「方丈の庵」

ちょっと前に鴨長明『方丈記』を読んだ。光文社古典新訳文庫から出ているものを買った。訳は蜂飼耳という人。もちろん原文で読めるはずがない。

ざっくりいうと、鎌倉時代のミニマリストだ。前半は災害から世の中は無常だよってことが書かれていて、後半はいわゆる「方丈の庵」での生活のことが書かれている。「俺はもう俗世間が嫌になったから、人里離れたところでミニマリストになるよ」って話だ(違ったらごめんなさい)。

養老孟司さんはよく著者で、『方丈記』の無常について書かれている。また、坂口恭平さんはヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』から影響されて、路上生活者のフィールドワークを行ったらしい。そして、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』は『方丈記』から影響されているらしい。詳しいことは知らないが。

僕はミニマリスト的なところがある。物に執着がない。よく物を捨てるし、売ったりする。まあ大体一周回ってまた欲しくなって買い戻すのだが。だからまあ部屋は綺麗だ。

ただ、一時ミニマリストが流行ったことがあっただろう。とはいえこれといってミニマリストたちの本を読む気にはなれなかった。これは同族嫌悪なのかもしれない。

ミニマリストってのは、本当に必要な物だけ所持して、とにかくシンプルな生活を送りたい人だろう。僕はこれは結構危ないのではないかと思っている。まあ「物」にとどまっているうちはいいが、行き過ぎると、これが「人」にも適応されるのではないかと思っている。つまり、損得勘定で人と付き合うようになるのではないか。多分僕は、意識はしていないが、無意識的にそう思っているふしがあるかもしれない。現に僕は友達がいない。たまに連絡してくれる友達もいるが、「あの野郎。俺が冴えないのを確認したいがために、連絡してきてるんじゃないだろうなあ?」という具合に随分ひねくれた考えを持っている。

また、以前テレビで見たのだが、殺風景な部屋に住んでいる人は、そうでない人に比べて精神的に参りやすいと心理学者か誰かが言っていた。これは分かる気がする。というのも、部屋が殺風景だと自分と向き合う時間が長くなるのだ。それゆえ、ああでもない、こうでもないと考えているうちに参っていくのではないかと思っている。おそらく、ミニマリスト的な人は禅の考えが好きだと思う。禅といえば、マインドフルネスや、座禅だろう。こういうのが好きな人が多いと思う。ただ、それは自分と向き合うってことだ。僕は自分と向き合いすぎると参るのではないかと思っている。

逆に物が捨てられない人もいると思う。そういう人の部屋は大体散らかっている。「そんなもの捨てればいいのに」と思うのだが、「いつか使うから」といって中々捨てない。もちろん、部屋が散らかっているのは褒められたことではないが、僕はこういった人は人間関係も大事にする人だと思っている。ミニマリスト的な人は人間関係に対して淡泊だと思っている。もちろんこれは僕の偏見でしかないのだが。

鴨長明は琴やら和歌集やら仏教の本みたいなのをもって、「方丈の庵」に移り住んだらしい。あとは自然を見たり聞いたりしながら楽しんでいたらしい。

僕ももう、本やらCDを捨てちまって、パソコンとスマホだけあれば充分なのではないか?と思うときがある。というか時々、もう全てを捨ててしまいたいというリセット癖にかられる。それで鴨長明みたいに「方丈の庵」で暮らすんだ。

まあこういった生活はすぐ飽きそうなんですけどね。

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