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佐藤雫『行成想歌』
清々しい小説
清々しい小説に出会った。
佐藤雫・著『行成想歌』(光文社、2024年)
年末に購入して、正月準備の合間に少しずつ目を通した。
電車の中でページをめくっているうち、いくつかの描写にぐっと来て、目元がうるみかけた。
大晦日もお正月も、繰り返し読み込んだ。
そう、私はこういう文章を読みたかった。
桜が人になったなら
本作の主人公は藤原行成である。
986年春。15歳の行成は母方の祖父・源保光に連れられて内裏に出向き、初めて帝(花山天皇)に拝謁する。謁見が終わり、内裏を歩いていると「桜が人になったような」少女と出会う。
その少女の正体は…読んでのお楽しみ、としたい。
それから9年過ぎた995年秋。24歳になった行成は20歳の妻・源泰清の娘(名前は公式に記録されていないが、本作ではオリジナルの名がつけられている)、2歳の長子・薬助丸とささやかに暮らしていた。後ろ盾となる人を全て亡くした行成は今後出世の目がなく、心優しい妻と共に藤原の傍流として穏やかに生涯を全うするものと思っていた。が、秋の除目で蔵人頭に任じられる。前任者源俊賢の推挙によるもので、行成にとって過分な出世だが、素直に喜べる状況ではない。関白藤原道隆が亡くなり、内大臣藤原伊周と右大臣藤原道長が事あるごとにいがみ合う、ギスギスした雰囲気が漂う中での就任だからである。
行成は、蔵人頭の初仕事として帝に文書を奏上する。帝の名は懐仁。9年前、花山天皇の突然の退位に伴い、7歳で即位した。この時16歳、まだ少年と言える年頃だった。
そこから物語が動き出す。桜が人になったような少女とも、思いがけない形で再会する。少女は、幼い頃一度だけ会った行成のことを覚えていた。
…ほとんど、答えを言っているようなものか。
主君と臣下は似た者どうし
藤原行成は書字が美しく、「三蹟」のひとりに数えられている。また一条朝で帝の側近として連日激務をこなし、それを日記に詳しく記録したことから「平安時代の中間管理職」として評価する見方も多い。
しかしながら、本作主人公の行成は「書字と優しく誠実なふるまいしか取り柄のない、不器用な男性貴族」として描かれている。人前に出るとすぐ緊張が走り、腹を痛める。困難な事案に直面すると眉根に皺を寄せる癖がある。詠歌は苦手で、下手と自覚している。もちろん体格に勝り男臭さを誇るタイプでもなければ、自分に絶対の自信を持ってふるまう”押しが強い”タイプでもない。妻以外の女性と、まともに話したこともない。恋人と歌を詠み交わしたり、何人もの女性と交際したり…などは別世界の話。要するに当時の男性貴族に求められる仕事以外の資質に対してコンプレックスを抱える人物である。そんな行成が「想う歌」は、最後に明かされる。
対して帝、懐仁親王は”孤独な少年”として描かれている。幼い頃は母の皇太后・藤原詮子にべったりだったが、成長すると、自分にかしずく大人たちは周囲にたくさんいても、同年代の友人などは全くいないという現実に直面する。それでも帝として誠心誠意振る舞おうと努力を重ねるが、母をはじめ周囲の重い期待から心理的に逃れられない。ただひとり…中宮のみが、帝に優しく明るく接してくれる。帝は中宮だけに心を許し、喜びや悲しみを分かち合う。やがてお互いに惹かれあっていく。
帝にとって、行成の蔵人頭就任は嬉しいできごとだった。帝は行成に、自分とよく似た”人格の匂い”をかぎ取っていた。
帝は行成に夕餉の陪膳を命じて召し出すと、恐縮しきりの行成の心をゆっくり丁寧にほぐしていく。心理的な飢餓に苦しんでいる人は、自分を救ってくれるかもしれない人に出会うと、つい焦って行動してしまいがちだが、帝はその気持ちもコントロールできる人である。
蔵人頭藤原行成という強い味方を得て、帝の視界が開けたと思った矢先、とんでもない事件が発生する。心優しい二人にとって、新たないばら道の出現だった。
あの話も、この話も
本作では『枕草子』に記されているエピソードが多数織り込まれている。伊周が帝に献上した料紙を見た清少納言が「枕にしたい」と言った話、「声明王の眠りを驚かす」の話、里下がりしている清少納言に「言はで思ふぞ」としたためた山吹の花びらが届けられた話、「夜をこめて」の和歌の話…。映像で見たかった場面が現れるたび、こってりした料理に疲れた胃や渇いた喉に、爽やかなハーブティーが沁みとおるような心地がした。
本作は、静謐な筆致で書かれている。文章のひとつひとつに品がある。その中にちりばめられている『枕草子』のエピソードは、この上なく美しい。帝にとって最後の家族団欒の機会となった「一条院の裏をば、今内裏とぞ言ふ」の段で描かれている話を読むと、私の目頭はうっすらと熱くなった。
命婦のおとども、催馬楽の『高砂』も、ここで持ってくるのか!というタイミングで登場する。とりわけ後者は本作の核心をなすアイテムとなっている。一方、犬の翁丸など帝にとってマイナスイメージとなりかねない話は削られている。
『枕草子』の原典には、時系列という概念が存在しない。文字通り思いつくままに書かれている。後世を生きる読者がいきなり目を通しても古文の羅列にしか見えないが、時系列順に章段を並び替えると、記述の解像度が格段に上がる。著者は小説という手法の利点を最大限に活用している。巻末に掲載されている「主要参考文献」には挙げられていないが、赤間恵都子さんの著書『歴史読み枕草子』(2013年、三省堂)に掲載されている清涼殿図・内裏図・大内裏図・平安京条坊図が、本作の背景描写記述の理解に大いに役立った。
『枕草子』研究者の間で謎とされているいくつかの記述や、中宮が落飾した真意についても、作中で言及されている。著者は物語を進めていきながら、その解釈を示していく。「雪山の賭け」の話は、清少納言が賭けに勝ち、そのまま女房仲間で天狗にならないように中宮が配慮した…という、小迎裕美子さんのマンガ『本日もいとをかし!枕草子』(2023年、KADOKAWA)にも描かれている一般的解釈とはまた異なる見解をもって、物語に織り込まれている。
『枕草子』以外の書物に記されている平安貴族エピソードもいくつか登場する。史実的には疑問符がつけられているものでも、有名な話はそのまま採用されている。行成が内裏で藤原実方に殴られて、冠を落とされた話や、藤原詮子が息子である帝の寝所にまで押しかけて「伊周ではなく、道長を関白にするように」と泣き落とした話など。行成にとっては苦い思い出となっている前者のエピソードも、本作の物語が始まる契機として使われていて、著者の巧みな筆運びに感心させられる。
『枕草子』の冒頭段は物語に登場させていないが、秋は夕暮れ、冬はつとめてに相当する描写は織り込まれている。その細やかな文章は原典にもひけを取らない。帝は「白い雪」のイメージ。中宮が入内して間もない頃、二人で手を取り合いながら眺めた早朝の雪景色を大切な思い出としている。私は俵万智さんの短歌
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
を、何十年ぶりかに思い出した。
清少納言が気の向くままに書き始めた動機にも、もちろん言及されている。詳細は読んでのお楽しみとするが、私はあの歌を思い浮かべた。
今はこんなに悲しくて
涙も枯れ果てて…
当時「物語」は『竹取物語』『うつほ物語』をはじめ、既にいくつかの作品が執筆されていた。『枕草子』でも言及されている。一方「随筆」は、まだその概念がなかった。清少納言のブレークスルー的発想が、本作でさりげなく語られている。
如何に君を敬うか
本作のメインテーマは「ひとりの人を誠実に愛し、お互い想い合うことの尊さ」である。政を進めていくため、愛情の向かない女御の相手をしなければならない帝は、ただひとりの妻を愛する暮らしができる行成の境遇を、しばしば羨む。
もうひとつ本書が世に問うテーマとして、「敬うとは何か」があげられる。本作では藤原道長の腹黒さ、陰険さ、それによる嫌がらせ行為もしっかりと描かれている。行成を土御門殿に呼びつけて皇太后と対面させ、まだ幼いわが娘をいずれ入内させたいという野望を語り、行成を絶句させる。
しかし、著者は道長を単なる敵役として扱っていない。彼なりの大義と信念に基づいて、冷徹な姿勢を取る人として描いている。ドラマ『太平記』の長崎円喜に近い考え方の持ち主である。
道長の信念は、「帝には、あくまで国の長として立派になられてほしい。そう導くのが敬うということ。」である。その陰には姉の皇太后が若い頃主上(円融天皇)に愛されず、その寵愛を受けて中宮になった藤原遵子に対して燃やした嫉妬心がいまだくすぶっているのだが。
道長は、まだ若い帝が「きちんとした君主らしくなること」に期待をかけている。それを裏返せば、帝がある程度の年齢になってもそうならなければ、交替していただくことも辞さない、というスタンスでもある。
そのような、人の心など、後の世の者には何も伝わらぬ。(中略)後の世に残らぬことに、こだわる必要があるか?
対して行成は、日々帝に接してその人となりを理解しているがゆえに、「帝とて、ひとりの青年であらせられる。幼い頃からの孤独な境遇に、よく耐えていらっしゃる。そのお望みになるものをでき得る限り尊重して、初めて敬うという行為が成立する。」と考えている。今この目の前にいる帝が、唯一の心のよすがさえ奪われかねない状況に苦しんでいることを看過できない。
このくだりを読んでいて、私は高師直を思い出した。奇しくも、柄本佑さんのお父上がかつて演じた役柄である。高師直は「国王がいなくては叶わない道理があるというのならば、木か金の像を作ってそれを崇め、生きている国王や院は皆どこかへ流し捨て奉ってもよいのではないか」という意味合いのことを言い放ったという伝説がある。これは師直と対立していた人たちが発信したデマゴーグで、史実ではないが、実際に政に携わる臣下の本音だからこそ、後世に伝わっていったのだろう。
何を以て「敬う」とするかは、現代にも続く問題である。米英との関係が悪化した際、軍には「平和主義を持つ今の陛下(昭和天皇)のもとでは開戦しづらいから、秩父宮殿下に交替させてはどうか」という意見を唱えた者がいたという。戦後処理の時にも「退位論」がささやかれた。読んでいて、ふと思いを巡らせた。
☆☆☆
999年6月、内裏で火災が発生する。帝は火が回った清涼殿に、一番の愛読書を取りに行く。その時、ふと思う。
このまま自分がいなくなることが、まわりにいる全ての人にとっての最適解ではないか?
そこまで追い詰められた帝を救ったものは、紛れもなく臣下の愛情あふれる”敬意”だった。
厳選された登場人物
本作では、登場する人物が相当絞り込まれている。藤原実資は少し出てくるが、藤原斉信は現れない。中宮の弟妹も、藤原隆家を含めて一切言及されない。記録によれば、行成は最初の妻に先立たれた後その妹を後妻に迎えたという。その点においても懐仁親王とある意味似通っているが、あえてそこには触れない。人物を厳選することにより、話の筋が散漫にならず、著者の訴えたいテーマがシンプルに伝わる。
その代わり、登場する人物ひとりひとりの描写から、著者の愛情と敬意が伝わってくる。主人公サイドから見て敵役である道長や彰子、あるいは自信満々の態度を取って行成を閉口させる伊周にも、それは感じられる。心地よい読後感は、その姿勢がもたらしてくれるものだろう。
昨年放送された某ドラマを、改めて思い出す。比較は著者にとって本意ではないかもしれないが、あのドラマを通じてこの分野に関心を持ち始めた者ゆえ、お許し願いたい。
帝と中宮をはじめ、藤原詮子、藤原実資などは俳優さんの顔や声がたちどころに思い浮かぶ。皇太后のセリフは吉田羊さんの声と、威厳ある顔立ちで再生される。蔵人頭OBでもある藤原実資が行成を叱責する場面は、もはやあの「黒光る顔」の圧しかイメージできない。
藤原道長も、柄本さんのたたずまいからそう大きく乖離していない。強いていえば、現世のお父上との中間的なイメージだろうか。
清少納言は淡青色をシンボルカラーとしていて、ウイカ少納言よりも落ち着いた人柄に描かれている。近年の清少納言像は、陽気ではっきり物事を言う情熱家的側面が強調されがちだが、本作の清少納言は絶妙にチューニングされている。ウイカさんが本作の清少納言を演じる力を身につけられたら、俳優としてもうひと皮むけるだろう。
その一方、主人公である藤原行成はドラマのイメージと大きく異なっている。あのドラマで行成は「道長大好き少年、後おじさん」というキャラクター設定がなされて、道長の施政方針に追従する人物として描かれた。その結果、どこか軽薄な印象を視聴者に与えてしまった。脚本家先生の責というよりも、公共放送局ドラマが内包する”建前”の犠牲になったと、私は受け止めている。
あのドラマは「民のための政治」とか「性的少数者の尊重」とか「女性の活躍」とか「子どもの学ぶ意欲に応える教育」などの建前を、あれもこれもと盛り込みすぎていた。それに「肉食系恋愛回帰思想」を持つ脚本家先生や制作陣の意向が乗っかり、グロテスクな様相を呈すに至った。徳川家光から家茂まで、女性の将軍が世を治めていたという設定のドラマ『大奥』が数年前にヒットしたという背景もうかがえるが、私はBLに夢中になる行成よりも、愛妻家の行成のほうが見たい。突飛な設定の物語は、このごろお腹いっぱいになってきた。また、落ち着いた設定の物語が流行る世の中になってほしい。
行成夫妻と従者の惟弘を新たにキャスティングして、他の登場人物は某ドラマからの続投で、本作が映像化されたら…と思いを巡らせる一方で、ダイヤモンドダストのきらめきのような本作は大手メディアに乗せず、わかる人の手元にだけ行き渡ってほしい、とも思う。それでもウイカさんと塩野さんが、本作に目を止めていただけたら嬉しい。既に新しい仕事をたくさん抱えているはずで、ご迷惑かもしれないことは承知の上で。
「あの人」も本作には出てこない。言及もされない。気配さえも全くない。ただそれだけで、作品世界がここまで清々しく爽やかになるとは!本作の世界では藤原為時の望み通り男子に生まれ、弟と仲よく大学寮に行き、文章生になっているのだろうか。"mhr"は藤原道長の心をとりこにして、平安時代の歴史と貴族社会の姿を改変せよというミッションを与えられて、どこか他の時空から遣わされた高度知的生命体であったと、このnoteで幾度も繰り返した主張を、改めて思う。