見出し画像

30代からの転職迷走記~失敗の先に見つけた自分らしい働き方

先日、友人の運営する古民家スペースで「キャリアのもやもや座談会」があり、20代~40代の6人でお話しをしたことをきっかけにこのnoteを書き始めました。

このnoteは20代~30代前半にかけて経験した仕事と家庭の両立の悩み、会社員からフリーランスへの別の働きかたを目指していく段階の葛藤など、ここ5年くらいの間に経験したことを元に書いています。

なぜ失敗談も含めて書こうと思ったかと言うと「自分の悩みは誰かの悩みであるかもしれない」と思ったから。

私自身、先日の座談会や他のイベントなどでいろいろな方のお話を聞いて、気づきを得たり、勇気づけられたりしたことがありました。
そうした経験から、20代~30代前半に感じた悩みや迷いも含めて改めて書いてみようかなと思いました。

現在はフリーランス(ライター・企画)と(週の半分は派遣社員をしながら)うつわのオンラインショップを立ち上げて複業の働きかたにチャレンジしています。
(これについてはまた別記事で)

同じようにもやもやを感じながら働いている方や、自分らしい働きかたを模索している方にも読んでいただけたらうれしいです。

「キャリアのもやもや座談会」

主催者は現在キャリアブレイクをしながらフリーランスとしての活動もしているはるさん
私ははるさんと一緒に大ナゴヤ大学(ナゴヤをフィールドに学びの場などをつくるNPO法人)で活動しているご縁もあり、企画から関わらせてもらった。

集まったメンバーからは「会社を辞めるつもりはないがこれからどうするか悩む」とか「これからフリーランスとしてどうやっていこう」などそれぞれのもやもやが。
結論を出すためではなくお互いの話をしながらちょっと肩の力を抜こうという場で、立場は違ってもそれぞれの悩みへの向き合い方に共感を覚える場面が多かった。

はるさんが淹れてくれるほうじ茶やおいしい和菓子を食べながら、ちゃぶ台を囲んでお話しした2時間はあっという間だった。

キャリアのもやもや座談会を経て「自分のこれまでの失敗の数々は、もしかしたら全部いまに繋がっているのかなあ」といつの間にか自然と受け入れていることに気がついた。

転職迷走期を経て「自分は1つのことが続かない忍耐力のない人間だ」とコンプレックスを抱えていたけれど(それはそれとして)結果的にそのときの経験がいまの自分を助けてくれているのも事実だったりする。

キャリア迷子だったかつての自分を見つめ、振り返りをしながら未来を考えるために、痛みをともなう部分も包み隠さずに書いてみることにした。

転職迷走期を経て向かう先は

真に受けてやってみる

28歳。名古屋に帰ってきたのは、仕事がなくなってしまったという不可抗力からだった。

好きだった仕事を手放すのはこれが2回目。

それまでギャラリーで働いていたので、名古屋ですぐに求人が見つかるような職種でもなく、さてどうしたものか…と考えていると、友人に「ライターになったらいいんじゃない?」と言われ、真に受けた私は当時広がり始めていた「WEBライター」という仕事について調べ、さっそくライター講座やインターンへと飛び込んだ。

右も左もわからない状態からはじまり、テクニカルなことから、ポートフォリオの作り方まで、先輩ライターの方々に教えてもらい、全く知らない業界のことを吸収する。
WordPressの入稿からGoogleドライブの扱い方に至るまで、そのときに教えてもらったことの数々は今の業務にもかなり役立っていて、各方面に足を向けては寝られない。

インターンと同時期にIT会社でライターのアルバイトを始め、ネットで情報にあたり、コピーコンテンツにならないように再編集して記事を作る日々。自社メディアのSEO記事をひたすら制作して半年で部署トップの生産性を維持できるようにはなった。

構成に合わせて作る機械的な手だけは早くなったけれど「何のために」「誰のために」記事を書いているのかは全く見えてこない。
(おまけに昇給の評価基準を満たしても、評価基準の方がどんどん変わっていって昇給する気配もない)

もともと、惰性で仕事をするのは好きではなかったけれど、アルバイトという立場上、上流の工程に携わる機会はない。
いったい、ここに居続けてどんな未来があるんだろう?と次第に悩み始める。

書くことを広げる

「この先、書くことでもっと方向性を広げていきたい」と考えた末、中小企業の広報・WEBプランナーに転職したのは、30歳の誕生日を迎える数日前のこと。

私にとって、30代のはじまりは転職迷走期のはじまりでもあった。
そして「いずれ産休を取るかもしれない」というコントロールしきれない事柄とキャリアの両立に頭を悩ませた時期でもあった。

既婚・20代終わりでの転職活動はいろいろとハードルが高い。
この先お子さんを持つ予定はありますか?
世の中的には聞いてはいけないとされている質問をよく耳にしたのは、まだコンプラ違反がそれほど声高に叫ばれていなかったからだろうか…?

入社直後にも、女性役員から面と向かって「3年は産休を取らないでね」と言われたこともあり「いろいろ考えることありすぎて難しい~~~」と思ったり、子育て中の女性にこんなことを言われるなんて…となんとも言えない気持ちになったりもした。
(新卒で入った会社の社長にも「うちは結婚したら女性は辞める会社だから」と言われてすぐに退職したことが頭をよぎった)

とはいえ、SEO記事を1年間ひたすら書いていたというだけなのに、部署立ち上げ第1号の正社員になってしまったのである。いま思えばいろいろとおそろしいけれど、まずは仕事をなんとかしていくしかない

その後、ITに詳しい同僚もできてオウンドメディアのディレクションや編集をしたり、見よう見まねでアナリティクスを分析したり、企業公式SNSの中の人をやったりしながら働いていたとき、世の中にコロナが蔓延しはじめた。

同時に、入社時に感じた違和感は次第に現実のものとなっていった。

同じ作業をしているのに「女性だから」「男性だから」という理由で評価が変わり、社員全員のパソコンはいつも社長に監視されている(なぜ?)。テレワークを導入しようものなら、数時間おきに電話がかかってくる始末。

救いだったのは、他の男性社員もこの在り方に一緒に異を唱えていたことだったけれど「女性にしては珍しくバイタリティーがありますね」という面接時の社長の言葉で早く気付くべきだった、と思うほどには経営者のジェンダーバイアスが強くかかった職場だった。

小さくはじめるための助走

違和感を感じながらも淡々と働いていたとき、ふと、長年心の奥底にしまいこんでいた「うつわに関わる仕事がしたい」という気持ちが首をもたげてきた。

とはいえ、私が焼き物を作れるわけでも、家業が窯元なわけでもない。お店をつくるお金も人脈もなにもない。
ギャラリーの仕事を離れたあとは、そっとしまいこまれてすっかり忘れていた気持ちだった。

でも、やりたいことはいつの間にか心の中で芽を出し始めていた。
そうだ、小さくはじめる形を見つければいいのでは?

↓当時書いた記事がこちら

お金も人脈も知識もなにもない状態で「やりたいことを仕事にしたい」だなんてあまりにも無謀すぎる

でも、私はやりたいことが見つかってしまったら「何が足りなくて、どうやったらできるようになるのか?」への興味が尽きなくなってしまう性分。

ひとまず、仕事は続けながら「文章を書くこと」以外のスキルを増やそうと思い至り、WEBデザインのスクールに通いながら勉強を進めた。とにかく足らないことだらけだ。

インターン時代にスキルの掛け算という考え方に触れていた。
ライターであれば、画像編集やWEBデザイン、マーケティングなど親和性の高い別のスキルと組み合わせてマルチに活躍している人も多い。
私には何が掛け算できるだろう?

面白い文章や惹きつけられる文章を書ける人はたくさんいる。
文章を書くのが好き(+SEOやコンテンツマーケティングに少し触れている)というだけでこの先もやっていけるとは到底思えないから、仕事にもすぐに生かせるWEB制作の基礎はおさえておこう、と考えた。

WEB制作を本業にしているわけではないけれど、ちょっとしたことは自分でできるし、外部の方に依頼するときに共通言語をもって話が進められるのでやっておいてよかったなと思う。

職場では社長の方針に反対する人々がどんどん辞めていき、驚異の離職率を叩き出す中、タイミングを見計らいながら粛々と勉強を続けた。

しばらく経った頃、雑貨メーカーのオンラインショップ運営の仕事と出会う。
これだ!と思い、仕事の合間にスクールに通いながら転職活動をして採用をもらい、無事に退職。
オンラインショップの運営に取り組む日々が始まる。

転職するとまた産休・育休問題がふりだしに戻るので迷いもあった。でも、やらずに後悔したくない気持ちが大きくなり転職を決意。

予想通り、オンラインショップの仕事は商品紹介やブログ、メルマガなど書く機会にあふれた仕事だった。
さらには商品撮影、画像編集、コーディングなどなど、学んだばかりの知識をフル活用して膨大なタスクをこなしていく。

窓から見る空

仕事の内容はわりと好きだった。けれど、私はその環境になじむことができなかった。
何か決定打があったわけではないけれど、人間関係のストレスが少なからずあったし、終わりの見えない「みんなで一緒にする」みなし残業は体力を蝕んでいく。

それでも、それが「社会人」というものだと思って耐えていた。
仕事だからつらくて当たり前で、お金をもらうということはそういうことだと。

唯一、トイレの小窓から見える空にほっとしながら、新しい環境に適応できない自分が心底嫌になっていった。

オフィスにはいつもZIP-FMが流れていた。
常にラジオと電話とミシンを踏む音が入り混じった環境に耐えられなくなっていくにつれ、耳鳴りと原因のわからない息苦しさを抱えながら出社するようになっていく。

そのときは自覚がなかったけれど、私はいろいろな音の情報が混ざっている環境が苦手な体質らしい、と後で気がついた。
ひとつひとつの音の意味を聞き取ろうとしすぎているのかもしれない。
(大型ショッピングモールなどの場所に行くと高確率でぐったりする)
現在の職場では耳栓をしながら仕事をしているので耳鳴りはしていない。

「人を幸せにするための商品を作る」という会社にいながら、毎日タスクのように夕食をつくり、家族とご飯を食べる時間をも「早く片づけたい」と思っていて楽しむ余裕もない。

一番身近にいる大切な人と顔を合わせられる1日の中の短い時間が「タスク化」して、負担にすら感じるようになっているのはどうしてだろう。
見知らぬ顧客を笑顔にする前に、私は、私の周りの人はちゃんと笑顔になれているのだろうか?

限界はあっけなくやってきた。
そして、私は望んで就いたはずの仕事を自分から辞めた。

せっかく頑張って転職活動をして、希望する仕事に就けたのに続けられなかったという挫折感と、もう出社しなくていいという安心感が、しばらく心の底に泥のように溜まり続けた。

五月の空と新緑だけがずっとあかるくて、少しずつ深呼吸の仕方を思い出していくような日が過ぎていく。

(最近読んだ「転職ばっかりうまくなる」が、まるであの頃の自分のようだなあと思ってかなり救われた。「この程度のことで辞めるなんて」と悩んでいる人にぜひおすすめしたい↓)

自分のペースで歩く

仕事を辞めてしばらく休んでいると、いつの間にか体の不調は消えていった。毎日悩まされていた吐き気も片頭痛も息苦しさもなくなっている。

積み重ねようとしたささやかなキャリアは白紙に戻ってしまった。
むしろ、転職回数と年齢だけを見ればマイナスだった。

周りを見渡せば、新卒から仕事を続けている友人はどんどん妊娠・出産、育児へと人生のフェーズを進めているように見える。

「頑張ればなんとかなる」とだけ考えてきたけれど、環境や健康は自分ではどうにもならないこともある。(いわんや出産をや)

時間と健康はお金では買えない」ということを深く咀嚼してみる。(でもお金もないと生活できない)

手に入らないものがある。どうにもならないことがたくさんある。
そんなことは、家族の健康問題や、自分自身の経験からこれまで嫌というほど実感してきたはずなのに、自分の体を壊してはじめて気づくなんてあまりにも遅すぎる。

そもそも、自分の手でどうにかできることなんてほんの一握りで、環境やご縁やチャンスは自分の意思の外側にある。
これからは、どうにもならないことともうまく共存して、自分のペースでやっていく方法を探していかなければいけない。

体調が戻ってからは、オンラインショップに役立ちそうなアルバイト(倉庫でアパレルECの発送やレンタルスペースの広報など)をしながら、原点に立ち返ってフリーランスでのライターの活動を再開することにした。

まずは必要最低限のお金を得ながら、自分でうつわのお店を始める日に向けて、いろいろな人の活動やうつわや産地のことを改めて調べはじめる。自分のペースで歩くことを忘れずに。

環境を「変える」から「つくる」へ

ひとりのままでは難しい

私はあらゆることを知らなさすぎる。その感覚は常に持っている。
その気持ちを忘れてしまうと、新しいことを知れなくなってしまう気がするからだ。

まずは自分の目で見聞きするところから始めてみよう。
焼き物の産地に継続的に通おう」と考えて、名古屋から近い愛知県瀬戸市に通い始めた。
瀬戸に通い始めた理由はいくつかあるが、一番は私が好きな民藝とも関わりが深い土地だったからだ。

最初は本・ひとしずくさんで本棚を借りて「ひと箱店主」の活動をしていた。そこから、瀬戸の方々との出会いのきっかけができていく。

瀬戸に通い始めた約1年後、お客さんとして参加したオープンファクトリーでの出会いから瀬戸の地域プロジェクト「土街人」に参加。
地域で頑張る人を応援し、つながり、一緒に学ぶ場をつくっている。
運営に関わりながら、私もまだまだ知らない瀬戸のことをたくさん学ばせてもらっている。

顔が見える関係性を築く

土街人が始まる少し前、クリエイターが集まる交流会に参加したことがあった。

自分の代名詞となる作品や活動を生き生きと語る人たちからたくさんの刺激を受け「ライターです」と名乗りながらも、私は内心焦っていた。

細々とはいえライターをしていたけれど、代名詞と呼べる作品も実績もない
当時お仕事をいただいていたのは、全く顔の見えないネット越しのクライアントからで、そのほとんどが無記名記事だった。

先行き不透明なまま、自分の実績を増やせないやり方を続けていくだけではいずれ早い段階で行き詰まる。
他のクリエイターの自己紹介を聞きながらそう直感し、これまでのやり方を変えよう、と決意する。

具体的には、顔が見える関係性の方からお仕事をいただけるようになろう、と決めた。
そして、単発的な関係性ではなく、細くとも長くお付き合いできるご縁を大切にしていくこと。
自分がどこに軸足を置いているか(物理的にも分野的にも)周りの人に知ってもらい、仕事へとつなげていくことを目標に定めた。

まずは自分でうつわのメディアを立ち上げ「うつわの伝え手」としての活動を小さく始めた。
(最近は更新できていないけれどリニューアルして再開する予定)

インプットに勤しむばかりではなく、アウトプットしてもっと自分の活動を伝えていかなければいけない。
「自分の活動」として伝えられる実績がない以上、自分でサイトを立ち上げて記事を書くことで、ライターとしてのポートフォリオを少しでも充実できるのではないかという考えもあった。

ちょうど同時期、コロナ禍前に少しだけ関わりがあった大ナゴヤ大学でまち歩き企画のコーディネートの仕事を始めた。
大ナゴヤ大学は名古屋+近郊地域をフィールドに学びの場づくりをしているNPO団体。まち歩き以外にもいろいろな面白い活動をしている人がそれぞれのペースで主体的に関わっている。

一見、ライターとは全然違うことをしているようだけれど、企画の仕事でも告知文などを書く場面は多い。
そして、何より仕事を通じてたくさんの人に会い、知らない世界のことを聞くことができる
そうして知ったことが新しい興味に繋がり、新たな場所に行って、また知らない世界の種を拾って帰ってくる。

初めての仕事の連続は緊張することも多かったけれど、とにかく主体的に楽しむことが、回りまわって新たな出会いをもたらしてくれるのだ、と体感した1年間だった。
(不慣れな面をサポートしてくれた周りの人には感謝しかない)

主体的に巻き込まれる

顔が見える関係性を築く」という方向に舵を切ったことで、一人ではできないことが次第に形になりつつある。
何のために」「何をしているのか」を周りの人に伝えられるよう、チャンスが来る日に備えて日頃から整理をしておくことが大切なのだと改めて感じている。

とにかくフットワークを軽くしてみよう、ちょっとしんどいかもというところまで動いて自分の限界を確かめてみようという気持ちで、期間を決めて使える時間とお金を体験やインプットにつぎ込むことにしたこの1年。

自信をもって「できる」といえる範囲をちょっと無理やり超えてみると、予想通り、以前よりも自分の気持ちにゆとりを持ってさまざまな事柄に向き合えるようになってきた。
同じ状況でも以前は心に余裕がなかったことが「まあなんとかなりそう」という感覚がつかみやすくなっている。

副産物として、それまでよりも自分に合ったスケジュールとタスク管理の方法も身に付けた。

巻き込まれる」というのは受け身なようでいて、実は主体的な行動の先にある。
誰かからお声がけいただくには、文章で発信するなり、イベントに出るなり、人に会いにいくなり、自分で外に出て知ってもらう必要があるからだ。

最近では多くの人にお会いしたことがご縁となってライターとしてのお仕事をいただいたり、プロジェクトに巻き込んでもらったりしている。(ありがとうございます!)

かなり遠回りをしたけれど、いまは「この先に何があるだろう」という楽しみを感じながら仕事に向き合っていて、そのことをしみじみうれしく感じている。
もし、順調にここまできたら「楽しい」だけの感情だったかもしれないけれど、好きな仕事がなくなってしまったり、職場が合わなくて体調を崩したりした苦い経験があるから、心底ありがたい。

アフリカに
早く行きたければ一人で行け、遠くへ行きたければみんなで行け
(If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.)
という有名なことわざがある。

最近はそれをひしひしと実感しながら、ライターとうつわのお店を軌道に乗せるために動きはじめたところ。
(うつわの方も水面下でいろいろ進行中)

以前、こんな言葉をかけてもらったことがある。
「(あなたが)やりたいことをやるなら、自分で仕事をつくっていくしかないね」と。

これまで働く環境は何度も変えてきたけれど、これからは自分でつくるしかない。安定と正解のないところへ飛び込み、きっとたくさん失敗もする。

正直、こわいと感じることが全くないわけではない。
でも、それと同じくらい、いや、それ以上にわくわくする気持ちが勝ってしまっている。

この先に何があるだろう」「実現するために何が足りなくて、どうしたらいいだろう?」という気持ちが満ちてしまったいま、小さくはじめて壁に突進しながら、ときに大きく迂回もして、少しずつ行きたい方向に向かっていくしかないのだろうと思う。

最後に。
わたしが安心して思う存分失敗できているのは、家族をはじめ、周りの方々のおかげにほかならない。
いつも味方がいるという安心感がなければ、無鉄砲にチャレンジすることはできなかった。

これから少しずつできることを増やして、いつも支えてくれる人たちのために還元できるものを増やしていきたい。


読んでくださったあなたへ。
長文に最後までお付き合いいただきありがとうございました!
上手くいかなかったことを書くのは勇気がいりましたが、この記事から何か感じていただけていたらうれしいです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?