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『世界は贈与でできている』まとめ

近内悠太著『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』は、現代の資本主義社会を「贈与」という視点で切り取ったときに見えてくる世界について検討した贈与論である。

哲学者としてのデビュー作にしてこの面白さ。
同じ世界を見ているはずなのに、「贈与」というキーワードやそれに付随するさまざまな事例や観点から見ていくと、「贈与」を取り巻く資本主義社会の様子がまた違った形で見えてくる全く新しい贈与論だ。


贈与とは(第1章 お金で買えないもの)

近内は贈与を「お金で買うことのできないものおよびその移動」と定義づける。
論を進めるための暫定的な定義かと思われたが、その後も贈与の再定義は出てこないので「お金で買うことのできない」価値や情報や行為などのかなり広いものを含むものだ。

プレゼントがいかにして贈与たりうるかというと、誰かからプレゼントとして手渡された瞬間に、その「モノ」がモノではなくなり、◯◯からもらった特別なモノという性質を帯びるからである。
贈与には、そういった特別なプレストーリーが必要になる。
贈与の一つの形態は、モノを「モノでないもの」へと変換させる創造的行為ということができる。

「無償の愛」とは、「自分が親から大切にされて養育してもらった」という反対給付の義務に突き動かされた、返礼の相手が異なる贈与のことである。
その親が何をもって自分の愛が正当であったかを確認できるかというと、それは「自分の子がふたたび他者を愛することのできる主体になったことによって」だ。
だから、親は結婚していない子に対して「早く孫の顔が見たいわ」と愚痴をこぼすのである。

すべては、被贈与、すなわち与えられたという気づきこそが始まりである。
誰かからの贈与の始まりを辿っていく映画『ペイ・フォワード』の主人公トレバーは、自分の命を犠牲に捧げることによって、世界に良きものを与えている。
贈与は、差出人がバレてはいけない。そのことからトレバーは死ななくてはならなかったのだ。

贈与と似た概念に「偽善」がある。
偽善とは、計算可能な贈与のことである。
これぐらいすれば、こんなリターンが見込めるという贈与の仮面を被った自己保身である。
目上の人に対する態度でいえば、被贈与に対する返礼なら「恩に報いる」「忠義を尽くす」となるが、未来の利益への先行投資なら「媚を売る」や「権力におもねる」となる。

多くの人が贈与を恐れる理由は、それが「自己犠牲」になるのではないかと恐れるからだ。
贈与になるか、偽善になるか、あるいは自己犠牲になるかは、それ以前に贈与を既に受け取っているか否かによるのだ。

交換の論理(第2章 ギブ&テイクの限界)

「割に合うかどうか」という観点のみに基づいて物事の成否を判断する思考法のことを「交換の論理」と呼ぶ。

ボストンの消防署では、有給病欠を減らそうと上限を15日に設定した。すると、クリスマスと元日の病欠連絡が前年の10倍に増えた。
また、イスラエルの託児所ではお迎えの遅刻を減らそうと、遅刻者に罰金を科すことにしたところ、親の遅刻回数は2倍になった。
これら2つの例は、申し訳無さや後ろめたさを金銭と交換させてしまったのだ。
「お金を払うのだから、遅刻してもうよい」という免罪符を与える結果になってしまったのである。

責任(responsibility)は、天職(calling)の呼ぶ声、誰かの声に気づいたときに立ち現れる。
つまり、「自分にできること」「自分のやりたいこと」に加えて、「自分がやらなければならない、と気づくこと」(=使命の直覚)がなければならない。
仕事のやりがいは、その仕事の贈与性によって規定される。
だから、教育、医療、消防、治安維持、公共衛生、政治などの社会システムは、交換の論理では基礎づけることができないのだ。

近年、献血はコスパが悪いと避けられる傾向にあるという。
献血は自分の血液がどのように、誰に対して使われたかが「目に見えにくい」。
つまり、貢献度の指標がわかりづらいのである。だからコスパが悪い。
「見ず知らずの人」という宛先を思い浮かべる想像力がなければ、贈与に関して認知的に失敗するのだ。

宛先に届くことを待つ、という姿勢が必要だ。
届くことに賭けるということは、つまり「祈る」ことだ。
交換の論理に侵食され、行為の意味を無時間的に求め、「待つ」ことができなくなったとき、破壊されるシステムがいくつもあるのだ。
その究極の例が「家族」である。

贈与の束縛性(第3章 贈与が呪いになるとき)

贈与には人と人を結びつける力があるがゆえに、ときに自分や他者を縛りつける力へと転化する。
贈与は時として、「呪い」として機能するのだ。

呪いとは「思考と行為の可動域」に制約をかけるものの総称である。
それは、相手が「いい人」だから疲れ果てる。
いや、正確には「いい人だと偽る人」からのコミュニケーションによって疲れ果てるのだ。
「いい人だと偽る人」は、ダブルバインド(相矛盾するメッセージによる束縛)によって、贈与を差し出す(ふりをする)ことで、相手の思考と行動をコントロールしようとしてしまう。

例えば、親が子どもに自分の介護を望む例を考えよう。
親は子に対して「無償の愛」でその情念を伝え、養育する。
その親が老いてから自らの介護を子に望むことは、「無償で与えてきた愛を、介護という形で返せ」という矛盾したメッセージを発する。
無償なのに返礼を求めるというダブルバインドによる束縛になるのだ。

つまり、「贈与はそれが贈与だと知られてはいけない」ということでもある。
「あれは贈与だった」と過去時制によって把握される贈与こそ、贈与の名に相応しいものなのだ。

贈与の時制(第4章 サンタクロースの正体)

贈与にはある種の「過剰さ」「冗長さ」が含まれる。
なぜなら、ある行為からその合理性を引いたときに、そこに残るものに私達は贈与性を感じるからだ。
その意味で、「敬意」や「礼節」も同様の構造を持っている。
言葉が短いほど暴力性が増し、長く冗長になるほど丁寧なもの言いになる。
敬意や礼節は、合理的な関わり以上の態度や言葉を連ねることで、相手がそれに値する人物であるとこちらが見立てていることの証明なのだ。

また、愛についても同じことが言える。
愛は不合理からしか生まれない。
なぜなら、合理的な理由ばかりであれば、それを満たす別の人と交換可能だからだ。

「あなたの顔が美しい」「スタイルがきれいだ」「優しい性格がいい」といった理由は、それを満たす他者でもよい理由である。
しかし、「ふてくされたときの仕草がかわいい」「不器用なところが好き」「食べ過ぎて動けなくなるところがおもしろい」といった、一見するとマイナスの要素に相手の良さを見出すと、途端に説得力が増す。
合理的な理由+不合理な理由を正確に述べるからこそ、平井堅の『君の好きなとこ』の歌詞は響くのだ。

贈与を行う人物として、世界的に有名な代表は「サンタクロース」であろう。
名乗らないサンタクロースという存在は、「これは親からの贈与だ」というメッセージを消去させる機能を持つ。
贈与は、差出人が誰であるかを知られてしまっては成立しないからだ。
受け取る子ども側からすれば、「自分にくれる正当な理由などない」はずのサンタクロースから届くプレゼントだから自分事として嬉しいのだ。
そして僕らは「サンタクロースなどいない」と知った時、子どもであることをやめる。

また、差出人の方に目を向けると、贈与は差出人に「届いてくれるといいな」という節度を要求する。
「必ず届くもの」「受け取ってもらって当然」という差出人の態度は、受取人の「思考と行為の可動域」に制約をかける。
つまり、呪いの正体とは、その節度のなさや祈りの不在だったのだ。

贈与は届かないかもしれない。贈与は本質的に偶然で、不合理なものだー。
そう思えることが差出人に必要な資質なのである。

つまり、贈与は差出人にとっては受け渡しがいつになるか分からない未来時制であり、受取人にとっては「あれがこの人からのプレゼントだったのだ」と後から気づく過去時制になる。
私達は、贈与のゲームを受け取り人としてのポジションから始めるのだ。

では、私達は受取人として、どうすれば贈与を受け取ることができるのか?
それには想像力が必要だ。
贈与は差出人に倫理(節度)を要求し、受取人に知性(想像力)を要求する。
僕らにできることは、「届いていた手紙を読み返すこと」、あるいは「届いていた手紙を読むことができる人間に変化すること」なのである。

言語ゲーム(第5章 僕らは言語ゲームを生きている)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、著者『哲学探究』の中で、「言語を教えるということは、それを説明することではなくて、訓練するということなのである」(強調は筆者)と述べている。
例えば、「窓」という概念は、直示的に指を指しながら教えられるものではない。
なぜなら、その指さしているものが窓なのか、外の景色なのか、窓についた水滴なのか、空中の何かなのかが初学者にとってはわからないからだ。

そうではなく、私たちは言語を活動と言語的コミュニケーションが合わさったやりとりを通して、徐々に学習する。
「窓」という語が、どのような生活上の活動や行為と結びついて使われているかに、その語の意味があるのだ。

「記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用であるというべきであろう」(ウィトゲンシュタイン,『青色本』,p27,強調は筆者)

という引用にあるように私たちは概念や言葉を、その使用の仕方を先人が使っている様を見て真似し、自分が使用したリアクションを周囲から受けることでフィードバックし、正しさを確認する。
その語を用いて他の人と共に滞りなくコミュニケーションが取れているから、語の意味が理解されているのである。

つまり、これまで素朴に私たちが捉えていたゲームとルールの順序が逆転している。
ルールを覚えてから、ゲームを行うのではなく、とにかく実践を通してやってみて、その使用が齟齬なく行われていることを確認することでルールが理解されるのだ。

つまり、語の意味は心の中にあるのではなく、言語ゲームの中にある。
私たちが他人のことを理解できないのは、他者の営んでいる言語ゲームに一緒に参加できていないから、相手を理解できないと感じるのである。

私たちは、自分がすでに知っている手持ちの言語ゲームを、相手にも当てはめようとする。
他者理解において私たちがやることは、「他者がこれまでの人生の中で営んできた言語ゲームを少しずつ教えてもらいながら、一緒に言語ゲームを作っていくこと」だといえるだろう。

想像力(第6章 「常識を疑え」を疑え・第7章 世界と出会い直すための「逸脱的思考」)

求心的思考とは、合理的、常識的な概念、常識から発生するアノマリー(変則性)を説明しようとする思考のこと。
アノマリーは過去からのメッセージであり、その検出には合理性という基盤、常識的知識という足場が必要である。

贈与の差出人は名乗ってくれないのであった。
だから私たちが「届いていた手紙」に気づくためには、それが残す痕跡、つまりそれがアノマリーとして出現する違和感を感じる必要がある。

逸脱的思考とは、自明な事実や概念を受け入れることなく、ありそうもない可能性について想像力を発揮するほど、偏見から解放されている思考のこと。
新しい発見やイノベーションは、この常識からはみ出した逸脱的思考の産物である。

この求心的思考と逸脱的思考を合わせて「想像力」と呼ぶ。
逸脱的思考は、求心的思考の常識、基盤から発生するアノマリーに気づくことなしには生まれない。
この2つの思考は、相補的に新しい価値を生み出すための両輪の思考法なのだ。

私たちのコミュニケーションあるいは言語や認識は、「ネットワーク性」「全体性」を有している。
「逸脱的思考」は、そのネットワークの一部を疑い、SFのように僕らの世界像を書き換える想像力のことである。

三大SF作家の一人、星新一はSFの意義を「根源的問いかけの日常化」にあり、それがSFの命であると述べている。
SFの問いかけは、「僕らがこの世界と出会い直す」ためであり、破局が起こる前に、破局を見ること。
災厄が訪れる前に、災厄を経験することにあるのだ。
SFの機能、つまり「逸脱的思考」の機能は「僕らが忘れてしまっている何かを思い出させること、忘れてしまっているものを意識化すること」にある。

『テルマエ・ロマエ』は、古代ローマの浴場設計技師である主人公ルシウスが、現代にタイムスリップして日本の浴場を見て回る漫画だ。
ルシウスは日本の浴場で見るもの、聞くもののアイデア、発想に驚く。
その「驚き」は、「そこにあるはずのないもの」を教えてくれる。
つまり、それが私たちに与えられているもの(=贈与)であるのだ。
ルシウスが驚くその身振り手振りは、「君たちはこんなにも多くの素晴らしいものを持っている」というルシウスからの祝福の声でもある。

陰の贈与者(第8章 アンサング・ヒーローが支える日常)

小松左京のSF作品には、ある共通のテーマがある。
それは「日常の中で当たり前に存在しているもの、当然のように成立していたがゆえに僕らの意識に上らず透明になっていたものが遮断され、停止し、喪失」することだ。
当たり前に存在していたものが無くなったときに、世界はどうなるのか、人々の反応を描くことで、これまで私たちが受けてきた恩恵を教えてくれる。
つまり、現状の世界では「何も起こらないこと」が一つの「達成」なのである。

何も起こらない、世界が壊れないときには、それを支えて維持してくれている誰かや何かぎ存在している。
そんな功績が顕彰されない陰の功労者。歌われざる英雄のことを「アンサング・ヒーロー」という。
それはつまり、評価されることも褒められることもなく、人知れず社会の災厄を取り除く人たちのことである。

その世界を維持する無数のアンサング・ヒーローに気づいたとき、私たちは大人になる。
それに気づいた主体は、アンサング・ヒーローからの差出名のない贈与を受け取ることができ、その返礼として再びこの社会を見えないところを支える主体となることができる。

アンサング・ヒーローは、自分が差し出す贈与が気づかれなくても構わないと思うことができる。
それどころか、気づかれないままであってほしいとさえ思っている。

「アンサング・ヒーローは僕らの見えないところで、語られることなく、連綿と受け継がれていく」のだ。

世界は贈与でできている(第9章 贈与のメッセンジャー)

私たちはよく旅行先で見つけた美しい景色や豊かな自然を写真や絵にして、大切な人にシェアしたくなる。
美しいものや大切なものをシェアすることが親愛の証だから、僕らはつい、大切な誰かに共有してしまうのだ。
このような所作のことを漢文学者の白川静は「」と述べている。

ルシウスは古代ローマの人々に、日本の浴場のシステムをシェアしなければならないという使命を感じる。
「そこにあるはずのないもの」であるからこそ、なんとか古代ローマに持ち帰り、実現させようとするその行動力には、「生命力」が賦活されている。

そこにたまたま偶然あったものを受け取ってしまった。
これをローマに持ち帰らなくてはならないと感じた瞬間に、それが贈与に変わる。
ルシウスが、「メッセンジャー」という使命を持ったとき、初めて贈与が生成したのだ。

贈与は市場経済の「すきま」に存在すしている。
市場経済というシステムと交換の論理という下地があるからこそ、そこに「贈与」というアノマリーが見えてくる。

東京・西国分寺にある喫茶店「クルミドコーヒー」は、クルミの無料サービスをしている。
店の仕事ぶりが客の消費者的な人格(貰えるだけたくさんのサービスが欲しい)を刺激しているなら、クルミの減りが早くなる。
受贈的な人格(受け取りすぎている)を刺激できているならクルミの減るペースに歯止めがかかる。
クルミドコーヒーは、見事に贈与の仕組みをシステムに組み込んだ実例である。

贈与は、宛先から逆向きに差出人にも与えられる。
それは等価なものではなく、全く質の異なるものだ。
その大小は受取人(メッセンジャー)の使命感によって生まれる。
贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与えるのだ。

人が生まれてきた意味は、与えることによって与えられる。
親は子を養育する、つまり子に与えることで、愛情・癒しなど様々なものを与えられてもいた。
だから、実は贈与は与え合うものではなく、受け取り合うものなのだ。

「生きる意味」や「仕事のやりがい」も、自身が受け取ってそれを伝えるメッセンジャーになることで贈与の宛先から逆向きに与えられる。
あくまでも、偶然届いた誤配の自覚から始まる贈与の結果として、宛先から逆向きに「仕事のやりがい」や「生きる意味」が偶然返ってくるものなのだ。

つまり、それらは目的ではなく結果なのである。
あくまでも目的は、受け取った贈与のパスをつなぐ使命を果たすことなのだ。

では、私たちはどうしたら贈与に気づくことができるだろうか?
それを実行できる極めてシンプルな方法が「勉強」である。
勉強して、「常識」を身につけなければアノマリーに気づくことができなかった。
歴史を学び、もしその世界に自分が生まれた落ちていたらと意識的に考えるようにすること。
世界の壊れやすさ、この文明の偶然性に気づくために、僕らは歴史を学ぶのだ。

「私はこれを不当に受け取ってしまった」と宣言できる主体の存在が、贈与という言語ゲームを始めることができる。

私たちは、先人から多くのものを受け取って今の生活、自分の生命を生きることができている。

その贈与を次の世代に受け渡すこと。それが現代を生きる私たちに課せられた無言のメッセージである。
時代性、地域性を超えて私たちはこれまでに多くのものをもらっている。

私たちの世界は贈与でできているのだ。

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