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「マルクス解体」を紐解く|レビューエッセイ#6

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第六章 マルクスに帰れ!②


システムアンマッチ。
エンジニアとして、システム開発を行うときに最も忌み嫌われることが「設計思想の不一致」だ。特にこの不一致のあるプログラムを読むとうんざりする。大規模かつ長く続いているシステムほど酷い。システムの改修ごとに思想が変わっていくことも多く、なぜこのアラームは発報するのに、このアラームは発報しないのだろう? そもそもアラームレベルはどの思想に従っているのだろう?

このアンマッチは別にプログラムの世界だけでない。社会に普遍的に蔓延している。そして僕たちの一番身近なシステムアンマッチが「資本主義と持続可能な開発目標(SDGs)」だ。

そしてこの問題の核となるのが、前回から徹底し叙述している「物質代謝の亀裂」である。


過剰生産と過剰消費

現代社会の生産モデルは、歴史的貫通から見て非常に特殊と言えるだろう。一般的な経済モデルとして、市場における価格の決定を説明する「需要(supply)」と「供給(demand)」があり、この二つは需要曲線と供給曲線という形で均衡点を導く
均衡点とは均衡価格・均衡取引数量の算出元となる一点であり、需要曲線と供給曲線の交点がそれとなる。

需要曲線・供給曲線(Wikipediaより)
※おそらく中学生の頃に見たとことがあるだろう。

脱線覚悟でもう少し需要曲線と供給曲線について説明しておく。
図を見て欲しい。グラフ縦軸は「価格」、縦軸は「数量」を示している。つまり、グラフの上部は商品価格が高くて、下部は価格が安い。グラフの左部は生産数が少なくて、右部は生産数が多いということ。

均衡点において「価格P」が決定されるのだが、現代経済において「価格P」=「物価」とはならないのを注意して欲しい。物価とは何か、という議論においてはとても難しい。なのでここで論述している「価格」は「物価」でなく、支払われる貨幣の量を純粋に指しているのだと思って欲しい。

※物価についての参考本


需要が先か供給が先か、という議論はニワトリタマゴであって、あまり根本ではない。だけど個人的な直感として、欲しいという気持ち(需要)があって生産者が物を提供する(供給)するという流れが健全だと思う。

しかし実態はどうだろうか。
僕たちが身に着けている服は欲しいと思って買ったのだろうか?
クローゼットに眠っている多くの服をなぜ買ったのだろうか?
家にある多くの家電はなぜ必要だと思ったのだろうか?
僕たちはこんなにも多くのサービスを、本当に求めているのだろうか?

断言したい。僕はまったく持って、心の底から欲しいと思って物を買ったことがない。(非自分の底から湧き出す根源的な欲求による購買プロセス)

現代社会では、経済(物の生産や売買)のほとんどが僕の直感とは逆の過程となっていて、供給側が需要側へ購買を促している。あまり意識することは無いかもしれないが、これは需要が供給をコントロールしている状態、つまり僕たちの「モノを買う」という行為は現代において資本家の支配下にあるということだ。残念なことに、僕たちは必死に資本家の下でお金を稼いでも、結局は資本家によってその使い方すらも決定されているのである。

この供給が需要を生むという見解は「セイの法則」と呼ばれ、過去この主張は正しいと信じられていた。

供給を強化すれば必然的に需要が形成されていく。

これが現代における過剰生産の根本なんだろうと思う。ほとんどの企業は市場を予測し、人々が求めているであろうサービスを創出し提供する。これをマーケティングと言う。マーケティングにより、大体これくらいは売れるだろうと目論見値を立ててモノが作られる。
そして過剰生産が起こる。人々は洪水のような情報の中で盲目的にサービスを受容し、需要を錯覚し、過剰消費を行う。

そして資本主義経済は人間を支配し、思惑通りに成長を持続させていく。
過剰生産と過剰消費を繰り返しながら。


資本主義における剰余価値と利潤率

僕たちは今、大量生産に支えられて生きている。大量生産の強みは比較的にコストが安いというところにある。ここでいうコストの大項目は労働力・材料である。

モノをたくさん作るということは、それに値する労働力が求められる。だが、労働力、特に労働時間には限界があり、資本はその労働時間の制約を破棄して(その結果、労働者の時間を奪うことになる)モノの価値を増殖させていくのである。
そしてこの価値は「剰余価値」となる。

剰余価値は、資本の中で満たされることのない際限ない運動として力学していく。「労働」は価値増殖の一つの手段であり、剰余価値の中で労働力の延長こそが必要となる。

剰余価値の上昇は「利潤率」の向上を伴う。「利潤率」とは、いくらの資本を投下したときに剰余価値によりその利潤を求めるための指標であり、その資本の中には上述したコスト(労働力と材料)が含まれる。
利潤率の計算式はこのよう。

r = m / (C+V)
※利潤率(r)、剰余価値(m)、不変資本(C)、可変資本(V)

ここで重要だと思うのは、分母であるコストとなる資本の部分だ。この式によると、労働コスト・材料コストが弁償すればするほど利潤率は向上する。単純に考えて、人件費や材料費が安いと原価が下がり利益が出ると思えばいい。
そして資本主義は、この利潤率の向上を第一目標とする。

利潤向上のために労働の生産性を上げることは間違いなく有効だ。また、材料(素材としての自然)を安価にすることでもこの目標は達成される。

以前の論述では資本主義がもたらす生産性による持続不能性を述べた。

では、素材の安価ではどんな危険が待っているのだろう。


廉価な素材を求めて

過剰生産における素材とは自然一般に溢れる物質を指す。

地球の表面全体が人間の経済活動の痕跡で覆われるようになっている現在、人間にとって手つかずの「自然」は存在しないように思われる。ビル・マッキンベンの「自然の終わり」という主張は30年の時を経て、その説得力を増しているのだ。

斎藤幸平「マルクス解体」 p111

「自然」は原料、土地、食糧、エネルギーなど、生産における素材的な原価に直結するものである。先進国では「自然」そのものに経済的価値が付加され有償な素材として扱われているが、そもそもは資本にとって労働を介さない「自然」は無償な価値として扱われる。

未開拓地の「自然」はとても廉価である。土地に関して言えば、マンハッタンの買い取りが有名な例だろう。オランダは、土地の所有という概念が無かったネイティブアメリカン(先住民)からマンハッタンを24ドルで買い取ったという。
原料にしてもそうである。未開の地で生産される材料は、先進国で生産されるよりも非常に安い。エネルギーもその用途を知らなければ価値が付かないであろう。

こうして今の資本は廉価な「自然」を求め、世界のあらゆる「自然」を搾取し続けてきた。本当に人間にとって手つかずの「自然」は存在しないのかもしれない。そして、手の付いた「自然」は資本に酷使され、人間の手によって本来の素材を失っていく。資本の良いように改良された「自然」は環境破壊として姿を変えていく。

森林伐採、埋立地の形成、各国の都市化など、植物界と動物界は資本主義の下ですでにその存在を保つことを許され無くなっている。廉価な「自然」は終焉を迎えていると思われる。

資本の「搾取」という性質上、「自然」の持続可能性はシステムアンマッチでなのである。ここに環境思想を持ってくること自体ナンセンスだ。設計上アンマッチ生じている以上、今のままでSDGsを叶えることなど到底できないだろう。

では、何を変えればいいのだろうか?
それは自明だ。過剰生産と過剰消費のこのシステムを変えていくしかない。

つまり「利潤率」の低下を求めている。それは同時に、資本主義システム不能を意味する。だが、資本主義の割れ目である「物質代謝の亀裂」を修復するにはこのような決断が必要不可欠であり、自然という素材的世界に重点を置いていかなければ、「自然」は本当に終わりを迎えるかもしれない。

Mr.羊


※大洪水の前に

※「マルクス解体」


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