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言葉の後ろにあるもの
言葉の使い方は、人それぞれだと思う。
そもそも、言葉で自分を表現することを、あまりしない人もいる。
自分の思いを、その人にとっての的確な言葉に難なく変換することが得意な人もいれば、
本当は言いたいことは違うのに、
わざと汚い言葉を使ってみたり、
相手を挑発するような物言いをする人もいる。
言葉を発する人の、その時の意識の状態によっても、(思考が全面的に前に押し出ている状態か、あるいは頭のなかのおしゃべりが止んでいる状態か)
現れてくる言葉のあり方は、異なってくると思う。
また、そもそも、言葉によってはなかなか表現することが難しいもの、
非言語表現の方が、よほどダイレクトに人の心に伝わる、
共感によって、相手との垣根が一瞬にして溶解し、一気に距離が縮まる、世界が共有される、
そんなこともあると思う。
だから、やはり、言葉の後ろにある、その人の本当の思いみたいなものが、一番物をいうのだろうと思う。
それは、字面の意味だけを追っていては、掴めないかもしれない。
カッコつけて、言葉と本心は裏腹、ということもあると思う。
大人、立場のある人、素直に自分を表現することが苦手な人。
自分を守るために、口から出まかせを言って、とりあえず相手を傷つけることが習慣となっているような人。
相手の人と自分との間の心の交流の流れや経緯のようなものを、
それをまったく知らない第三者が見た場合の評価、というのも、
表面的な言葉だけに依拠した判断になることが多いと思う。
そして、これらの大前提として、
私たちは皆、一人ひとり、世界の捉え方が違う。
集団ごとのある程度のゆるやかな共通項もあれば、
(それさえも本当に自分の心から出てきたものであるか、外から枠組みを与えられたものであるかを問うてみたなら、後者だろう)
まったくの個人によってしか認識され得ないもの(個人の経験に基づくその時点での世界の捉え方)もあると思う。
とまぁ、つらつらとしちめんどくさいことを並べたててきたけれど、
何が言いたいか、っていったら、
「その言葉は、あなたの本心から出たものなの?」
っていうことかな…。
真面目な人は、自分のなかのつじつまを、全部合わせないといけないと思って、苦しむ傾向があると思う。
それは、社会がそれを個人に要請するからだと思う。
言語の体系がそもそもそういうものとして作られている。
「良い子でいれば報われる」みたいな社会の側からの有形無形のメッセージのなかで、
人はそこに自分を合わせようと必死で努力し、
しかし裏切られては悩み、
自分なりに世界をとらえる、
という方法を学んでいくのではないかと思う。
社会の枠のなかに自分を当てはめて、安心する自分というのも確かにあると思う。
でも、そんな秩序には収まりきらないもっと動的なもの、叫びみたいなものって、
本当はみんなもともと持っている。
"社会"なるものに飼い慣らされていくうちに、大人があきらめてきたもの。
子どもはまだ、失っていないもの。
人は、自分が抑圧されていると感じるから、
自分もそれを人に押しつけることに、なんら抵抗を感じなくなりがちだと思う。
そうやって、自分を「守っている」と思っているのだと思う。
そして実際、人を抑圧したところに、自分の居場所がつくられるという面も、事実としてある。
でも、本当の自分のなかから湧きあがってくるメッセージは、違うんじゃないのかな…。
誰かが羨ましい、あいつが自由にのびのびやっているのは許せない、自分はこんなに苦しんでいるのに…。
でも、その羨ましい誰かは、自分の苦しみを人には見せないようにしているだけかも。
文章で伝わること、伝わらないこと。
自分のなかにしか自分にとっての真実はないとするならば、
人の書いた文章なんて、
戯言に近いかもしれない。
それでも、自分に興味を持って、自分の書いたものを読んでくださる方がいるのだから、
それは本当にありがたいことだなぁ、と思う。
本日も、お付き合いくださり、ありがとうございました!
さぁ、少しヨガして、準備して出かけよう。
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