養老孟司『ヒトの壁』とか女性ゲーマーの炎上とか
年末友人と飲んだ際、「20歳→30歳の成長って、0歳→10歳、10歳→20歳のそれと比べてマジで乏しいよな」みたいな話で盛り上がった。おじさん臭い話題で飲むようになったものだなあ。
いざ30歳を迎える2022年が始まった。なんなら始まって50日あまりが過ぎた。この悠長さに直近10年の停滞が現れている気がしないでもない。
仕事のストレスはほどほどだし交友関係も概ね良好なので、日々の営みに大きな不満はないんだけれども、目的意識を持って好きで取り組むものが麻雀の他にもあって良いんじゃないかとたまに感じる。
なんて言ってはみたものの、生活体系を大きく変えるほどのエネルギーを割く気にはなれないし、畑違いのことをゼロから始める気にもなれない。このあたりの無精さにも直近10年の停滞が現れている気がする。
幸い学生時代から本を読む習慣だけは抜けていないので、このあたりをもう少し自分に還元できるよう磨いていくか、なんて思ったのが最近のこと。
元来私は頭の回転がスムーズな方ではなく、発話したり書き起こすプロセスで初めて考えが整理されていくタイプだと自覚がある。どうせ本を読むならアレコレ感想を書き残すことで少しでも乏しい頭が整理されてくれれば。
■養老孟司『ヒトの壁』
何か本を読もうと思った際に大事なのは、頭の良い人が書いた本を手に取ることだ。頭の良い人が書いた本を読むと、自分も頭が良くなった気がして心地良いので。←この文がすでに頭悪いことには触れるべからず。
著者の養老孟司氏は御年84歳。『バカの壁』と比べると、ある程度エッセイ色が強まっている印象を受けた。
無論そういうので良いんだよ。なんならそういうのが良い。印象論が良い。ある種の「到達した人」が今生きているこの社会や人をどう見ているのか覗いてみたくて読んでいるのだから。
この「あとがき」を書いているのは令和三(2021)年十一月初めで、拙著『バカの壁』が四百五十万部を超えたと知らされた。なぜ売れたかと考えるが、よくわからない。ただ最近になって思うのだが、それだけ多くの人が読んでくださるというのは、読者にあまり抵抗感がないのではないか。つまり内容が常識的なのだと思う。『バカの壁』の内容に関しては、強い批判もなく、あまり明確な感想を聞くこともなかった。ある先輩に「あんたの書くことくらいはだれでも考えているんだよ。ただ表現能力がないだけだ」といわれた。
養老孟司.ヒトの壁(新潮新書)「壁」シリーズ.新潮社.Kindle版.
もう1点大事なのは、凡人にもわかるように書いてあること。「みんなが言いたいけどモヤモヤして言語化できないことを整理したから、バカの壁は共感を集めて売れたのだろう」と本書のあとがきにも書かれている。
自分が『バカの壁』読んだのは確か10年くらい前。
・「知っている」と「わかっている」を混同するな
・「わかっていると思いこんでいるモノ」をもっと疑え
・人や社会は流動的なものだから考え方を一元的にするな、偏らせるな
といった警鐘が学問・政治・宗教・脳・言語・教育などの観点から実例に即して鳴らされていたのが『バカの壁』だったと記憶している。『バカの壁』の発刊から20年近く経ち、題材となる社会は変わっているものの『ヒトの壁』も似た構図を取る。
都市社会は予測と統御を原則としている。それはよくないんじゃないかと、繰り返し書いてきたが、その欠点がコロナという形で具体的に実現してみると、いくらなんでも結果が極端だなあと感じる。経済優先か感染防止かと日々議論されているが、要するに感染がいつどのように終わるかが、誰にもわからなくなった。極端な感染防止策をとれとか、感染防止をほぼ無視して経済を維持せよとか、理屈の上では極論を言うことは可能である。そうすれば頭の中は簡単になるが、実態は複雑になってしまう。ヒト自身が露呈してしまうからである。ヒトは単純な存在ではなく、かならずしも統御可能ではない。そんなヒトの一人、私自身は長らくワクチン待ちだった。高齢で基礎疾患があり、その意味では完全な重症者予備軍だから、ワクチンでも医療関係者と同様に優先されるはずである。実験台になってもいい。ワクチンに副反応があったとしても知ったことではない。コロナにならずともいずれ間もなく寿命である。コロナのために行動が規制されるほうが辛い。そう考え、家にこもってひたすらワクチン接種を待った。
「ああすれば、こうなる」はつまるところ、理性の世界、意識の世界、予測と統御の世界である。学校での生徒たちはその中で育つ。だから「ああすれば」に対して、「こうなる」と答えることを常に要求される。ところが世界は「こうなった」という結果の集積であって、そこでなにかが問われるとすれば、いったい「どうしようとしたのか?」と
養老孟司.ヒトの壁(新潮新書)「壁」シリーズ.新潮社.Kindle版.
高度な予測と統御の中にある日本社会は、確かに秩序や安全が得やすいかもしれない。しかしながらヒトや社会は移ろいゆくし、ウィルスも日々変異している。そうである以上、あらゆるものを予測と統御の領域に収めようとすればどこかの過程で歪みが生じるのではないか、と筆者は問う。その証左としてコロナを挙げるのは些か強烈すぎるかもしれないが。
良かれと思い希求した秩序・安全・健康・道徳も、その志向性が高まりすぎるとどこかで排除や対立を生む。
熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』は、そうした社会の不自由さ、息苦しさを個人主義、資本主義、道徳観、出産、都市設計に即して精神科医の立場からまとめた本で、『ヒトの壁』の問題提起と重なる構図が多く記されていたように記憶している。
正しさがアップデートされるからこそ、その社会には筋が通り、その社会は秩序のうちに統治されることになる。資本主義、個人主義、社会契約がこれほど発展し、国や地域によってむらはあるにせよ、進歩のグローバルスタンダードになり得たのもそのおかげだろうが、逆に言うと、それらの正しさに適ってさえいれば、なにごとも筋が通ってしまう、少なくとも簡単には否定も修正もできなくなってしまう。(中略)それでも私たちは、通念や習慣の奴隷になってはいけないし、現代社会のありようを当たり前だと思いすぎてはいけないのだと思う。法制度の枠組みを尊守し、空間設計に覆われながら暮らすことと、それらに盲従し、何も考えなくなることはイコールではない。
熊代亨.健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて.イーストプレス
著者の熊代亨氏が運営するブログ、『シロクマの屑籠』は毎度毎度刺さるエントリが多く、自分も長らく愛読している。「そうかもしれないけど、そうじゃねえんだよなあ~」みたいなことを、整理して言語化してくれるので有難い(語彙不足)。こちらも興味のある方は是非のぞいてみて欲しい。
■現代人と対人偏向
また養老氏は、現代人は対人関係を豊かにする志向性が高まりすぎていないかと疑問を投げる。
今は人間関係ばかり。相手の顔色をうかがい過ぎていないか。たかがヒトの分際で調和をはかろうとしすぎていないか。(中略)子どもたちの理想の職業がユーチューバーだというのは、対人偏向を示していないか。なにか他人が気に入るものを提供しようとする、対人の最たるものであろう。人が人のことにだけ集中する。これはほとんど社会の自家中毒というべきではないか。人ばかり相手にしていると、私はなんぞ疲れてくる。
養老孟司.ヒトの壁(新潮新書)「壁」シリーズ.新潮社.Kindle版.
話は逸れるが、著名な女性プロゲーマーが動画配信中に「身長170cmない男は人権ない」などと発言し所属先のスポンサーに契約を解除されるニュースが最近あった。どうやらウーバーイーツの配達員に交友目的で連絡先を尋ねられ、その配達員を忌避する文脈での発言らしい。
一発アウトってことは今回の件に限らずスポンサーにとってリスクに映る言動があったのかもしれないし、そもそも発言内容が普通にアホなので擁護する気はさらさらない。ただ一方でネット上の反応が過敏で少々怖くなるような心持ちも確かにした。
今回の件って、「恋愛対象にならない」を「人権がない」というアホな言い回しで表現してしまったものなんじゃないか、と推察する。
繰り返す通り言い回しは普通にアホなんだけど、この女性ゲーマーも「身長170cm未満の男性に人権が付与されていない」と真剣に考えているほどアホではないと思うんだよね。
私も育ちが良い方ではないので、「飲み会の1杯めビールじゃない奴には人権ないでしょ 笑」みたいなことを平気で口走ったことがあるかもしれない。
主語をデカくする婉曲表現って時に面白かったりするのよ。真剣にそう思っている訳ないんだけど、若者特有の誇張表現をすることなんてよくあるじゃない。
「横浜住みの奴って、神奈川1東京4みたいな面子の時でも横浜で飲み会開こうとするよね」みたいな 笑。
要は今回の件も受け手の解釈次第でスルーできる程度の発言だと思うから、叩ける案件が生じたときだけ文脈を無視した言葉通りの解釈だけをして、敵意をむき出しにする人間が多いことには些か辟易してしまった。
あともう一つ思ったのは、自身の攻撃が正当性を帯びるシーンって一方で規範意識が脆くなりがちだからマジで自分も気を付けないといけない、ということ。
今回の件で言えば、ウーバーの配達員が連絡先を聞くなんて大概ご法度で、ましてや配達員は住所まで知り得ているんだから顧客が一定の敵意を抱いて、自衛策を設けるのは当たり前すぎるシーンなんだよね。
ただそういった自衛策も間違った取り方を、即ち規範意識を欠いた取り方をすると別の攻撃対象となってしまう訳で、思うに今回はそういった不幸な巡り合わせの中でゲーマーが手痛いミスを犯したような構図に映る。
で、それを受けて失言を叩く聴衆もかくのごとく気を付けないとならない。
いくら「人権がない」などとアホな発言をしてしまったからと言って、同じ構図でゲーマーの身体特徴を直接侮辱したり、人格攻撃をしたり、ましてや身体の危険を仄めかすな発信が正当性を帯びるわけではないとよく肝に銘じたほうが良い(自戒)。
こうした事例もある意味では秩序志向と対人志向の高まりがミックスして発現した現代の問題点であるように感じた。
感じたで終わりにしないように。みんな気をつけよう、マジで。
ここまで書いて何が自分に還元されたか
冒頭述べた通り、考えてみる。
今回のエントリを書く中で得た大切なもの2点!
・わかったつもりにならずよく考えねえとなあ→2日後には考えてない
・SNS等の発信では言葉に気を付けねえとなあ→3日後には気を付けてない
以上!!
薄い。
まあ文章の難しいところは総じて結びである。結びは薄いがアレコレ書く過程でなんか頭は動いてくれただろう。
とりあえす本エントリを読んで啓発された方は素敵な読書ライフを!笑
時間の無駄だったと感じた人にはお詫び申し上げます。すみません!!