死を思う時…。
《鬱病のつらさ》
最近、鬱病の進行が進んで、《希死念慮》即ち「死にたいと思う気持ち」がよく頭をもたげてきます。
勿論、向精神薬などを服んでいますから、今日の明日のと云う感じでは無いのですが、現実的に生活に困窮している事と、身内親族から“見離されてしまった”事が、尾を引いているのだろうと、自分では思っています。親しかった友達や先輩方ともすっかり疎遠に成りました。『引きこもり=孤独』を実践しておいて、《人との関係》に寂しさを覚えるなんて、健常者の方から見れば「馬鹿なことを言ってんなぁ」と呆れられるでしょうw。
実の兄からは「そんなのは贅沢病だ!すっとぼけた事抜かしてないで働け!」と云う叱責のみで、病への理解は拒否されています。
情けない話ばかりで恐縮ですが、五十路を過ぎで、腰と膝に爆弾を抱えて立ち座りやちょっとした散歩でも痛む身体で、何をどう働いて生きていけというのでしょうか…。それを治療するお金にも事欠いているのに。
鬱の闇は本当に深くて、昨日「何とか出来そうな仕事を探して頑張ろう!」と思っても、翌朝には「死にたい程の落ち込み」に成っていることがよく有ります。
明日という日が、無事に来るのか、定まらない日々が続きます…。若い時には《太宰治みたいに自己憐憫している大人》が大っ嫌いだったのに、我が身がその沼に嵌まっていくとは…。
《鬱》について、色々語りたいと思って、此処に入会したのですが、『ミイラ取りがミイラに…』とは、自分でも嗤ってしまいます。
《仏様の話》
現実の釈迦は《輪廻転生》を語りませんでした。『この世は一切皆苦であり、諸行無常である。そして自己という存在も諸法無我であり、残るもの、続くものは全く無い』と語っています(自分なりの原始仏教の解釈ですので、細かい部分で間違っていたらごめんなさい)。
その事を深く心に留めて、正しく生きていけば、娑婆の苦しみから解放される。《悟り》も一度悟ったらOKではなくて、生ある限り《悟り》を重ねていかなければならない。
しかし、紀元前の社会と現代社会は、社会構造等で恐ろしい程の乖離が有りますから、教えをそのままに…と云うのは中々難しい。勿論、『心の問題』として捉えれば地続きなんですけどね…。
私という人間が、娑婆世界でいつまで生きていけるのか、今後も蝋燭の火は揺れ続けていきます…。