鬱の時は相田みつをがいいかもしれない

相田みつをの『にんげんだもの 道』を読んだ。なぜ今、相田みつをなのかというと、斎藤環さんのヤンキー論を読んで、ヤンキーと相田みつをのシンパシー性について書かれていたからだ。このヤンキー論ではヤンキーを肯定しているわけでもなく、否定をしているわけでもない。いや、どちらかというと否定していたかもしれない。皮肉にも斎藤環さんのヤンキー論を読んで、僕もヤンキーになりたいと思ってしまった。僕はヤンキーに憧れていたところもあったが、結局ヤンキーにはなりきれなかったのだ。現在鬱の僕はヤンキーに憧れる。ヤンキー的マインドに鬱を克服するヒントがあるのかもしれない。

相田みつをの詩を読んでいると、現状肯定、我慢、ありのまま、がテーマのように思う。もちろん全部読んだことがないので分からないが、今のところそう感じている。それで、その背景には仏教がある。日本人の琴線に触れるようなことが書かれている。おそらく山本周五郎も似たようなことを小説で書いていると思う。僕はほとんど山本周五郎の作品を読んだことがないがそんな気がする。ついこの間、『泣き言をいわない』という山本周五郎作品の名言集を読んだが、まあ相田みつをのようなものだった。相田みつをのエッセイにも山本周五郎の『さぶ』を読んだと書かれていた。相田みつをと山本周五郎にもシンパシーがあるのかもしれない。やはり、山本周五郎の作品も日本人の琴線に触れるだろう。もしかすると山本周五郎の作品もヤンキー受けがいいかもしれない。このあたり斎藤環さんに検証していただきたい。

要はテーマが現状を肯定し、我慢することにある。これが日本人の美徳だ。ただ、今の時代には合わないだろう。そんな気がする。だから、あまり相田みつをも山本周五郎も今は受けないかもしれない。もちろん、ありのままの部分は今でも好評だ。ありのままの自分。養老孟司さんはそんなものはないと言っている。僕は養老孟司さんの本を何冊も読んだので、これが頭に叩きこまれている。

現状を肯定し、耐えて、我慢し、ひたむきに頑張るのは素晴らしいことだ。僕もこういうのに憧れている。こういう人間になりたいと思う。ただ、僕には向いていないようだ。僕は現状を否定し、耐えないし、我慢もしない。昔からそうだった。これではいけないと思い、就職したからには耐えて、我慢してきたが、その挙句が鬱だ。躁鬱だ。

神田橋條治先生曰く、躁鬱は我慢がいけないらしい。我慢をすると気分の波が大きくなるらしい。あっちふらふら、こっちふらふら、気分屋的に生きると気分が安定するらしい。だから我慢して耐えるようなものは向かない。坂口恭平も多くの自己啓発本は非躁鬱人向けに書かれていると言っていた。「躁鬱人」なるものが本当にあるのかどうかは疑問だ。躁鬱といっても人それぞれ違うと思うからだ。でもまあ、カンダバシや坂口恭平が言うように生きるのが、躁鬱にとってはいいのかもしれない。そういった意味では、相田みつを的、山本周五郎的なのは向かないのかもしれない。あっちふらふら、こっちふらふら、気分屋的に生きるのがいいのだ。そう言われると、僕は肯定されたように思う。別に間違ってはいなかったのだと。ただ僕は、相田みつを的、山本周五郎的なものに憧れている部分もある。

ただ、相田みつをの詩は鬱の時にいいかもしれないと思った。まず短いし読みやすい。書かれていることも、まるで鬱の人に向けて書かれているように感じる。鬱の時に19世紀の詩人を読んでいてはいけない。難解すぎて参ってくるのだ。だから相田みつをがオススメだ。斎藤環さんは相田みつをとヤンキーにシンパシーを感じていたが、僕は鬱と相田みつをにシンパシーを感じる。ところでヤンキーは鬱になるのだろうか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?