鬱に関する本なら読める
僕が読む本は大体3パターンだ。小説、エッセイ、専門書の類だ。もちろん、専門書は一般読者向けに書かれた分かりやすい専門書だ。
それで、鬱になってから全く本が読めなくなった。これがビックリするくらい読めない。読めないというより、「本を読んでいるところではない」といった感覚なのだ。
ただ、鬱に関する本なら読むことができた。というか、それにしか興味がなかった。おそらく、鬱で寝込んでいて、何もやる気が起きないという人も、意外とネットで鬱に関することを調べていたり、あるいは鬱に関する本を読めたりするのではないか。
それで、最近は割と本を読めるようになってきた。とはいっても、相変わらず鬱に関する本ばかり読んでいる。もう何冊読めば気が済むんだというくらいに鬱に関する本ばかり読んでいる。要は鬱に特化した本なら読めることができるのだ。
僕は定期的に本屋に行って、気になった小説やエッセイを買ったりするのだが、今は読む気になれない。鬱が治った時に読もうと思っているのである。だから、買ったはいいものの、読まれていない本がかなり積まれている。また、僕は無職になってしまったので、こんなに本をバンバン買っている余裕はないのだが、もう完全に中毒になっている。読むことより、本を買うことに快感を覚えだしている。本棚に本が埋まることで悦を感じているのだ。正直、こんなことをしている余裕はないのだが。
どうせ時間は腐るほどあるので、この際ドストエフスキーの小説でも読もうと思って、『カラマーゾフの兄弟』、『白痴』、『罪と罰』を読んだのだが、その後ぐったりと参ってしまった。
また、この際マルクスやフロイト、ニーチェの本を読んでやろうと思い、これらの入門書を買ってきたのだが、これも参ってしまった。だから、鬱の時に難解な本を読んではいけない。間違いなく参ってしまう。だから、分かりやすいやさしい本が良い。
今のところ、鬱に関する本にしか興味がない。頭の中がそれ一色になっているのだ。だから、鬱に全然関係ない小説やエッセイが読めない。ただ、鬱を治すには鬱について考えないことが重要だと思っているので、本来なら鬱に関係ない本を読むのがいいかもしれない。とはいえ、鬱に関係ない本を読むと「それどころじゃないんだ」という気になってくる。なんだか体がそわそわしてくる。イライラしてくる。
とはいえ、そろそろ鬱関連の本を卒業しなくてはならない。もう充分すぎるほど読んだ。だから、あえて鬱に関係ない小説やエッセイの類を読む必要があるのかもしれない。