標準語なき、言語は存在し得るか。


この度、岩波文庫で新訳の「他者の単一言語使用」が出たので、読んでみた。

私が一言でまとめた要点は、タイトルの通りである。言語のヘゲモニー性、本国性、神聖性、規律性。個々人の、その家族の、その地方それぞれの言語や言語感覚があるはずだし、それが無数に無限に蠢いて良いはずだが、なぜか言語には必ず?標準語がある。より洗練された?、公式の?言語がある。標準語の成立と国家は無関係ではないだろうが、そもそも言語には権威主義的な、国家主義的な性質があるのではないかとデリダは見ている。
言語はある種の法であるがために、洗練され鍛錬されていく運命を有し、人間が洗練し鍛錬したくなるような性質を有している。そうすると、より正しい、正当な言語という概念が表れ、時の権力者は、法は、個々人が持つ固有?の土着の言語を常に検閲し、校閲し、常に主を意識させようとする。そうさせるのは国家であり、教育システムであり、その結果の自分自身なのである。
普遍性(エクリチュール)は、極在性(パロール)を覆い隠す。この問いは、実存への問いである。タイトルの問いはこうも言い換えられる。価値は、普遍性によって担保されることがあり得るのだろうか。

この文はAmazonレビューに私が記載したものである。

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