。しかも、医学的に治療はほとんど不可能の状態にあるといつても、早期に発見、教育あるいは補導が行なわれさえすれば社会的適応性は相当程度まで持ちうるものである。』(1961 厚生白書 第3章)
当時の政府の障がい者に対する価値観について森はな絵氏は「知的障がい者との共生社会の実現」の中で以下のように批判しています。
まずここで注目すべきことは、『「精神薄弱者」本人の不幸はもちろん、その家族のこうむる苦痛にはきわめて深刻なもの』という部分から分かるように、障がいはあってはならないものだと考えていることである。障がいを持つと本人は不幸になるうえその周りの家族にも被害が及ぶという明らかに健常者からの視点で書かれている。しかし実際問題なのは、 障がいを持ったことではなく、差別や冷たいまなざしを受けながら社会の中で生きなければならないこと、そして十分な施策がなかったことなのではないだろうか。また『調査にあたってなかなか世帯の協力が得られないこともその一因である。「精神薄弱者」を持つ肉親の情としては、あるいは当然であるかも知れない。』というように書かれているところから見て、いかに障がい児を持つことに引け目を感じながら生きていたか、 そして当時、障がい児の親が障がい児の子供がいるということを言い出しにくい社会であったことを物語っているように思える。しかしそのような状況を「当然」というように、政府はそのような状況になっているのは仕方のないことであって、悪いのは障がいを持つことと言っているようにも考えられる。さらに、『一部の「精神薄弱者」は、治安上からみて危険な存在』であり 『早期に発見、教育あるいは補導』が必要といい、障がい者を犯罪者になりかねない存在という風にとらえている。しかし、これまで政府は障がい者を施設収容することばかり考え、適切な対応はしてこなかったために、障がい者は十分な教育も受けられず社会からも排除されていた。そのような背景には目を向けようともせず、障がい者は「危険な存在」と決め付けているのだ。この厚生白書からも見られるように、政府の考える障がい者施策は財政だけで支えられ、一番重要な「障がい者観」は間違った方向に形成されていったように思える。
※白書の「精神薄弱者」「痴愚」は当時の差別的表現であり、現在は使用されていないことは言うまでもありません。 障がい者の人権を無視したり、蔑む語がこれ以外にも多数使われていました。社会がようやくそれに気づき始めて現在の表現になりましたが、まだまだそれを言われた時に障がい者が悲しい思いをする語が使われています。
基本的人権「獲得」の歴史
自由権・平等権
さて、私たちが暮らしている社会における「障がい者」の「人権」はいかに「獲得」されていったものなのかを考えてみましょう。ヨーロッパの歴史をひもとくと基本的人権は「与えられるもの」ではなく、自ら「獲得するもの」であることがわかります。17世紀イギリスのブルジョワジー(中産階級)が王政に立ち向かいました。それまでは「王権神授説」 がまかり通っており、ピラミッド型の身分制が人々を「分相応」に秩序づけていました。貴族、王族のように世襲で自動的に身分を与えられるのではなく、自分の実力で地位や財産を築き上げてきた中産階級が王政に「NO!」を突き付けたのです。1688年の名誉革命で「王は君臨すれども統治せず」の原則が打ち立てられ、王は政治的権限も権力も奪われ、象徴的存在になりました。王も貴族も平民という身分も無くなる「平等な世界」、人々は生まれながらにして天から人間としての権利(自然権)を等しく与えられている・・・「天賦人権説」 でも、どんなに天が与えてくれた人間としての権利が平等だと叫んでも、現実には富める者、貧しい者、強き者、弱き者、生活に困難が少ない者、生活に困難が多い者が存在します。貧しい者、弱き者、生活に困難が多い者はいかに自分を護っていけばいいのでしょうか?そこで「国家の存在理由」として「社会契約説」が現れます。「弱き者」も「強き者」も自らの権利の一部を国家に移譲して強大な権力組織をつくりあげ、その組織が人々の自由と財産と生命を守ってくれるというのです。この権力を行使するのは王ではなく法です。議会が法律をつくり(立法)、法律が人々を支配するようになりました。(法の支配=rule of law)
ヨーロッパの市民革命は最初「自由」と「平等」を唱えて起こりました。身分制からの「自由」と身分制を否定する「平等」です。フランスの三色旗「青・白・赤」はそれぞれ自由・平等・博愛と言われています。基本的人権の中の自由と平等です。では赤の「博愛」とは何でしょうか?博く(ひろく)愛するとは?表面的には「皆が愛し合い、助け合う」ですが、実際には富める者、強き者、「健常」なる者がそうでない者をひろく愛して助けてやるという「上からの救いや行為」を意味していたようです。博愛主義という言葉もあります。人種、国家、イデオロギーなどの違いを越えて、人類だれでも等しく愛し合うべきだという考え方です。正にそうなれば理想的ですが、人類は「偏愛主義者」が大部分です。自分の家族、街、会社、国家、人種、宗教、イデオロギー等自分の帰属しているグループの人間しか愛せないのです。皆が生活に特別な困難のともなう障がい者も博く(ひろく)愛してその困難を解消してくれれば、国による社会福祉は限定的なものとなるでしょう。しかし、現実はホッブズが言ったように「万民の万民に対する闘争状態」です。
この市民革命より前の1601年のエリザベス救貧法でも「社会対策」の一部として貧民を「管理」し、治安を維持するのを目的に国家政策として初めて「社会保障」が実施されました。この法律の下での「貧民」とは働く能力があるのに働かず、犯罪者となる危険性のある者が対象となり、教会の教区ごとに「貧民監督官」の下で管理されていました。 そういう意味ではエリザベス救貧法は「社会保障政策」とはとても言えるものではありません。
市民革命で新しい国家、政府が成立しても、この上からの「救済、施し」は基本的には変わりませんでした。
革命の理論的根拠となった3人の思想家
ホッブズ 『リヴァイアサン』 「万民の万民に対する闘争状態」
ロック 『市民政府二論』 「革命権」(抵抗権) 権力分立
ルソー 『社会契約論』 「一般意志」
1688年 イギリス名誉革命 王権神授説 →「王は君臨すれども統治せず」
1776年 アメリカ独立戦争(革命) イギリスの植民地から東部13州が独立
アメリカ独立宣言「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに、生命、自由 および幸福の追求の含まれることを信ずる。また、これらの権利を確保する ために人類の間に政府が組織されたこと、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。・・・」
1789年 フランス革命 ルイ王朝(ブルボン朝)を倒し、共和制へ移行
フランス人権宣言「第一条 人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。第二条 あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない 自然権を保全することである。これらの権利は、自由・所有権・安全 および圧政への抵抗である。・・・」
社会権の「誕生」
本当の意味での「社会権」が現れるのはドイツのワイマール憲法(1919年)からです。特にその第5章 経済生活 第151条に「人間に値する生存を保障することを経済秩序の基本となすべきこと」を定めているのです。人類史上初めて「生存権」が提唱されました。
日本国憲法第25条「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」この条文もこのワイマール憲法の影響を強く受けています。残念ながらその後ドイツではナチ党(ナチス)がこの憲法を無視し、「優生思想*」の下 精神障がい者やユダヤ人を強制収容所に押し込めて自由を奪い、命を奪う(大虐殺)という深刻な「人権侵害事象」が起こりました。しかしこの憲法が大戦後社会的基本権という考えを世界各国の憲法や法律に「植え付けた」ことは否定できません。
優生思想*とは障がいに関連する遺伝要因を重視して、遺伝子の優良とされているものを増加させ、劣等とされているものを減少させる「優生学」に基盤をおいた思想で、具体的には不妊手術、婚姻の禁止、出生前診断などです。現在では遺伝子学が発達し、技術的な裏付けのもと「強化」されています。
もう一つ障がい者の人権を踏みにじるものとして社会防衛思想があります。多数の国民を守るため「公共の福祉」という言葉の下で少数の障がい者や病者が排除されるのは当たり前という考え方です。
感染症対策や精神障がい者対策に受け継がれてきた歴史があります。特にらい予防法(1907年)ではハンセン病患者が隔離、監禁され、男女ともに断種・不妊手術が本人の同意無しに強制的に実施されました。有効な治療薬が開発され、感染の危険性も殆どないとされてからも「隔離」は継続し、1996年厚生大臣がらい予防法の廃止に先立って直接謝罪しましたが、入所者の名誉回復は2008年の法律(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律=ハンセン病問題基本法)を待たねばなりませんでした。入所者は高齢化していて、地域社会に戻れる可能性は非常に少なくなっています。
※群馬県草津町の国立ハンセン病療養所**「栗生(くりゅう)楽泉園」に 建つ人権の碑
「私たちは自らの名前、かけがえのない家族、そして、ふるさとを失い、更には人としての未来を奪われました」
《優生保護法》 1948年に施行され、遺伝性疾患やハンセン病、精神障害などを理由に不妊手術や中絶を認めた。日弁連によると、全国で手術を受けた約8万4千人のうち、約1万6500人は同意なく不妊手術をされた。96年に「母体保護法」に改正され、優生手術の規定は廃止された。
社会福祉について
福祉の「福」は何となく「幸福」だとわかりますが、「祉」ってどんな意味でしょう。これは祭壇(示)に神様が留まって(止まって)私たちを助けてくださるという意味の様です。すなわち神様が留まって下さることが幸福で、いらっしゃらなくなると不幸になるようです。これはいつも貢げ物を祭壇に置くことによって、神様からその恩恵を「いただく」という上からの慈悲や情けであり、人間は「受け身」です。この「祉」という字もこれ以外にはほとんど使いません。英語の”welfare”は全く異なった意味をもっています。
wel(well) + fare すなわち「よく、うまく、順調に」+「生きる、生活する、過ごす」であくまで人間が主体です。決して上の人間や神様から恩恵を頂くというものでありません。
「自分がうまくやっていくように社会が支援する」 すなわち「助けてくださるのではなく、自分がうまく、困難なく生活するために社会が手助けする、社会はそのために存在する、その社会を構成しているのは自分たち、だから支援するのは当然だ」となります。「保険共済」の考え方に近いものです。
「共済制度」は国民共済、府民共済などの広告で知っている人も多いでしょう。実際私は私学共済に加入していて、毎月一定額を保険料として支払っています。いざという時、例えば大病を罹患しての手術費、入院費などが高額になった時、私学共済からかなりの割合で医療費が支給されます。
また、病気等で長期休職扱いになったとき、足りなくなった給料分を補填してくれます。 これと同じように「国の構成員(国民)が税金という保険料を支払うことによって、国は国民がうまくやっていく様に支援する」と考えたらわかりやすいかもしれません。つまり、国家は一種の「互助組織」であり、構成員(国民)はお互いに助け合っているので、「イザという時」も助けてもらえるという安心感がもてるということでしょう。アメリカの独立宣言でもフランスの人権宣言でもこのことは最重要事項として最初に謳われています。
「想像力の問題」です。明日交通事故で下半身不随になり、車イス生活になったら、失明したら、大病を患い高額な治療費が払えなかったら・・・、保護者が経営している会社が倒産して、多額の借金を背負ったら・・・どんなことで「生活上の困難」が生じるかわかりません。「うまく、順調に、やっていく」ことは当たり前ではないのです。だからこそ社会福祉があるのです。その一つとして「障がい者福祉」があります。
障がい者の人権=社会的基本権(社会権)
このように貧しい者、病気で働けない者、生活に困難がある者を支援し、健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるようにする「義務」が国家にはあるという考えが生まれてきました。私たちが生まれ育った社会は法治国家です。社会の、そして私たち市民の「ご主人様」は「法律」です。
その法律の「親玉」が憲法です。そこにある条文は私たちが守らなければならない決まり、掟、取り決めです。それを破ったり、犯したり、無視することは許されません。そして、「知らなかった」も通用しません。私たちはこの国に生まれた瞬間、この法の下で法を守って生活することを約束したのです。(社会契約)
でも、法律にも「穴」があります。いや「穴」だらけといってもいいかもしれません。この第25条も「努力義務」のようになってしまっています。
非正規雇用の方々が経営者の都合で突然「雇い止め」になり、路頭に迷っています。毎年冬になると、生活困窮者が電気・ガスを止められて凍死したというニュースが流れます。法律では水道を止められた時点で訪問し、安否確認をするということですが、水道を止めるのはかなりの未納期間が続いてからです。その時点ではすでに遅く、法律の改正と役所の体制強化が求められています。公的扶助(生活保護)は社会保障の「最後の砦」です。
障がい者福祉も戦前の親族の扶養、介護だけの「自助」から戦後「公助」へと大きく転換されました。これは前述の「生存権」からは「当たり前」のことで、どこかの総理大臣が「自助→共助→公助」などと言っていたのは全くナンセンスです。日本という国家自体が「公助」をするために存在し、私たちはすべて「公助」の下で生活しているのです。誰一人として「公助」を受けずに生活している者はいないのです。
例えば裕福な人がいて、「私は国の世話にはなっていない。一代でこれだけの資産を築き上げ、国には多額の税金を払っているのだから、逆に国を世話してやっているのだ。」と「公助」を否定したとしても、その資産を護っているのは警察などの「公助」であり、一日足りともその「公助」がなければ、財産どころか自分の命さえ十分守れないわけですし、「公助」の義務教育を受けていなければ、読み書きも計算も契約もできないのですから。
インフラストラクチャーという「公助」を上げるまでもなく、どんな人でも「公助」の下で生活していることを否定できません。(電気・ガス・水道・道路・鉄道・銀行・流通・放送・通信・港湾・空港・通貨・役所・教育・病院・警察・消防・自衛隊等 その他民間が経営している事業もその基礎は「公助」から始まっています)
生活する上で困難を抱えている人はこの「公助」の種類も「機会」も多いだけなのです。障がい者の生活を支援するための福祉サービスを提供する施設では障がい者のことを「利用者さん」と呼んでいます。
またアメリカでは障がい者は自分たちのことを「消費者(consumer)」と胸を張って言います。つまり、福祉サービスという「形のない商品」を消費する顧客という意味です。確かに彼らの存在がなければ、サービス提供者も「国や自治体からの補助金」が出ないので経営できないのですから…。
つまり障がい者もさまざまな「公助」を「普通に受けている」と考えるべきです。
ただ、障がい者は「マイノリティ(少数者)」です。例えば「義務教育は無償」です。授業料も教科書代も要りません。でも、小中学生もその保護者もタダだから「申し訳ない」とか引け目に感じたりする者は一人もいません。それは皆がタダでそれが当たり前と思えるからです。つまり自分たちが「マジョリティ(多数者)」であれば「当然だ」と普通に受け止めます。しかし少数者はその少数さゆえに「特別待遇」のように本人も周りも感じてしまいます。生活に「特別の困難」があり、その困難さを軽減するための公助です。
例えば日本列島に多い「離島」の生活を考えてみましょう。島民は少数ですが、ちゃんと電気が供給されています。本州から海底ケーブルで電力供給があります。そのインフラ整備には莫大な予算が費やされます。島民は少数だから「申し訳ない」とか「引け目」を感じるでしょうか?これは多数、少数の問題ではないのです。
「民主主義」を「多数決できめるシステム」と勘違いしている人がいます。民主主義の本質はその「話し合いの過程」です。立場や意見の違う複数の人が意見を交わしてよりよい結論へと導いていきます。
誰もが納得できるような意見はなかなかありません。そこで本当は全員一致で一つの案に決めたいのですが、どうしても一つの案に絞り込まねばならないとき、「最終手段として多数決」があるのです。「少数意見の尊重」も小学校の学級会でも教わりました。民主主義の基本です。少数意見にも耳を傾け、違う考えからもその知恵を借りてよりよい案にしていくのが民主主義の醍醐味です。ところが、よくすぐに「多数決で決めよう」と特に自分の意見が「多数派」であれば、結論を急ぐ人がいます。反対意見や違う意見は聞きたくないのです。こういう人は概して「多数決で決めたのだから、少数者は従え」または「我慢しろ」と少数者を無視する傾向が強いのです。この論理で少数者である障がい者に向かわれると、「少数なんだから我慢しろ」となります。例えば「車イスを利用しているのは君一人なんだから、君一人のためにここにスロープを作るのは無理だ。我慢してくれ。」ということになってしまいます。流石にバリアフリーからユニバーサルデザインへと「進化」している昨今こんなことを言う人はいませんが、知的障がい、精神障がい、発達障がいなど「見えにくい」少数の障がい者に対しては「少数者無視・排除」の態度を顕わにする人もいます。
いくつか事例をあげてみましょう。
車イスの少女
ある朝車イスを利用している中学生女子とその母親が路線バスを利用することになりました。運転手さんはバス停でスロープを用意して、乗車を介助します。車イス利用者用の優先座席に娘を着席させて、車イスを固定し、スロープを片付け、バスを発車させました。母親はバスに乗り込む際、周りの乗客に何回も何回も頭を下げて「すみません、ご迷惑をおかけます」と謝っていました。あいにくバスは満席で母親も娘のそば立っていました。
その時すぐ後ろの座席にいた二人の女性がわざと母娘に聞こえるように声高に「何もバスを利用しなくてもいいのに」「こちらも急いでるのに迷惑よねえ」「何を考えているのかしら」と非難しました。これを聞いて母親も申し訳なくなり、下を向いていました。娘も涙を浮かべていました。いたたまれなくなった母親は「次のバス停で降りましょう」と話し、娘もうなずきました。母親が降車ボタンに手を伸ばして押そうとした時、バスが停留所でもない場所で急に停車しました。運転手さんは「そこのお二人の方ここで降りてください」とマイクを通して指示しました。母親が車イスをはずし、娘を乗せようようとした時、運転手さんが「いや、いや、あなた方ではないんです。その後ろのお二人です。」二人の女性は「ハア?なぜ私たちが降りなきゃならないの?」と詰め寄りましたが、運転手さんは「他のお客様にご迷惑をかける方は降りていただきます。」と毅然と答えました。二人の女性はさんざん運転手さんに罵声を浴びせかけて降車しました。
「迷惑行為」とは何でしょうか?言うまでもなく、母親と娘に対する「言葉の暴力」です。母娘は言葉によって深く心を傷つけられました。「少数者」である障がい者に対する差別意識がのこの「言葉の暴力」を生み出したのです。
触覚の芸術
3年ほど前ある美術館で先進的な美術作品の鑑賞方法が実施されました。台に載っている高さ50~60cmほどの彫刻作品を暗闇で触覚だけで「鑑賞する」という試みです。美術作品に触れて鑑賞するなど、かつてなかったことなので話題を集めました。
私もたまたまこの機会に恵まれましたので、試してみました。ほとんど完全な暗室状態の中手すりをたよりに進むと自動的にナレーションが響き、作品までの距離や方向を指示して導いてくれます。作品にたどり着いて触ると、硬くて冷たいブロンズの触感と形から女性の身体と何か岩か魚のようなものがその下にあり、そこに座っている女性が長い髪をたなびかせている様な姿が浮かんできました。今でもその感触ははっきり残っていて、感動がよみがえってきます。明るいところに出てから、どんな作品だったのか係の人に尋ねましたが、「お客様が触覚で鑑賞した作品ですから、その感触がその作品そのものです。あえて視覚的な姿はお見せしていません。」という答えが返ってきました。
「なるほど!・・・」芸術作品を鑑賞するのは個々の人の心ですから、その心が感じたことがその人にとって、その作品なのだという当たり前のことが納得できました。
視覚障がい者は美術作品の鑑賞が「できない」と思われがちです。視覚障がい者が美術館に展示されている彫刻に触って、形や感触を確かめようとした途端、係の人が飛んできて「触れないでください」と言われてしまいます。
「どなた様も触れることができないことになっています」それは「平等に」という言葉が入るような言い方です。
これって「平等」でしょうか?「悪しき平等主義」などという言葉もあります。これは少なくとも「公平」ではありません。視覚障がい者に美術作品を鑑賞してもらうのは「公助」の施設である美術館の責務です。前述した車イス用のスロープ設置と同じです。視覚障がい者は少数かもしれませんが、ユニバーサルデザインの考えはあらゆる分野に及びます。博物館でも例えば、縄文式土器と、土師器では形、厚さ、表面の感触がどう違うのか?これはレプリカ(複製品)を製作して、視覚障がい者に直接さわってもらえばいいのです。概して視覚障がい者は手指の感覚が鋭く、手で「見る」ことができます。視覚障がいの無い方も直接触れるのですから、よりよく感じ取ってもらえるに違いありません。障がい者にやさしいツールは障がいをもっていない(少ない)者にもやさしいのです。
知的障がい児に関して
1)知的障がい児の笑顔を生み出す「絵画教室」がありました。十数名の児童が毎週集まり、大好きな絵を描いて楽しんでいました。その教室の先生はもっとこの子らに絵画のすばらしさを知ってもらいたいと思い、海外の美術館でいろいろな作品を鑑賞したり、日本と全くちがう風景、建物、街を見せてあげたいと常に思っていました。それを聞いたある社長さんが、海外旅行の旅費全額を寄付したいと申し出てくれました。先生も子どもたちも保護者も大喜びでした。ところが、それを聞いた「健常児」(この表現もおかしいのですが)の母親がこう言いました。「私の子でさえ海外旅行に行ったことがないのに、なぜあんな子らが行けるのか?おかしい。」…障がい者に対する差別意識が顕著に現れたれた例です。「主要科目(この表現も?ですが)」と言われる国語、算数、理科、社会は彼らに適した教材が提供されていない上専門の指導者もいないので「原学級」では学べません。唯一絵が好きで絵を描いている時、みんな夢中になって描いている、そんな「あんな子ら」だからこそ、本来なら特別の「公助」として「支援教育」が必要なのです。公助の代わりに民間から手を差し伸べる人が出てきたのに、残念ながらこの計画は同様の意見が他の保護者からも出て、中止になってしまいました。
2)知的障がいをもつ小学女子の話です。この児童は国語、算数、理科、社会などの科目は上の事例同様「支援学級」で他の課題をして学習していましたが、音楽や体育の時間は「原学級」で在籍している児童と一緒でした。ある日授業参観がありました。音楽の時間でした。この児童は音楽が大好きでリコーダーを練習して皆と合奏できるまでになっていました。その日、ある男子児童がリコーダーを忘れてきました。何と担任の先生はその女子児童のリコーダーを取り上げて、男子児童に渡し、女子児童にはカスタネットをもたせました。その女子児童にとっては原学級のみんなと一緒にできる数少ない学習活動だったのですが・・・。哀しそうにカスタネットを打ちながら、なぜだろうと彼女なりに思ったことでしょう。それを見ていた保護者の一人が後で声を上げました。数人の保護者も「根本的におかしい。」と後日校長に詰め寄りました。その担任の先生の意識は多数の「健常児」のみを教育することにありました。たった一人の障がい児は教育の対象外でした。
これら2つの事例では現在の小中学校の障がい児教育の問題点が浮き彫りになっています。「統合教育」といいながら、結局障がい児が教室を移動して(追い出されて)、大多数の健常児の学習の場を守っているのです。こうした教育では、健常児は障がい児はついてこれないから「邪魔者」で教室から排除されても「仕方がない」という認識をもってしまうでしょう。障がい児本人も漠然とできないから「仲間外れ」にされたという感覚をもつことでしょう。こうして障がい者に対する差別意識を生み出す「しくみ」がわが国の学校にはまだまだ残っています。
ノーマライゼーション normalization
福祉に関する言葉はカタカナ、外来語が多くなります。どうしても福祉「先進国」の欧米から言葉や考え方を「輸入」して私たちの意識を変えていかねばならないからでしょう。この言葉はデンマークのバンク・ミケルセンが提唱しました。彼は社会省に入省し、知的障がい者福祉の担当課に配属されました。このとき巨大障がい者施設の非人間的な環境や人権を無視した処遇のあり方に疑問をもち、知的障がい者の親の会と関わりながら1959年法の制定に尽力します。
そのような施設に「収容」され、「隔離」された状態が普通の人の「ノーマルではない」とし、ノーマル化すること(normalize)を展開したのです。すなわち知的障がい者をノーマルにするのではなく知的障がい者の生活条件をノーマルにしていく環境を提供することにあります。
スウェーデンのニイリエはバンク・ミケルセンの影響を受けながらどの国でも具体化できるようノーマライゼーションの原理を定義しました。
アメリカのヴォルフェンスバーガーは知的障がい者の「社会的役割の実現」を重視しました。
この3人の思想に共通することは障がい者自身よりも、むしろ障がい者の置かれている生活条件や生活環境といった社会環境の現状やあり方に焦点をあてて問題をとらえようとする考え方ということです。
ノーマライゼーションの原理は対人処遇の根本原理として、知的障がいのみならず他のさまざまな障がい(身体障がい、精神障がい、視聴覚障がい)をもつ人々やさまざまなマイノリティ(黒人、被差別少数民族、女性、被差別少数者)に具体化され、世界に大きな影響を与えてきました。
リハビリテーションから自立生活運動
この言葉は医療分野に限定的に使われていますが、本来は「一度失った地位、特権、財産、名誉などを回復すること」でした。第二次世界大戦で戦傷者となった20代、30代の運動機能回復訓練を中心に進められる傾向が強かったために、「全人間的復権」が薄れてしまいました。現代でも「リハビリ」というと、ほとんどが医療機関で行う運動機能回復訓練を意味しますが。本来は障がいのある人の「全人間的復権」、すなわち、障がい(生活機能低下)のために、人間らしく生きることが困難になった人の、「人間らしく生きる権利の回復」です。
自立生活運動は1960年代カリフォルニアの大学から全米に広がった運動です。「他人の助けを借りて15分で衣服を着て、仕事に出かけられる障がい者は、自分で衣類を着るのに2時間かかるために家にいるほかない障がい者よりも自立している」という考え方です。今まで医療分野で絶対視されていた
「ADL(Activity of Daily Living)(日常生活動作)の自立」 という「自立観」から「QOL(Quality Of Life)(生活の質)の充実」への価値観の移行を意味しています。
すなわち、障がい者の自己決定権と選択権が最大限に尊重されている限り、たとえ全面的な介助を受けていても、人格的には自立していると考える方向が生じてきました。
インクルージョン inclusion
教育にその典型的な形態が見られます。現在わが国の段階はまだ「分離型の特殊教育」です。すなわち、「健常児」(この言葉も「?」ではありますが・・・)と「障がい児」の「2分法」で「普通教育」と「特殊教育」を行う方法です。普通教育についていけない児童生徒を別の場所(支援学校)で個別に指導する事です。
次は「統合教育」です。健常児も障がい児も同じ場所で教育するのですが、前述した例にもあった「原学級」と「特殊学級(支援学級)」に科目によって分けるだけで、分離型と何ら変わりはありません。
「インクルーシブ教育」とは健常児も障がい児も同じ場所で教育を受けるのは統合教育と同じですが、目的に違いがあります。子どものニーズにあった教育をして、これまでの教育についての考え方やあり方の変革を目的としています。障がい児だけでも健常児だけでもなく、皆が平等に教育を受けられるようにしています。クラスには複数の教員を配置して対応できるようになっています。「誰もが児童、生徒の時から日常的に障がい児等と接していて、人間の多様性を学んでいる」 これからの「共生社会」の担い手となっていく子どもにとって最も有効な学びの形態だと思われます。
発達障がい
近年(2005年)ようやく「発達障がい」に対する法律、発達障害者支援法が施行され、発達障がいが初めて支援する対象となりました。それまで発達障がい者への支援は知的障がい者支援の一部に過ぎず、支援の対象となるかどうかは、知的障がいがあるかどうかで判断されていました。
つまり、高機能自閉症をはじめ、アスペルガー症候群、学習障がい(LD)、注意欠陥多動性障がい(ADHD)など、知的障がいを伴わない発達障がいは、支援の対象外だったのです。しかも知的障がいを伴わない発達障がいは、知的障がいを伴う発達障がいと区別するために「軽度発達障がい」と呼ばれ、「軽度」とつくことで「軽い障がい」と誤解されていたことも、支援を難しくした一因かもしれません。
この中には小中高大と学校では成績もよく、少し変わった生徒、学生と思われていた人が実は発達障がいで就職してから職場の人間関係でいろいろと不適合を起こし、はじめてそれが分かったという例も少なくありません。障がいは身近にあるどころか自分の中にもあるのかもしれないのです。
そんな時、しっかりした障がい観をもっていれば、自分の障がいを客観視して冷静に対応できるのです。いたずらに自己卑下したり、自暴自棄になったり、スティグマ(差別)を恐れて隠そうとするのではなく、その「困難」を具体的に自覚し、周りの人に理解と協力を要請して自分も工夫して乗り切っていくべきでしょう。
私たちは困っている障がい者がいたら、どうしますか?まず、何が「困難」でどうすればその問題が軽減されるのか?一緒に考えてみることです。何も特別なことではなりません。
『五体不満足』の作者で、タレント、元東京都教育委員等で大活躍されている乙武洋氏の言葉を聞いてみましょう。
乙武洋匡氏の言葉
「自分は身体が不自由だけれども、不幸ではありません。」
「障がい者とはどのように接したらいいのかという発想自体が間違っていると思うんです。いまあなたの目の前にいる相手が何を望んでいて、どう接してほしいのか。それを探ってほしいんです。健常者が相手だと、みんなそれを自然にやっているじゃないですか。」
『多くの日本人が、(障がい者に対し)「どう接したらいいかわかりません」となってしまうのは、いまだ社会のなかで障がい者が「特別な存在」であり、多くの人が「慣れていない」から。』
最後に「国際障がい者年活動計画」の定義をもう一度みてみましょう。
「障がい者は、その社会の他の異なったニーズをもつ特別な集団と考えられるべきではなく、その通常の人間的なニーズを満たすのに特別の困難をもつ普通の市民と考えられるべきなのである」
私たちは義務教育の9年間、どれだけの数の「障がい児・障がい生徒」に接してきたでしょうか。統合教育とは名ばかりで、クラスから英語、数学、理科などの科目で支援学級に「移動」しなければならなかった「クラスメート」。「対人関係」がうまくいかなかったり、朝どうしても起きれなくて、自尊感情がもてず、不登校に追い込まれてしまった生徒・・・。病気などの内部障がいにより、入退院を繰り返し、年間数日しか登校できなかった生徒、「特別の生徒」でしょうか?みんな「普通の生徒」です。ただ「特別の困難」があるだけなのです。自分自身のことも含めて、「人間の価値」と「困難」を切り離して冷静に客観的に考えてみましょう。そしてこの「困難」を軽減できる人になりたいものです。
『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリが主張するように、ネアンデルタール人が絶滅し、ホモ・サピエンスが生き残れたのは「絶対者や神」などの「物語(宗教)」を創り出し、その意思の下で救け合えたからでしょう。今その意思に反して分断と対立がその物語(宗教)の違いによって起こってはいますが…。