つぶやき日記−6 「今時の還暦ってこんな感じ?」
気が付いたら60歳を超えていた。
ということで、ちょっと自分自身を振り返ってみた。
まだまだ25歳を少し過ぎたくらい
だと思っていたのに。
こんなに長く生かしてもらっていたなんて。
道理で最近、
物がよく見えないし、聞き違いも増えた。
60年も使ってきた耳や目は、
よく頑張ってくれているが、
25歳のものと同じ性能を期待するのは
無理というものであろう。
以前なら、6桁の数字を一発で覚えて、
軽く20分は保持していられたのに、
今は電話を切った途端に、
さて、会うのは水曜日の10時と言ったか
10時半と言ったか、
思い出せない。
なんとも不便。
最近ではなんでも自己責任で、
自分でスマホのアプリを開いて
セキュリティチェックを乗り越えて
用事を足さなければならない。
それなのに、
ワンタイムパスワ—ドに送られてくる
六桁の数字を一気に覚えられない。
しかも小さなスマホの画面の片隅に
一瞬出てくるのを、
見逃さずに暗記、
などという離れ技をできないときは、
一旦使っているアプリを閉じて、
パスワ—ドが送られてきたアプリを開いて
数字を確認し、
下手をすると、それを何処かに書き写して、
それを見ながら
元のアプリを開いて入力しなければならず、
六桁の数字を
数分でも正確に覚えていられる機能を失った
私の脳では大変難儀だ。
小さな画面と睨めっこしながら、
人々は送金や支払い、
身分証明のアップロ—ドなど、
けっこう責任ある業務に従事しているのである。
が、はたから見ると、
スマホでゲ—ムをしているのも
チャットを読んでいるのも
同じにみえるかもしれない。
職場とプライベ—ト時間に垣根がなくなり、
なんとも便利すぎて
不便な世の中に暮らしている。
若い世代はこういうことを、
サクサクと簡単にやっているのだろう。
彼らはそんなふうに育ってきたし、
脳の拡張機能として
スマホやPCを使いこなせてこその
生活をしている。
時代の逆風も強い。
60歳なんて、
会社勤めしていたら定年だとか言われるくせに、
じゃあ、老人として親切に社会から扱ってもらえるのか
といえば、
まだまだ働いて、
IT知識も身につけて、
投資も考えましょう、
なんて言われる。
変に複雑化させている年金の計算だって、
一苦労だ。
税金にせよ、年金にせよ、
この国のやり方は、
大手企業のサラリーマンという
国にとって計算しやすい大枠組みに
入っていない限り
大変面倒な仕組みとなっている。
細々とケチをつけては、
自己責任で乗り越えようとしている人たちに、
労力と時間をかけさせて、
自分の生活に集中できない仕組みだ。
もっと能力を発揮するために時間を取りたいのに、
それを阻む
基礎的な作業の膨大化。
その個人個人への押し付け。
もちろん、大手企業のサラリーマンだって、
定年後放り出されれば、
もう人事部のお手伝いも受けられないし
秘書が何かを用意してくれるわけではない。
落差の激しさは
むしろきついものかもしれない。
目線を変えて、
はたから見ると、
私は何歳ぐらいに見えるのだろう。
白髪を染めて、
老眼をコンタクトレンズで矯正し、
外出時にはマスクで顔を半分隠しているから、
四十歳以上の人間を、全て
「年上の年配者」と括って見ている若者からは、
それが
四十代でまだ機能が衰えていない人たちなのか、
還暦を過ぎて難儀している人間なのか、
多分わかるまい。
私も若い頃はそうだった。
歳をとっているということが
見かけのシワやシミの増加以外、
どのように影響しているのか、
想像できなかった。
三十歳の頃は、
送金のためにいちいち銀行に出かけて、
雑誌など見ながら順番待ちをし、
窓口の行員に指示をしながら手続きするのが、
時間の無駄に見えてイライラした。
海外滞在の多かった人生だが、
国が変わるたびにネットが繋がらなくなったり、
その国ごとの携帯電話に
持ち替えたりしなければならないのが
わずらわしかった。
早く一台のPCかスマホで
世界中どこでも用事が足せるようになればいいのに、
と、思っていた。
そう願った人がたくさんいたから、
その思いが結実して、
現在このような世界になっていると思われる。
ローミングでもE -SIMでも、
使う技術に選択肢があるにせよ、
一台のスマホで、
ほぼPCと同じ機能を
世界中の大抵のところで享受できる。
喜ばしい面もあるが、
ITの革新を願っていた若かりし頃は、
使うがわの機能が衰えることを
考慮に入れていなかったのだ。
しまった。
三十歳の時と同じ能力で
還暦を越せると思っていたのは、迂闊だった。
現在アラカンと呼ばれる60歳前後の人間は、
つまり1960年以降の生まれ
ということである。
小学生の頃に
「戦争を知らない子ども」と呼ばれ、
中学の頃には
オイルショックで
トイレットペーパーを調達するため、
親の買い物に頭数を揃えるために駆り出され、
その後は
不動産バブルなるものが始まって、
庭付きの一軒家に住んでいる娘は
お嬢様ともてはやされ、
バブル最盛期の六本木で
終電を逃してタクシー待ちの列で深夜を過ごし、
就職すると新人類と呼ばれ、
日本はアメリカに追いつき追い越す勢いだ
と浮かれて生活していたら、
突然バブルが崩壊したと言われ、
銀行員から
ノルマ達成のためにお金を借りてくれ
と泣きを入れられたのを受け入れ、
その代償に
欲しくもない株を大量に買ったことにされていた両親は、一夜にして貧乏人になり、
親の肩代わりで借金を返済などして
生きてきたのが私たちの世代である。
こう考えると、
色々な経験をしているわけで、
やっぱり25歳のわけがない。
長寿大国と言われるようになった日本で、
90歳まで自己責任で生きるように啓蒙され、
老後資金が2000万円なければ足りないと、
暗にその金額を貯めておくよう
プレッシャーをかけられている。
では、
今時のアラカンに求められているのは
なんなのだろうか。
まず確かなのは、
学び続けなければならないということである。
定年退職などというものをする人は減り、
老後は悠々自適などというものが
姿を消した。
スマホやPC相手に年齢は関係ない。
使いこなせたものが勝者だ。
日々是学習である。
スマホから収益を上げる設定ができれば、
本当の意味で悠々自適になれるかもしれない。
そしてもう一つ、
健康でなければならない。
機能が落ちてくる目や耳のメンテナンスに
時間とお金をかけるのは当然。
自由に動き回れる足腰を維持しなければ
残りの三十年、楽しくない。
友人のあきちゃんは、
「5000万円持ってて大病してるより、
1000万円しかなくても健康な方が、ずっと金持ち。
健康はね、投資なのよ。リターンがあるの」
と説得してくる。
足腰がしっかりしていても、
肝心の脳が今以上に劣化したらどうしよう。
きのう学んだアプリを、
今日も学び直すなどということが
永遠に続くんだろうか。
だったら人生を終わらせる方がいいかも。
と、弱気の私に、
あきちゃんは、こうもいう。
「あのね、
自殺しようとビルの屋上に行くでしょ。
そしたらいつものアレが始まるのよ。
『あれ、何しにここに来たんだっけ』
だから、心配する必要ないわよ」
そうなのである。
つまり三つ目に大事なのは
あきちゃんみたいな
友達ネットワ—クを持つこと。
・日々是れ学習
・健康な体
・友達ネットワーク
この3点セットで、
なんとか還暦を乗り越えて
卒寿につなげていかなければならない。
のだろうなあ。