名前を持たないハンバーガー【秘密保持】
物語の主人公「たかし」は、コピーライターとしてひときわ異彩を放つ存在だ。彼は目立たないが、その言葉には圧倒的な力がある。たかしが何よりも大切にしているのは、「言葉の短さ」だ。言葉が短ければ短いほど、受け手に想像の余地が生まれ、そのわずかな空白が面白さを引き立てる。そんな彼に、大手ファーストフードチェーンから新作ハンバーガーのネーミングの依頼が届いたのだった。
たかしは、いつものようにじっくりと依頼主の話を聞くため、初回の打ち合わせに参加した。そこにはチェーンのマーケティングチームが勢ぞろいし、商品のコンセプトや開発背景、ターゲット層についての詳細な説明が続いた。ハンバーガー自体には、通常のバンズではなく、特別な粉と天然酵母でふんわりと焼き上げたバンズが使われているという。挟まれる具材もヘルシー志向で、肉の代わりにグリルしたキノコと豆を使ったパティが主役。ターゲットは若年層だけでなく、健康志向の高い中高年層も想定している。
たかしは、説明に一言も発さず耳を傾ける。その表情からは何も読み取れない。まるで相手の話のすべてを吸収し、自分の内側でじっくりと熟成させるかのようだった。
そして打ち合わせの終盤に差し掛かり、重要な話が出た。「守秘義務契約」だ。たかしは、すでに何度もサインしているため馴染みはあるが、今回はその範囲が一段と広かった。製品情報や開発コンセプト、ネーミングの案、マーケティング方針まで、関わるすべての情報を外部に漏らしてはいけない。その一部始終は、家族にすら話してはいけないとされている。
「契約書には、依頼の完了から数年経っても、情報を公開できないことが明記されています」と、担当者が説明する。たかしは一瞬驚いたが、すぐに深く頷いた。守秘義務は、クリエイターにとってまるで影のようなものだ。自由に話すことが許されない不自由さの一方で、静かにその重みを背負うたかしの覚悟がまた一つ深まった。
後日、たかしは自宅のデスクに座り、例のハンバーガーのことをひたすら思案していた。彼の頭には、「新しい」「ヘルシー」「若年層と中高年層」といったキーワードが散らばっている。だが、そのどれもが、たかしの求める「想像の余地」を生み出すにはまだ遠いと感じられた。彼は自問する。「言葉を短くしたら、このハンバーガーが何かを予感させられるだろうか?」
数日後、再度マーケティングチームとの打ち合わせが行われ、たかしはその場でいくつかのネーミング案を口にした。一つは「エナジーバーガー」、もう一つは「グリーンテイスト」。チームの反応は悪くはなかったが、たかしはまだ納得していなかった。
たかしが本質を突く言葉を見つけたのは、それから数日後、あるカフェでのひとときだった。彼は、隣に座る若いカップルの会話を耳にして、ふと「未来をかじる」という言葉が浮かんできた。それは、健康と未来への投資を表すかのようであり、同時に、そのハンバーガーが時代の先端にいることを暗示していた。想像する余地も、今を感じさせる響きもある。そう感じたたかしは、すぐにそのアイデアを持ち帰り、メモに書き留めた。
そして、最終案として「未来をかじるバーガー」というネーミングを提案する日がやってきた。会議でその言葉を口にした瞬間、担当者たちは一瞬驚いた表情を見せた。しかし、次第にその斬新さと響きに共感し、最終的に採用が決定された。
後にそのバーガーはヒット商品となり、あちこちで話題を呼んだが、たかしは何も語らなかった。守秘義務契約により、彼がその名前を考えたことは知る人ぞ知る話でしかない。だが、それこそがたかしの生きがいであり、言葉に込めた力が世の中で評価され、記憶に残る。それで十分だと、彼は自分に言い聞かせるのだった。