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【教育書評・勉強ノート】コメニウス『大教授学』(1657)よりコメニウスの思想の分析 日記より

 本文6200文字 長いと思った方は、目次より、「前半部分」と「まとめ」
にとんでそこだけをお読みください。

 とにかくねぇ、大学院での学びの無さに腹が立ったの。それで個人的に勉強したのにそれを発表する機会がない。だからさらけだすことにした。ここまでの内容はネットを見てもまずないから、ぜひ教育大学所属の方とか読んで欲しい。ただレポートとかには丸写ししないでください。


今回読んでいた本はこちら↓

この本の作者のコメニウスについてはこちらを参照にしてください↓

はじめに(この本を読んだ背景)

 
   202〇年〇月〇日(〇)

  コメニウス『大教授学』と道元『正法眼蔵』を読む

 夜、非常に疲れており、何もする気が起きなかった。実は、前日に(中略)往復14km弱を自転車で往復しただけで異常な倦怠感に襲われ、翌日になってもその疲れが十分に癒えぬままに(中略)まさに死ぬほどの疲れに襲われてしまったのだ。

 しかし、眠ることもできず、なんとか、コメニウス(1592~1670、現在のチェコ共和国出身の教育学者)の主著『大教授学』と道元(1200~1253、日本の僧、曹洞宗開祖)の主著『正法眼蔵』を読んだ。

 『大教授学』は、翻訳者の太田光一氏の訳がわかりやすくかつ丁寧で一気に半分くらいまで読んだ。『正法眼蔵』は新たに第3巻の「仏性」を読んだだけだった。

 ちなみに繰り返しになるが、なぜこれらの本を読んでいるかと言うと、私が専門にしている教育に関する有名な原著と興味のある宗教の有名な原著を読むべきと思い(中略)

 補足して、世の中には、読書ではなく実践が大事という人や、読んでも忘れるとか言う人もいるが、やはり、私はおそらく生涯教壇に立つことはないかもしれないと思うものの、社会科の免許を持っていて倫理を教える教師が、何にも読んだことのない本の話をするのはおかしいと思うし、また、将来講師として教育学を教える可能性はあるが、有名だとされる本を読んでもないのに語ったり、逆にまったくふれなかったりするのも良くないと思い、まじめにこれらの本を読むことしているのだ。

 まず、『大教授学』については、私は、以前にペスタロッチーの教育法が直観教授と言われるその根拠は何かと探したが、その根拠はほとんどなかったことを明らかにした。そこで、ペスタロッチの先輩格で直観教授について語っているコメニウスについても分析しなければならないとも思って読んだ。 

コメニウス『大教授学』(1657)内容と分析


  前半部分

 
 以下、Wikisouces収録のウォルター・キィーテイング訳(1896)の英語版を参照に記述。ページ内にパブリックドメインの記述があるのと、訳者のキィーティングは1935年に亡くなっており、逝去後89年が経過しているので、アメリカおよび日本の著作権が及ぶ範囲である没後70年以上を経過しており、著作権の保護がないとみなされる。※太田氏と東信堂の保持する著作権並びに翻案権は侵害しておりません。

   2024年11月19、20日、21日、22日参照

 本の内容は、キリスト教第一主義なので、宗教が嫌いな現代日本人にはそこが怖く感じられるかもしれない。しかし、ものものしい題名と違って非常にポジティブで論理的に書かれているものの、シンプルに言えば「勉強は楽しくあるべき」と語るような親近感の持てるようなものだ。

  宗教的な目標は現在では煙たがられるだろうが、彼は、教育の目的を「学識・徳性・敬神」と定め、そのためには、心と体を健康的にすることが大事であるとする。そこから教育のあり方について「男女平等、階層平等、体罰の禁止、発達に応じたカリキュラムの制定」など、現代の学校では当たり前になっていることが提案されている。

 よく教員採用試験で出題されるコメニウスの直観教授についての根拠は、彼が書いたもう一つの主要著作である「世界図絵」と呼ばれる絵本的な教科書にあると思われるが、本書からもその根拠を引用するとすれば、

第17章で教師のありかたについて語った個所で、「個人的にまたは教室で子供たちを呼び寄せ、彼らが学ばなければならないものの絵を見せたり、機器や幾何学機器、天球儀など、彼らの感嘆をかき立てるようなものを説明し、また、時々子どもたちに両親に伝えるメッセージを与えるならば、一言で言えば、教師が生徒に優しく接すれば、簡単に彼らの愛情を勝ち取り、家にいるよりも学校に行くことを好むようになるだろう。(p.282)と語っている箇所が、それにあたると私は思った。

 また、子ども達に対して、その国の言葉で教えていないと批判しているところがあったが、当時はまだ、国民国家が完成する前であり、豊富な知識を持ちかつ、その国の方言もしゃべられる人々をあらゆる地方に配置することは実質的に無理であったであろう。しかし、やがて、一部のエリートがラテン語でやり取りをするという時代が終わり、国語という教科が成立して、すべての子ども達がその国の統一された言語で学ぶ時代が到来し(ヨーロッパや日本などの列強においては)、彼の提言は実現されることになった。

 まぁ、しかし、この本においては、きれいごとを言っているとしか言えない。実際にこの本に書かれていることが達成されてなお苦境にある現代教育界を知っている世界中の教師達がすれば、もうこの本の内容を知っても意味のないものとされるだろう。

 私がそのことに対して指摘したい点は3点あって、まず、彼のタブララサ的(人間の性質は後天的な教育や経験で決まるという思想)な価値観についてだ。彼は、人間は正しく成長すれば、そのような動物とは違う立派な人間が集まれば国が発展するという、儒教にも似ている教育観を主張していた。同じようなことは、吉田松陰も言っていた。

 しかし、現実の歴史の流れを見るに、人間が動物と違うところは、物質的な快楽を強く求め、そのために行動し、それで国が豊かになるということであり、すなわち、人間が人間らしくあることや、国を発展させることが、堕落と苦しむを生み、敬神的な態度を人から遠ざけることにつながってしまったのだった。

 やはり、私は、人間の「善性」的なものがあるとすれば、それはうまれつきであるとしか言えない。そして、もし「善性」というものに差があるのだとすれば、それを比較しなければいけなくなるような社会がおかしいと考える。そして、教育においてその「善性」とやらをみな同じくするあるいは皆一定のレベルにすることは不可能だと思う。仮に一定のレベルを超えたとしても、結局は差が生まれ、相対主義的なものになる。

 (中略)コメニウスが言う教育の条件が達成ないし、もうこれ以上は達成不可能な状況でこれなのだから、結局彼の言っていることは教育目的において達成できていないのである。 

 (中略)

 第2に、最初の指摘に関連して、コメニウスはの「学識、敬神、徳性」という3本柱は特に現代社会では成り立たないものであり、宗教的な側面から言っても、レベルの低い知見にすぎないと思われる。確かにコメニウスのような考えは昔から普遍的にあった。しかし、結局は社会を実質的に動かしている人や、聖人と言われる人は、そんな考え方をしないと私は思う。

 第3に、最初の指摘と2番目の指摘に関連して学校の存在は、人間を社会化するための有用な装置であるとコメニウスは主張し、実際にその時代らへんから彼の言うようなことは普遍的に受け入れられてきたが、現在では、学校というのは、異常な同調圧力で型どおりの人間を多数作りだす場所にしかすぎないという認識に変わってきてしまっている(以下略)。

  後半部分

  202〇年〇月〇日(〇)
 
 続・コメニウス『大教授学』を読む

 この日、コメニウス著の『大教授学』の読み残していた部分を読んだ。実際はどこまで読んだか忘れて16章あたりから読んでいたが、今記録を読みかえすと、○○○〇〇に私は、17章までは読んでいたらしいので、18章の内容以下からまとめるとともに論じよう。

 第18章でコメニウスは、学校での勉強は表面的でしかない(多分、役に立たないか、忘れてしまうということ)と述べており、それを着実にするためにはどうすればいいか自分の考えを主張している。

 その方法の原則としてコメニウスは、自然に学ぶことをこれまでと同じように主張して、具体的な自然の例も挙げているが、それが教育とどうつながるかは結局として曖昧だ。また、中間部分では、教えなくてもいい内容について触れているが、これも具体的に何だろうか、現代の学校で言えば何にあたるだろうかと考えさせられた。

 例えば、ゲームとかテレビ・ネットの番組や文化は学校で教えられなくて、それを知ることが大切だとされている現代がコメニウスがもし生きていたら異常だというかもしれないが、実際それをしらなければ生きていけない。さらに学校で教えられていることのほとんどがこの世で生きていくにもあの世でも意味がなさそうなことばかりだ。コメニウスの時代に置き換えても、教えなくていいものとは何だろうか。おそらく、文中ににある昔の小説の類なのだろうが、コメニウスはそれらも読んでいるのだ。では、自分のしたことが間違っているというのか、それとも賢い人間は何でも覚えていいと思っていたのか、そこまでは書かれていなかった。

 この章の中で着目すべきは、最後の部分に書いてある、自分で学んだことを他者に教えたり、議論したりしてみなさいと書かれたところだ。現代のアクティブラーニングという概念を先取りしているように思える。

 しかし、議論するということは教育史を勉強すると、昔は当たり前だったとわかる。対して、(対してでもないが)現代の教育がつめこみ教育だと言われるが、それは、覚えなければいけないことが多いからであるとすれば、たくさん覚えて、たくさん議論するのは、まぁ時間的に考えて無理だろうと思う。

 第19章では、教えるのを迅速・簡略化するのにはどうすればいいかということが述べられている。その内容としては、学生を班に分けて、それぞれの班にモニター(班長)を置いて、難しいことは解説させ、さらに班で行われた学習内容を教師に報告(スパイ)させて全体を教師が統率するというものである。

 私は、こんなことをしたら、コメニウスが前半部で主張していた、楽しい学校というのが、楽しくならないのではないかと思ってしまった。ただ、もしかしたらこれは昔の学校で本当にやっていた学校もあるのかもしれないが、このようにしっかりとしたクラス分けをすれば、学力面などで効果はあるかもしれないと思った。

 第20章の「知識の内容 各論ごとに」については省略する。
 第21章では、知識を学ぶより技術を学ぶことが大事としていたが、知識を学ばなければ技術も学ぶことができないと思う。技術から学べるのは、おそらく本文の内容からするに現代で言えば小学校低学年の道徳や生活科の内容そのままである。

 第22章では、言語の学び方について述べている。コメニウスは言語の学び方には段階があるとしている。それから、最終的には、ラテン語・ギリシャ語・アラビア語などの外国語を勉強するべきだとしている。たぶん、彼は、おそらく複数言語を操ることができる人間は大学にいくことを想定していると思うが、もしそうでなければ現代に置き換えても複数言語を学ぶのは無理である。彼がこのように複数言語を学ぶことが必要だとしたわけは、まだ国民国家が成立していないため、国境がしっかりとしておらず、言葉も入り乱れて使われており、さらに統一言語としてラテン語がつかわれていたためであろう。
 
 また、誰であっても言語のすべてを学ぶ必要はないと彼が述べているのも、言霊(ことだま)とか、言語哲学だとか、そういうスピリチュアル概念や社会学的概念が彼にはなかったからであろう。

 第23章では、道徳教育について、第24章では、敬神教育について述べられ
ている。文章を読む限り、コメニウスは、道徳と敬神がつながっているものと考えていたことがうかがえる。道徳については、古代ギリシャ以来の徳目である四元徳(知恵,勇気,節制,正義)を重視していた。

 コメニウスは道徳教育について、両親・乳母・教師・学友らが手本を示すことを述べていて、徳目主義だけではなく、全面主義的(授業だけではなく、日常生活のあらゆる部分が道徳教育であるという考え方)な要素についても重要であるとみなしている。

 敬神教育については、聖書を読むことを重視している。また、その方法として、瞑想・祈り・試練を挙げていて、理性だけではない、経験的・直観的な信仰を重視していることもうかがえる。

 続いて25章では異教の書物を排除することを主張している。しかし、実はコメニウスは異教の書を読んでいた。文章の内容からするに大人になってある程度のエリートになったらこれらの本も読んでいいようである。

 第26章「学校の訓戒について」は略。第27章においては、学校を各年代に併せて4つにわけることが述べられている。その期間は24年にわたり、現代の生まれてから大学までが22年だとすると、今の基準からしても長い。もっとも古代ギリシャの都市国家スパルタ(スパルタ教育の由来になった国)では一人前になるのは30歳とされていたわけだから、現代の、ここまで複雑な世の中なのに22歳で大学を出て就職する世の中のほうが異常なのかもしれない。

 また、コメニウスや幼児期においては、「母親学校」が大事だと述べており、その内容については、28章で具体的に述べられているが、現代においても、その内容を実行するのは無理で、理想的な内容な気がする。当たり前のようなことも書いてあるが、6歳までに一般家庭の人間が家の中のことや最低限の礼儀ならまだしも、歴史や詩学などについて教えることも学ぶこともできないと思われる。さらにジェンダー的なことを言うと、やはり、家の中のことをするのは女性のやるべきことという概念をコメニウスはもっており、現代の共働きが当たり前の世の中については想定されていないことがうかがえる。

 29章から31章の内容については、それぞれの4つの学校について述べている箇所で、詳述を控える。コメニウスは学生たちが学ぶべきものとして、当時のエリートたちの嗜みであった自由七科(リベラルアーツ)を挙げている。また、私が着目したのは、コメニウスが大学に行くべきだとしたのが、ラテン語の試験を突破した人間であるとしたところだ。今でいうセンター試験や共通テスト的な概念が構想としてあったのかもしれないと思われる。

 32章では、学校の普遍的な秩序について述べられている。ここの内容については、訳者が物議を醸したと述べているように、印刷物のように人間の能力をコピーするのが学校のあり方だ的なことが書かれている。

 第33章では、自分の思い描くような学校をつくることを各界に要請している。

 

まとめ


 前回書いた内容と一部重複するが、コメニウスの教育観や提案は現代では当たり前になったことが多く含まれている一方、キリスト教のその中でもさらに狭い枠の中にはまった概念を押し付けがちかつ集団主義的・母性主義的・権威主義的で、その目的とする知識・道徳・敬神の三自我(人格)の形成と矛盾するような教育法の主張がされているのではないかという考えを抱いた。

 また、現在の常識でもあるし、貧しい時代だからの発想であるとは思うが、能力主義や物質的な豊かさ≒善であるという思想の傾向が見られ、厳密なキリスト教的にも現代の状況からみても受け入れられないものであると考えられる。

  


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