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カリスマの保証〜忘れられない部長の言葉〜

男は「頭」か「体」か「口」。

Photo by hamahouse

今年、51歳である私の職業は、社会人デビューした31年前と変わらず、営業職である。

途中、在籍企業の変転や、営業管理職、何より、40歳を超えてからの2度のリストラ(事業部閉鎖、及び、在籍していた外資系企業の日本撤退)も経験したものの、今も私は、朝から晩まで元気に、現場(担当エリアの担当店)を巡っている。

営業職が、果たして筆者にとっての天職かどうかは、今もって分からない。

ただ、平成初期に亡くなった母方の祖母が、晩年、私にこう言ったものである。

「男がする仕事は3種類しかない。頭を使う仕事、体を使う仕事、口を使う仕事や。あんたは私が見るに、お父さんに似て口が達者やから、口を使って仕事をしなはれ」

なるほど、納得。
確かにあの人の口は、達者すぎるほどに達者だ。  

というわけで、私の話を始める前に、少し、うちのおとんについて触れたいと思う。

我が敬愛するおとんは、地元の工業高校を卒業後、すぐに、

〝金の卵〟
(昭和中期、都市の企業や店舗に、集団就職する地方の新卒者(中学・高校卒)をこう呼んだ)

として、長崎は島原から大阪に出て、なんと信じられないことに、〝あの〟電電公社(のちのNTT)に入社したのだという。

(よくも国営企業なんかに入れたものだ)

初めて聞いた時は一瞬、コネを疑ったものだが、
ただ、当時の金の卵たちは(経済的な問題から)中卒の方が大半で、高卒は珍しかったらしく、その点はかなり高ポイント、優位に働いたらしい。

だから特に、知り合いの市会議員に2重底の菓子折りを持参した、とか、おとんが神童とか秀才の類だった、とかでは全くない。

かといって、決して劣等生でもなかったらしく、本人曰く、

「ワシ、高校でもソコソコ賢い方やったから、電電公社入れたんやで?」
 
・・・とのこと。
それは周りのお歴々の証言を聞いても、あながち盛った話ではないようだ。

とにかくはっきりと言えることは、おかんと結婚した24歳の時点では、おとんは「頭」と「体」を使って働く、国営企業のエンジニアだった、ということ。

仮にそのまま定年まで勤続していれば、安定を絵に描いたような人生が完成していただろう。

ところが20代後半、長男である筆者がまだ幼かった頃に、電電公社を退職し、突然の路線変更。

「いや、行きつけの喫茶店で、仕事帰りに毎日、100円玉積んでインベーダーゲームしてたんやけどな、そこで友達になったセールスマンに、「営業は儲かりまっせ、あんさんの口の上手さなら、すぐ月収100万円や!」って太鼓判押されたんや。そこまで言われたらちょっと挑戦してみよかな、ってなもんやがな!」

妻子ある身なのに、それで公務員的な安定を捨ててしまったのが何ともおとんらしいが、ただ当時は選り好みをしなければ仕事はそれこそ山ほどあったそうで、それだけに玉石混交、選択ミスも経たようだ。

「次の会社に入社してすぐ、(社員は特別価格で将来、価格が爆上がりする土地を持てる)とかそそのかされてな。怖い先輩に、北海道の〝原野〟を買わされそうになったんや。〝原野商法〟言うて、当時流行った悪徳商法や。さすがにすぐ逃げ出したわな」

「金の卵」
「電電公社」
「インベーダーゲーム」
「原野商法」

まるで昭和史博覧会、つくづく面白い人だ。

ただ、とはいえそろそろ自分語りを始めたいので、その後については、おとんの〝始まったら長い自慢話〟をギュッと濃縮すると・・・。

教育関連の新規開拓系企業の門を叩き、営業職に転身するや、僅か半年で全国1位、果ては、数年で支店長にまで上り詰めたんだそうな。

元電電公社と聞けば(コネか?)と勘ぐる筆者も、その成功については(さもあろう)と納得。

我が親ながら、おとんは〝コミュニケーションお化け〟であり、下手な芸人程度では太刀打ちできないレベルのトークの達人だというのが、身内贔屓なしの息子の父親評である。

そして関西人らしくおしゃべりな筆者には、その元営業のプロ中のプロの血が流れているわけで、そう思えば多少、自信も出てこようというもの。

そんなわけで、ようやく話を筆者に戻せば、バブルの残り香が多少残っていた1994年の秋。

私は先に訪販業界入りしていた友人の勧めもあり、父親同様、新規開拓の営業会社の門を叩くことを決めた。

そこは、関西ローカルながらTVCMを打っているような高級羽毛布団の製造、販売を手掛ける、新進気鋭のベンチャー企業だった。
(無論、当時はベンチャーなんて言葉はないが)

電話でアポイントを入れ、後日面接を受けにいき、即日採用決定。

当時の営業会社特有のスピード感で、すぐにでも入居化のワンルームマンションを充てがわれた筆者は、その週末にはワンボックス1台分の引っ越しを済ませ、生まれて初めての独り暮らしと、明日からの自身の活躍に、思いを馳せたものである。

(俺にはきっと素養があるはず)

ところが世の中とは、それはそれは広大なもので・・・。

大抵の井の中の蛙が、水たまりのような池を泳いでみて、それでもう大海を知ったと勘違いをするように、世間の広さと厳しさは、私の想像を遥かに超えてきた次第である。


離職率9割のブラック企業。

Photo by koji_doi

そういえば、誤解のないように先に明記しておくと、〝訪問販売〟という存在自体は、別に違法でも犯罪でもないのは、皆さん、ご存知だろうか?

江戸時代中期以降、富山藩に莫大な富をもたらし、その財政を支えたという、

〝富山の薬売り〟

それがまさに訪問販売そのものだったように、一般家庭のお宅の敷居が今より低かった時代には、飛び込みで商いを営む行商人とは、至極ポピュラーな存在だったのだ。

ところが、悪名高き豊田商事に代表される数多くの悪徳企業が、昭和中期から後期、日本列島を蹂躙したせいで、平成初期にはもう、住宅や商店の訪販に対するガードは異様に堅くなっていた。

訪問販売法(現在では特定商取引法)や消費者センターが確立され、クーリングオフ制度は既に各家庭に浸透し、騙しトークや強引な販売、詐欺まがいのヤタゲタな商売は、もちろんご法度の1発レッドカード。

それでも当時はまだ、新規開拓営業の入口は、ドアツードアかテレホンアポイントが主流であり、筆者が入社した企業も、もっぱらドアーツードアによって商談アポを取得するスタイルだった。 

販売どころか、商談に至ることさえ至難なその環境下で、離職率9割をすり抜け、営業として生き残るには、とにかく数を叩く根性とコミュニケーション能力、もしくは、人を惹きつけるトーク力、否、もっと本質的なことを言うなら、人間力を身につけるしかない。

ところが、海千山千の人間とは、思いのほか数多く存在するもので・・・。

毎朝の朝礼前、現場に向かう道中、帰社する車内、そして終礼後と、延々と繰り返されるロールプレイ(トークの練習/ロープレ)の中で、筆者は何度も、成績上位の先輩たちの見事な話術に、息を呑まされた。

表情、声、言葉のチョイスや言い回し、笑いのセンス、そして、各々の豊かな個性。

(アカン、今の俺程度じゃ、全く話にならんわ)

その失望に追い打ちをかけるように、アポマンとしての私のタコ(業界用語/売上0)は継続した。

毎日毎日、足を棒にして、関西中のありとあらゆる住宅街を、延々と歩き続ける。

ある日は大津の琵琶湖畔を。
ある日は三重の巨大ニュータウンを。
ある日は舞鶴の雪の中を。
ある日は和歌山山中の集落を。

朝から晩まで、何百軒もの家のインターホンを押し、ドアをノックし、その数だけ断られ、ひたすら落ち続けてゆくテンション。  

途中、何度か商談アポが取れたこともあったが、それが成約に繋がることは一向になく、日に日に、「0」という〝暴挙〟に対する会社の言及は、シビアになっていった。

(大概、何件かアポを取れれば初オーダーに繋がるらしいのに、何で俺だけ、9日間もタコなん?)

この頃にはもう、筆者はどこか醒めており、緊張の糸は完全に切れていた。

事務所や車内の、鉛のような空気。
無限リピートされるロープレ。
14時、16時、18時の、恫喝のような追込電話。
ダメな先輩社員に投げられる、ガラスの灰皿。
(無論、当たりはしなかったが)

かの宮崎駿は、名作「紅の豚」において、主人公のポルコ・ロッソに「飛べない豚はただの豚だ」という名言を吐かせたが、まさに新規開拓をメインにする生産社員主体の企業においては、

「ゼロは害悪」

なのである。

そしてその逆に、数字を重ねた者は称えられ、高額なインセンティブを手に入れ、ヒーローとなるわけだが、ただこの業界の〝我が世の春〟というものは大半が極めて短いもの。

先月、散々持ち上げられ、英雄扱いされた社員が、今月にはもう、罵倒され、忌避される存在に落ちぶれてしまうなんてのは、ほぼ日常茶飯事といっても過言ではない。

アポマン、クローザー(商談・商品説明役、役職者が担当)を通して、結果を出し続けた者だけが、皆の尊敬を集める管理職に辿り着き、しんどい現場を卒業することができるーーー。

離職率が9割を超える純然たるブラック企業ではあるが、反面、社内政治やコネ、ゴマすりやヨイショは一切通用しないその社風は、今となってみれば理想的な環境なのかもしれない。

「完全実力主義」

そう、その会社において、発言権やキャラを、いや、身の置き場を確立するためには、問答無用、旧社会党の土井たか子党首ではないが「やるっきゃない!」のである。

いくら新人だろうと、9日間もタコを続ける人間には、〝今すぐやるか〟〝今すぐ辞めるか〟しか選択肢はないのだ。

繰り返すようだが、当時は「ブラック企業」や「パワハラ」なんて言葉はまだ当然なく、どんな厳しい環境下においても、「石の上にも3年」が美徳とされるような時代であった。

入社9日間で仕事を辞め、実家に出戻ることはさすがに避けたいが、もう(新人だから)と甘くみて貰える期間は終わっているわけで、今日、明日にでも結果が出なければ、きっと私は、夜逃げのように部屋を引き払うだろう。

(営業のアドバイスを沢山してくれた上に、引越も手伝ってくれたおとんには申し訳ないけど、もう限界や・・・)

入社当初は必死に、愚直に、素直に仕事に取り組んでいたが、さすがにアポマンとして新人の私が必死で取った何件かのアポを、初オーダーに結びつけてくれなかったクローザー(商談・契約係、車輌の責任者/この時は課長だった)に対する反感は、もはやピークに達していた。

いや、決して安くない商品の商談が、そう簡単にまとまらないのは仕方がない。

ただ、その後の筆者に対する態度や言動が納得できなかったのである。

「アポの内容が悪いから決まらんのや」

(いや、ま、そりゃそうやねんけど、それを軌道修正して決めてくれるからこそ、上司は尊敬されるんちゃうんかいな?)

あのプロレスラーみたいな風貌の部長の手前、(自分も悪い)と言えない課長の気持ちは分からないではないが・・・。

そして、入社してちょうど2週間が経過したその日、遂に運命の瞬間は訪れたのだった。


伝説の部長と初オーダー。 

Photo by aigunshi

その日、朝の朝礼で、部長は課長に宣言した。

「今日、お前の車輌に乗るから」

普段、朝礼の〆、各営業に14時、16時、18時の追込電話、ロープレの手本を見せる等が仕事である管理職の部長は、売上コンテストの月や遠征等、特別なイベント時にのみ、数ある車輌のどれかに乗り込んで、部下のアポに対してクロージングを行うのが常だった。

ただ、特に何もない通常の稼働時に現場に同行されるのは、どの部下にも強烈な「圧」。

なにしろ、クロージングの成契率は7割を超え、なかなかアポがない状況が続けば、自ら現場に飛び出してアポ取りまで行い、100発100中で結果を出してしまう、掛け値なしのカリスマである。 

営業部大阪1課の20人は、不意打ちの部長同行が当たった際には例外なく天を仰ぎ、運良く指名を逃れた時には、胸を撫で下ろしつつ、生贄の羊たちに向けて、内心こう呟くのが常だった。

(気の毒に・・・御愁傷様)

そう、それほどに、皆は部長を畏怖していた。

営業部、大阪1課、20人を束ねる部長。

その容貌と雰囲気は、常人から遠くかけ離れた、漫画みたいなシロモノだった。

毎朝、バカでかいリンカーン・コンチネンタルを会社に乗り付け、出社してくることもさることながら、太い首と、レスラーのような体格、巨大な顔面に、バリトンの声、サメのような鋭い目。

単にイカツい、とか、禍々しい、とかでは全くない。ゴツい体から発散される物凄いオーラは、一目で彼が持つ「才気」を表しており、その名前は、  

「編み出したトークがそのままマニュアルになり、今では業界全体に認知されている」

ことで、他社にも響き渡っていた。

そんな世にも恐ろしい伝説の男が、タコを連発し、崖っぷちの新人の乗る車輌に、わざわざ出張ってきたのである。

(マジかよ、とどめをさしに来たんかな!?)

一瞬、出発前に退職を申し出ることも脳裏をよぎったが、さすがに部長同行に水を差すようなクソ度胸は、私にはなかった。

そして始まる、過酷を絵に描いたような1日。

部長同行においては、役職者も新人も関係なくアポマンと化し、素晴らしい手返しで現場に投入、回収が繰り返されてゆく。

「よし、田中はこの集合住宅、佐藤はあの脇の住宅街や!30分後に拾いに来るから。おい、お前ら、そろそろ新人に力のあるとこ見せーよ!何でもええからアポ頼むぞ!残りの2人は山際の旧家に降ろすからまだ乗っとけ!」

そんな具合にどんどん設定されてゆく現場において、4人の戦士はフル稼働、終日死に物狂いで、精魂尽きるまでやりきったものだ。(ちなみにアポ取りは、午後から部長も加わって5人総出だった)

ただ残念ながら、その日は遂に、陽が傾くまで1件のアポさえ取れず、時間と汗だけが流れた。

夕刻、18時。

クロージングにかかる時間を考慮すれば、これが最後のタイム(訪販法は夜20時以降の営業活動を禁じている)である。

「よし、ラストワンタイム、泣いても笑ってもこれが最後の30分や。今日はな、俺の現場の設定が失敗したんかも分からんわ。皆、悪かったな。いうてもまだ諦めるなよ?営業はカブトムシを捕りに行くのと一緒、昨日何もおらんかった木でも、今日行けばまたカブトムシっておるもんや。最高の布団を、ちょうど欲しいと思ってるお客さんが、必ず、この住宅街のどこかにおるから。ワシ、信じて念じて待ってるからな。よしっ!行ってこいっ!」

そしてそこで不意に、筆者は呼び止められ、ワンボックスの脇に手招きされ、生涯忘れないであろう発破をかけられたのだ。

「なぁ、斗月、お前、もうやる気ないなら無理せんと、辞めてええんやど?お前、どっかもう醒めてしもうとるやろ?こんなことやってられへんって、心のどっかで思うてしもうとるやろ?ここで踏ん張ってる奴らはな、みんなこれで飯食って、家族を養っとる奴もおるわけや。そういう覚悟がないなら、周りのためにもお前自身のためにも、はよ辞めた方がええ」

何のことはない、筆者の心中は、部長にはお見通しであった。  

(そりゃ、これだけの営業マンやもん、俺みたいな若造の気持ちを洞察するくらい、朝飯前やわな・・・)

ただ、その後に続いた叱咤激励には、心底驚かされたものだ。

「斗月よ、お前にこの仕事を続ける気力がまだ多少でも残ってるんなら、今からのラスト30分、ほんまの全開、無心でまわってみろ!」

バチン、と叩かれた背中の痛みを、今でも思い出すことができる。

まさに闘魂注入、令和の世には流行らない、精神論、人情作戦って奴である。

ただ、筆者は悲しいかな昭和の男、涙腺の緩みに耐えながらも、恥ずかしながら燃えてしまった。

(このタイム、必ずアポを取る!!)

「一生懸命」とか「全力」とか「本気」ではまだ全然届かない境地。

言うなれば、入社後初の「必死」である。

どんな門構えの家も、夕飯の用意の気配も、けたたましく吠える犬も、一切、気に留めることなく、断られても断られても挑む覚悟でまわり始めて程なく、遂に、その時は来た。

最高のタイミング、新しい布団の購入を考えていたという、お客様との出会いーーー。

理想的なアポを引っさげ、私は息を切らして、車輌へと駆け戻った。

「とっ、取れました!ちょうどお布団、買い替えようと思ってたそうです!!」

部長に向かって報告をしたつもりが、なぜか部長より先に、意外な人が反応する。

「お!取れたか!?よし、行ったるわ!」

ビジネスバックに手を伸ばす課長。

(えっ!?課長が行くんかいな!?)  
 
確かに課長車輌ではあるが、このアポだけは、このアポの重みが想像できないような人に、扱って欲しくない。  
 
いや、もっとはっきり言えば、ぶっちゃけこの人にだけは行って欲しくない!

ただ、そんな筆者の不満は、瞬時に、部長の咆哮にも似た叱責に吹き飛ばされた。

「お前、この2週間、コイツのアポ、パンク(商談不成立)させとるんやろが!?ワシが行くから引っ込んどけっ!斗月、持ち込むど!布団担いでついて来い!ワシの商談、後ろで聞いとけ!!」

そうして商品を持ち込んでからの約1時間、私は伝説の営業マンの、抱腹絶倒、爆笑の舞台を、まさに特等席で堪能することとなった。

(こりゃ凄い、とんでもないわ・・・)

肩を並べて商品説明に耳を傾けていたその初老のご夫婦は、時に腹を抱えて笑い、時に深く頷いて唸り、うちの羽毛布団と共に、完全に部長のキャラと人間性に惚れ込んだ様子だった。

単に話が面白いというだけではない。

知的にして、でも、砕けていて。

優しみや思いやりに溢れているようで、それでいて、ユーモアたっぷりの毒も吐く。 

ご主人が振ってきた、時事ネタや阪神タイガースネタにも完璧に対応する雑学とボキャブラリー。

どういう返答やリアクションをすれば相手が1番満足するかを、瞬時に判断する洞察力と瞬発力。

外見とは真逆、絶妙に相手の懐に飛び込む、得も言われぬ可愛げ。

その様は、まさに即座に、目的地までの最良のルートを選択する、最新のカーナビのようであった。(当時はまだ普及していなかったが)

圧巻。

もう、その一言に尽きる。

ちなみに、それから今現在に至るまで、筆者は何百人もの同業者(営業マン)を見てきたが、遂に部長を超える才気にはお目にかからなかった。

無論、その夜の商談が、当然の如く、目的地(契約)へとすんなりナビゲートされたのは言うまでもなく、それどころか、異例の「プラスアルファ」まで付いてきてしまったものである。

「なんや、そのくらいの金額なら、わざわざローン組む必要もない、今、現金で払うわ。んで、来客用の子供布団みたいなんはあるんか?息子夫婦と孫が時々泊まりに来るもんでな」

勧めてもいないのに、話が勝手に広がる異例の展開ーーー。

納品とカバー付けを行いながら、筆者は夢見心地であった。

(嗚呼、ようやく報われた。本当に、果てしなく長い2週間やった・・・)

そんな感傷にひたっている私を、不意に部長が話のネタにする。

「お客様、そういや最初に来たこの若い男の子、この契約が初オーダーなんですよ!ホラ、喜びか安堵か微妙ですけど、心なしか目が潤んでるでしょ?斗月君、お客さんに御礼を言いなさい!」

その家の場所や間取りを、お客様の顔を、31年が経過した今でも、筆者ははっきりと覚えている。

そして言うまでもなく、部長の勇姿も。

私の営業人生の初オーダーは、三重県津市。

あのご夫婦はまだ、健在だろうか? 


忘れられない部長の言葉。

Photo by marikusu

帰路、ロープレから解放された車中。

初オーダーの余韻にひたりながら、窓の外を眺める後部座席の筆者に、助手席で半眠りになりながら、部長が話しかけてきた。

「斗月よ、今日の最後のタイムの心持ちを忘れるなよ。人間は本気になってるつもりでも、意外に手を抜いてるもんや。そもそもあんなでかい家はな、普通、抵抗あってインターホン鳴らしにくいはずなんや。そんなことが気にならんくらい、お前は必死やった。だからこそ、あのお客様との出会いがあったわけや。長いこと営業やってると、必ず、スランプは度々やってくる。そんな時は何回でも、今日の最後のタイムのお前に立ち返れ」

「はい、ありがとうございます、肝に銘じます」

「あと、予言しといたるけどな、今日の売上はたまたまやないど?もう、お前は大丈夫や」

半信半疑で聞いた部長の予言は、我が事ながら見事に当たった。

以降、筆者は今までが嘘のように数字を作れるようになり、結局その後、僅かな期間ではあるが、大阪1課の中核として在籍することができた。
(全国1位も1度だけ経験)

そして先述したように、紆余曲折を経ても尚挫けることなく、私は現在、51歳の営業マンである。

20歳のみずみずしい感性と、若々しい肉体の名残りは、残念ながらもう微塵も残っていないが、それでも営業マンとして、今日も明日もベストを尽くすことを継続してゆけるのは、あの部長の言葉が鮮度を失うことなく、今でも私の中で息づいているからだ。

何度でも、初オーダーに繋がるアポを取った、あの時の自分に立ち返るーーー。

在籍する企業や上司、担当したお客様等から、理不尽や無念を突きつけられた時。

やることなすこと全てが裏目に出て、目標数字や自身に課された予算が、全く進捗しない時、仕事に嫌気が差した時。

そんな時、筆者は決まって、あのラストワンタイムの自分自身と、その後のチームメイトの祝福を思い出し、幾度も救われてきたものだ。

(まるで、サヨナラホームランを打って、ホームに帰ってきた打者みたいやったな)

そう、初オーダーのエピソードには、少しだけ続きがある。

普段は、帰社した車輌ごとに車輌長が終礼を行い、順次退社するのが常だというのに、あの夜は、初オーダーをあげた筆者の遅い帰社を、大阪1課の何と全員が、帰らずに出迎えてくれたのだ。

「良かったな!よぉやった!!」

生みの苦しみを存分に味わったデキの悪い新人の〝はじめの1歩〟を、我が事のように喜んでくれた、先輩諸氏の拍手喝采ーーー。

あんな喜びをまた経験したいからこそ、きっと私は相も変わらず、数字に追われる忙しない日々に、身を置いているのかもしれない。

繰り返しになるが、営業職が、果たして筆者にとっての天職かどうかは、今もって分からない。

ただ、あれだけ偉大な営業マンが断言してくれたのだ、この道を往かない手はないではないか。

「お前は大丈夫や」

時は移ろい令和の世、すっかりロートルと化した51歳のポンコツセールスマンの脳裏に、不意に、あの野太い声が響いた。

引退するその日まで、カリスマの保証期間が切れることはない。


追記。

Photo by tomekantyou1

程なく、部長はかつての部下複数に声を掛け独立、会社(訪販の布団屋)を立ち上げる。

私は部長の会社の快進撃の噂を、新天地、もちろん営業職(訪販ではない)の新人として奮闘中に耳にし、更なる飛躍を確信していた。

以降、訪販時代の知己と疎遠になってしまった私は、遂に1度も部長と会うことはなかったが、ただ1度だけ、あれはもう、何年前のことだったか。

営業として在籍していた当時の会社で、確か少し遅めのお盆休みを敢行した、ある平日の朝。

琵琶湖に釣りに行くために名神自動車道に乗り、布団屋時代に何百回も立ち寄ったSAに、久々朝飯を食うために入ったのだが、そこで筆者は不意に、部長が立ち上げた企業のロゴが入った、ワンボックスを目にしたのである。

(うおっ!相変わらずここで朝飯食ってんのかいな!?誰が乗ってるんやろ?)

声を掛けるかどうか躊躇しつつ、空いていた(左側1車を挟んだ)並列の駐車スペースに車を突っ込みながら、助手席側を覗いてみる。

すると、見まごうことなきあのゴツい横顔が見え、久々に心臓が〝キュッ〟となったものだ。

(社長になってもいまだに現場に出てるんやな。いやはや、さすが筋金入りやわ・・・)

タイミング悪く、途端に向こうは走り出してしまったので、結局話すことはできなかったが、その出来事を追記として、当記事を〆たいと思う。

ちなみに、更に書き足すなら、75歳になったうちのオトンもますます健在。

定年後、大阪を離れた元全国1位は、引っ込んだ島原の自宅の庭に、孫の好きなトウモロコシやスイカをせっせと植え、育てている。

〝師父共に、強者どもの、幻影は、
 時は流れど、尚、色褪せぬ〟

季語はないが、これにて、本日の稼働は終了。

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