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キリンに落ちた雷に感電した

 最近、読書をしている。重厚な小説や大人必読の自己啓発本などではなく、オモコロライターたちが書いた極めて軽口の本が多いけど。
 ここ数日なら、長島社長の「センスは5%」、かまみくの「本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む~走れメロス・一房の葡萄・杜子春・本棚」、ダ・ヴィンチ恐山こと品田遊の「キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々」を読んだ。全部おもしろかったし、かまみく本にはかなり刺激を受けたので自分も感想文を書きたいな、と思ったほどだ。
 でも、今日はかまみく本より先に書きたいものがある。読書感想文と言うより、この気持ちを忘れたくないといった感じのメモになるが。


 「キリンに雷が落ちてどうする」の中の「キャラクター」という項目に自分がいた。
 ざっくり言うと、ADHDは他人のためなら覚醒できる。(利他的動機づけ)自分のために頑張れない原因は、自分を瞬間的存在として捉えているためで、時間を捉えるには他人が必要だから、といったことを話している。
 先に言っておくと自分はADHDの診断は下っていない。しかし、ひどい先延ばし癖や衝動的な行動などで困った経験はかなりある。こんなものを読む人なら既知だろうが、健常者にも発達障害の要素はあるし、1つ2つ当てはまるからって治療等が必要というわけではない。
 わたしのこういった面は、単純に、わがままでだらしない人というだけである。
 それに、別にこんなことは一番の困りごとではない。
 作中にも出てくるが、「自分が損することにリアリティを感じられない」ことが最もヤバいと思っている。クーポンから控除の利用、人付き合い、締め切りなど言い出したらキリがないが、最低限今の居場所からつまみ出されなきゃいいくらいの損得勘定しかやらない。だって自分ごとだと認知できないから。
 それに、世界の構成に自分は含まれないといった乖離感とそれに反発する気持ちが微塵もわかないことがヤバい。
 ヤバいなら反発心があるじゃないかと言われそうだけど、生きている以上は世界と一体化すべきであるが、本当にそれが正しいのか分からない。しかし一般的に言う人間の生活からどんどん滑り落ちているし、実際不便が強まることが予想される・・・という方向になってしまうヤバさに視野が行くからヤバい。
 自分はいつもどこかを漂っていて、どこにも溶け込めていない。
 汚れだらけの双眼鏡で世界という箱庭を見下ろしている感覚で生きている。
 この自分にリアリティを感じない一連の機微を明瞭に書いてあるのが「キャラクター」の項目だった。
 全く属性が違う(何より発達障害当事者じゃない)者に「分かりすぎる!マジで一言一句同意です!」なんて言われても著者は嬉しくないだろうけど、これが言いたいんだという内容すぎる。
 もしかしたら、この内容を話せたら自分が何なのか科学の視点でもっと分かったのかもしれない。
 昔から自分を見ているもう一人の自分がいて、そいつを見ているもう一人の自分がいて・・・それが無限に続いて・・・という感覚がある。そこに恐怖はないが、漠然と普通ではなさそうとは思っていた。何かをやるぞ!と気合を入れる時は本体の自分ではなく、見ている側の自分を意識すると上手くいった。たぶん、無意識に他人に自分を憑依させる疑似体験を自分の中でやっていたのだろう。でもこれって疲れるし、結局自分しか登場人物がいないから飽きると終わってしまう。こんな文脈で言ってはいけないのだろうけど、人は一人では生きられないことが分かる。
 自分が神の世界は終わらせないと社会に入れない。終わらせられないなら他人を使うしかない。(本当に悪い言い方だけど)
 力になりたい他人がいないから難しいなーという気持ちもあるけど・・・少し現状打破の糸口は見えた気がする。
 本が読めて良かった。
 

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