切なさの恍惚と愛。
終わりゆくもの
いつかはお別れ
儚くちりゆく
すべて夢だった
叶わない恋
そんな言葉にグッときてしまう気持ちに
きがつきました。
こんな言葉を好んでいたのは
とくに幼い時にあった気がします。
わたしはこどものころから、
景色では
田舎、線路、夕暮れ、夏休み
などのノスタルジックなものに惹かれ
出来事では
時代劇で戦い、死んでいく武士
厳しいしきたりの中で運命を受け入れる人々
病気や時代背景などの逆境の中で頑張って生きること
に、切なさという思いを馳せる。
音楽でも
『ありがとうと言えば、
永遠にさよならになる』
そんな松たか子さんの歌も切なくて
大のお気に入りでした。
寂しさや切なさ。
そこにどこか甘酸っぱさと
心地よさを感じてしまうのです。
最近では、エモい。
という言葉が便利です。
特に
『二度と戻らない、子供時代』
というワードも子供の頃から
切なくて大好きでした。
いつか大人になる。
この無邪気さも
この自由さも
子供のうちだけ体験できるんだ。
大人は我慢だ。
自分を隠す。
遠慮する。
不自由だ。
そんな風にも思っていたんだと思います。
だから、私の子供の自分への執着はとても大きかったのだと思いました。
『もう戻らない時代。』
私たちの意思とは別に
時間は進んでゆく。
そのむなしさ。
私は内観をずっと続けていて
自分の潜在意識と対話してきました。
それは、とある男性との出会いから
霊性開花がはじまり、
自分の隠してきた感情や思考を
とことん突きつけられる出来事が
何度も押し寄せて
向き合わざるをえなかったのです。
自分が今まで向き合えなかったから
向き合ってこなかった感情を
日々向き合うのですから、大変苦痛です。
その日々のなかで
光の道標となったのが
『それでも私は、幸せを選ぶ。
私を幸せにすることにコミットし続ける。』
という最初に設定したものでした。
何年も、毎日泣き続けました。
娘の前でも、笑っていられない日も多かったです。
けどこの日々を超えて
今では『幸せ』というものが
自分の信念とよべるものになったと
思っています。
だがしかし、
わたしが苦しくて捨ててきた思い
幸せになるために捨ててきたマインド(思考)
その捨てた先に
この、切なさにキュンとしたいマインドが
出てくるわけです。
『実らない恋』
『失恋』
というものに、トキメキを感じてしまうわけです。
これがいつかのマゾヒストになってしまった
私の根源でもあるのかもしれません。
幸せや愛を渇望しながらも
切なさのエモーショナルに心ときめかせ
自分の人生のストーリーを
切ないものに仕立てた。
そう仮定すると
すぐ死をみるわたしのメンヘラ人生と
離婚からの憎しみ劇。
いつも、どこかでモメて
私、大変だけど頑張ってるもん。
という状況を作り出す。
よく、
問題は自作自演。
現実は自分の潜在意識が作り上げている。
そういいますが
本当にその通りなのだと思います。
人の心って不思議。
完全な幸せや喜びを求めてないのか?
私は仕事で問題解決をする相談員をしていますが
自分のこう言った経験から
目の前で苦しそうな人々も
実はこの問題もこの人にとっては
都合が良いものなのだろう。
そう思えることばかりです。
そして、支援をしたい人たちもまた
自分が助けるという現実を描き
他人を介してヒーローを
体験しているのだろうと思えるのです。
けど決してそれは悪いことではないのでしょう。
ネガティブな思いこそ
人である醍醐味なのだから。
私たちは完璧な世界を望んできたわけじゃない。
完璧な人間をやりたいわけじゃない。
葛藤こそやりにきている。
私はそう思うのです。
幸せになりたい
苦しみたい
そのあいだで揺れてゆく。
そこで、重要になるのが
あなたは、どうしたいのですか?
という問いかけなのです。
私は
その揺れの中で何度も何度も
自分の心を確認してきました。
『わたしはそれでも愛を選び続ける』
そう決め続けた。
揺れる中で、選び続けたこと。
それが、揺るぎない信念となるのです。
わたしは
寂しさや切なさ。儚さ。
それに幼い頃から酔いしれた。
とある心理学者は
『終わりがあると感じられるものに
人は幸せを感じる』
と言っていた。
でもね、そんな終わりゆく運命なんて
トキメクのかもしれないけど
終わりに意識をむけるのって本当の幸せ?
愛かしら⁇
わたしは、
全身全霊で
この体で
この私で
愛の悦びを体験したいのよ。
愛の気持ちよさを味わいたいの。
だから、
すすむの。光の方へ。
永遠があるのか
確かめに行くのよ。