本を読むと良くも悪くも影響される

坂口恭平の『躁鬱大学』を読み返している。僕は一度読んだ本はあまり読み返すことはないが、この本は何回か読み返している。

この本はざっくりいうと、「我慢していると気分の波が大きくなるから、好き勝手生きろ」というような内容だ。『神田橋語録』もまた然りだ。

坂口恭平はこう言っている。

 躁鬱人には科学的根拠なんかどうでもいいですから。それよりも感覚的に合っているかどうかだけなんです。医者が言うとおりにちゃんと薬を飲まないと、なんて気持ちでやってたら、すぐに窮屈になりますから、かならず鬱になります。心地よければすべてよし、なのです。だから自分に都合のよい言葉をひたすら集めていけばいいのです。堅苦しい医学書なんか読むと、読んでいる行為だけで、その内容はともかく、体調が悪くなります。背筋をしゃんとして、躁鬱病を理解しないといけない、みたいな堅苦しいことを始めると、体調は悪くなります。真面目になればなるほど悪化します。適当にすればするほど、感覚的に動けば動くほど、ラクになります。

坂口恭平『躁鬱大学』

この「窮屈」がどうやら良くないらしい。薬に関することは分からない。そりゃ薬は飲まないに越したことはないと思うが、僕の場合、薬を減らすと凄く調子が悪くなる。だからまあとりあえず飲んでいる。いきなりやめるわけにもいかない。

堅苦しい医学書に関しては同意だ。こういう類の本を読むと、なぜかしらないが参ってくる。坂口恭平は「適当にすればするほど、感覚的に動けば動くほど、ラクになります」という。考えるな。感じろ。つまりは、ブルースリーだ。

ここ最近の僕は堅苦しかったかもしれない。鬱を治していくためには、こういうことをやって、こうこうで、という具合で理屈で考えていた。真面目になっていた。こいつが良くなかったのかもしれない。すると「窮屈」になる。坂口恭平的にはこの「窮屈」がいけないらしい。

とはいえ、僕は明日、図書館に行ってTHE双極性障害の分かりやすい教科書みたいな本を借りてこようと思っている。この類の本はもうしこたま読んだ。ただ、改めて読みたいと思ってきた。

そもそも、僕は双極性障害なのか?

僕は働きながら心療内科だか精神科に通っていた。それで不安障害と言われ、薬を飲んだらすぐ元気になった。そしたら1年後くらいに診断が双極性障害に変わった。ただ時すでに遅しで、気分が上がって、その勢いで会社を辞めることにした。それで颯爽と会社を辞めたわけだが、鬱になってしまった。

それで通っていた病院が遠かったから、近くの病院に転院したら、「双極性障害かどうか分からん」と言われた。そりゃそうで、途中で転院してこられても、双極性障害かどうか分からんだろう。ただ、本当に双極性障害だったらマズいということで、その薬は出ている。

だから双極性障害なのかどうか分からない。確かに昔から気分の波はあった。気分が良いなと思ったら、落ち込む時期がやってきた。周りからは「今日はテンションが高いね」とか「今日は静かだね」とかよく言われていた。ひどいやつになると「お前は二重人格だ」とか「キャラを作っている」とか言われていた。もちろん当人にその意識はない。だから「何言ってるんだこいつ」と思っていた。これが双極性障害の仕業なら合点がいく。

また、僕は高校生の頃から精神科の薬を飲んだり飲まなかったりしているのだが、精神科の薬を飲むと妙に気分が上がった。また、アホっぽくなる感覚があった。これが軽躁状態と言われれば確かにそうだと思うのだが、軽躁状態ではない、と言われれば軽躁状態ではない。こういうのは自分で診断してはいけない。診断するのは医者なのだ。

というわけで、双極性障害かどうか分からん。また、こだわる必要もないと感じてきている。とりあえず次回の診察時に改めて主治医に聞いてみようと思う。

ただ、精神疾患に関する本を読むと、「僕なり私なりは、これじゃないのかしら」と思ってくるところがある。こういうのをバーナム効果というらしい。発達障害やHSPの本なんて、大概の人が当てはまると思う。また、HSPは病気ではなくて、性格の特性らしい。まあとにかく、診断するのは自分ではなくて、医者だ。医者。

もう双極性障害だろうが、なんだろうが、好きな事ができて、好きな物が食べれて、寝れたらそれで良いと思っている。これが出来なくなった時がヤバい時だ。この3つはその指標だ。

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