ラグスピ

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最近の記事

現代思想の偶像崇拝。

 私は現代思想(特にラカン、デリダ)が大好きであるが、現代思想的思考によって(あるいは潜在的に?)生まれた考え方、手法にはうんざりしている。  まず「外側を考える」というのは、考えられないからこそ外側なのである。ラカンはそこをよくわかっており、捉えきれないから代数として未処理のまま、他の計算(記述)できるところだけを記述したのだ。デリダは、内側を揺らがせて外側の存在を匂わせるに留ま(れば良か)った。  そして「外側を考える」というのは、内側から逃走することではない。ドゥルーズ

    • 占い、タバコ、子ども、推し活、その共通項は生きる意味。

      人は、根拠がないと不安である。 どうして占いにハマるのか。 どうしてタバコを吸うのか。  それは生きる理由が得られるからに他ならない。 空腹のときに、美味しいものを食べる。 誰がそのときに生きる虚しさを感じるだろうか。そこにあるのは充実に他ならない。 お腹が痛くてトイレを探しているとき。 誰がそのときに死を恐れるだろうか。 そこにあるのはやはり充実に他ならない。 自分の行動に対する根拠。 それさえあれば、人生は充実するのである。 虚しいときを、思い出して欲

      • 女性のために男性を保護しよう

        それしかないのだ。保護される側でいる限り、発展途上国はいつまでも発展途上国である。守られる弱者になってしまう。 「女、子ども」と言われず、「男、子ども」と言ってやろう。 そのためにすべきことは男性批判ではない。 男性をバカにするCMは許される。 女性をバカにするCMは許されない。 この現状を逆転しなければならない。 女性をバカにするCMが許されて 男性をバカにするCMを許されないようにしよう。 男性を守ってあげよう。きっと男性はそこに甘んじる。そのとき初めて、

        • 人間関係

          人間関係というのは、「私」と「あなた」という表記ではまったくの不正確になる。 「私」と「あなた」の境界線が曖昧になる。この地点を、「関係」というのである。 曖昧になりきったら、「関係」ではなく、「融合」である。 「融合」の結末は凄惨である。どちらかの個が保てなくなった状態。それは物理的なものから、精神的なものまで、どちらかの個が完全に崩れた(もう一方に飲み込まれた)ときである。 「私」と「あなた」 の ままでは なんの関係も生まれない。 「私」と「あなた」 が 溶け

        現代思想の偶像崇拝。

          生きてる意味は、ストレスの強弱の話です。

          「生きる意味」について考えるのは、基本的にストレス(自分にかかる刺激)の強弱の問題。 ①学生に多いパターン  → 人生がパターン化され、生命の危機にさらさ                              れないため、ストレス不足により、生きてい               る実感が沸かなくなる。 ②ブラック企業パターン → ストレスが強すぎて、自律神経が失調してし                  まい、ストレスから抜け出すための方法とし             

          生きてる意味は、ストレスの強弱の話です。

          やりたいことは、探しても見つかるわけもない。

          やりたいことがないというのは、まったくの錯誤である。人間は、その性質上、誰かや状況に強制されない限りは、大した行動ができないようにできている。 あなたは、「YouTubeを見よう」「漫画を読もう」と、強い意志を持って行動しているのだろうか。なんとなく、それらのことを行ってしまっているはずだ。 人間ができる自発的行動はそんなものだ。「よし!やろう!」というタイプの行動(嫌な勉強やツラい練習など)は、環境的にそうせざるを得ないか、誰かに強制されていない限り行うことはできない。

          やりたいことは、探しても見つかるわけもない。

          多様性って規制緩和のことだよね

          エントロピーとネゲントロピー とか 誰でも入れるサークルはサークルか とかそういった類の問題だよね。 その限界をはっきりと意識するために、「規制緩和」って言いかえたほうがいいんじゃないかな。 「なんでもあり」ではないよね。誰でも多様性で許されるなら警察や倫理はいらないもんね。 今までの【大人】が許容しなかったもの(LGBTとかジェンダーとか)の範囲が広がっただけだよね。 というより規制するだけの力を国民が国に与えなくなっただけだよね。国に頼る必要がなければ、国に国民を管理して

          多様性って規制緩和のことだよね