なんくるないさ

僕は今、鬱状態にあるのだが、それにも増して身体症状が辛い。鬱の症状といえば、「元気や意欲が無くなり、落ち込みがでる」というのが基本的な症状だろう。僕はもはやこれが当たり前になって、慣れてきた感覚がある。これに、不安と焦燥感が加わると、もう耐えられなくなる。正直生きた心地がしなくなってくる。幸い、今は不安と焦燥感が出ていない。寝つきが悪いのも慣れた。吐き気も涼しくなってマシになってきた。ただ、原因不明の体の痛みや痒みがある。僕はこれが何かしらの病気だと思っているのだが、検査をしても異常がない。こういうのを心気妄想だとか身体表現性障害というらしい。主治医は「気にしないのが一番」という。とはいえ、体が痛かったり、痒かったりしたら気になるだろう。

鬱がもっとも辛いときは、そりゃ「鬱が辛い」といった具合で、身体症状が気にならなかった。多分どこかのタイミングで鬱が落ち着いてきたのだと思う。それから身体症状が気になるようになってきた。もう頭から足まで身体症状を経験した。行っていない病院は産婦人科くらいだ。産婦人科に行きだした際は、本当に気が狂ってしまったのかもしれない。鬱を経験している人は、往々にして身体症状を伴うものなのだろうか。

田島治『なかなか治らない 難治性のうつ病を治す本』を読んだのだが、うつ病からの回復には「レジリアンス」が重要らしい。この「レジリアンス」とは、

なにかあったとき、落ち込みにどっぷりつからず、そこから立ち直る力、回復できる力がレジリアンス(レジリエンスともいう)。レジリアンスがある人には、下記のような特徴がある
・楽観主義
・利他主義
・ユーモアがあること
・自分の役割がわかっていること
・サポートがあること
・恐怖を直視できること

田島治『なかなか治らない 難治性のうつ病を治す本』

らしい。

まあこれが出来たら苦労しないよ、といった内容だ。ましてや、鬱の時にこういわれても中々難しいだろう。ただ、まあ正論のように思う。こういった考えは必要だと思う。僕にはこれらのことが当てはまるのだろうか。

・楽観主義
そりゃまあ、鬱でなかったときは楽観的だったかもしれない。ただ、鬱になったら楽観もクソもない。だから、「なるようになる」とか「そのうちなんとかなるだろう」とか「なんくるないさ」みたいなのが重要ってわけだ。

・利他主義
これは自分の利益よりも、他者の利益を優先できるかどうかだ。僕は自己中な人間なので、他者の利益に興味がない。まあこれが良くなかったのかもしれない。また、僕は広い意味で自己中であると思っている。例えば、悪い出来事が起きたときに、大体自分のせいだと思ってしまう。これも考え方によっては自己中だ。僕は鬱になる人は、色々なことを自分の責任だと過度に思ってしまう人だと思っている。何でもかんでも他人のせいにしている人はまあ鬱にならないと思う。

・ユーモアがあること
鬱だからユーモアもクソもない。僕はさまざまな身体症状が起こり、そのたびに病院にすっ飛んで行って検査をしてもらわないと気が済まないのだが、大体何も問題ない。それでも何かの病気だと思っている。これは傍から見ると、完全に喜劇なのだが、当人はいたって真面目に病気だと思っている。こういう自分を笑い飛ばせればいいのだが。

・自分の役割がわかっていること
まあ今でいうと、鬱をいかにして治していくかだろう。そのためにはどういう行動を取ったらいいのか、分かっているのか?ということだろう。

・サポートがあること
僕は結構恵まれている方だと思う。幸い、家族にも口やかましく言われない。また、相談できる知人がいれば、ケアマネージャー的な人もいる。また、医者もサポートしてくれる人だろう。

・恐怖を直視できること
これが難しい。僕は恐怖とは「現実」だと思っているのだが、この「現実」に足を踏み入れることを恐れているのかもしれない。例えば、鬱を治していくにあたって、何かしらの行動が求められると思う。それを、やれ鬱が辛いだの、身体症状が辛いだの、という具合で「現実」から目を背けている。まあ症状が治まるのを待つ、というのも1つの手だが、どこかで割り切らないといけないとも思っている。

と、まあこんな具合だ。

また、鬱の人は鬱でない人に比べて、妙に現実を直視しているらしい。それゆえ物事を悲観的に捉える傾向にあるらしい。こういうのを抑うつリアリズムというらしい。鬱でない人は、意外と現実を直視してなくて、楽観的にみているらしい。こういうのを楽観バイアスというらしい。

まあ、上にも書いたが「なるようになる」とか「そのうちなんとかなるだろう」とか「なんくるないさ」みたいな精神が必要なのだろう。

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