20. 余韻の向こう側
私のnoteでは、かつての芸人時代の体験を物語として綴っています。本日のテーマは「舞台の光と影」です。最後までお付き合いいただければ幸いです。
ネタが出来上がるまで
ネタが仕上がるまでの過程は、まるで一つのドラマのように複雑で興味深い。良い台本が書けたと感じても、それはあくまで始まりにすぎない。
まず、台本を叩き台にして、さらに練り直す。この作業の中で、元の形がわからなくなるほど大胆に変わることも少なくない。
やっと形になった台本も、まだ道半ばだ。相方と声に出してネタ合わせをし、舞台にかけるうちに少しずつ進化して生まれ変わる。
僕がこの過程で特に好きなのは、舞台での反応を見て「上手くいかなかった部分」に手を入れる作業だ。
テンポが悪い箇所、噛み合わない台詞、ウケなかったフレーズ。それらは全て「改善の余地」がある場所であり、解決すべきポイントなのだ。
だから、ネタがウケなかった日は、まず問題点を洗い出して改善に専念した。その作業が何より楽しかった。問題点を一つひとつ解決していくことで、精度も自然と上がっていった。
そうして気づいたのは、「ネタがウケなかったのは相方のせいだ」とは考えなくなったことだ。僕の座右の銘は「人を責めるな、仕組みを責めろ」。トヨタの教えであるこの言葉が、まさにネタ作りの本質を表していると感じる。
この、問題点の洗い出しと改善の面白さに気づけたことは、社会人になってからも大いに役立っている。どこであれ、改善は常に必要なスキルだからだ。
舞台の中毒性
舞台とは、一度足を踏み入れると、まるで禁断の薬物のように心を奪う場所だ。出番前に襲いくる、胸を締め付けるような緊張、そしてウケなかった時の焦燥感――本来は避けたいはずの感情なのに、その中毒性からどうしても逃れられない。もしかすると、その魅力は薬物をも凌ぐものかもしれない。
舞台は、心の奥底に蓄えたすべてのエネルギーを解放する場所だ。あの瞬間に味わう快感は、他では決して埋められない。
目の前でお客さんが笑ってくれる。その瞬間こそ、この世で一番の幸せだと感じる。身体も心も歓喜に震え、笑い声が響くたびに自分が生きていると実感する。そして、盛り上がった日のライブは、まるで会場全体が揺れているかのように感じるのだ。
だが、その快感も長くは続かない。ネタの時間は決められている。歓声の渦に包まれても、それは刹那の夢に過ぎない。
興奮と孤独の繰り返し
舞台での出番を終えると拍手の嵐が耳に響き、観客の笑顔と歓声が自分を包み込むように感じた。今日の漫才は、自分でも納得のいくものだった。心の奥で燃える小さな火が、一気に大きく燃え上がった瞬間でもあった。
けれど、不思議なことに、ネタが滑った日よりもウケた日のほうが、心が空っぽになることが多かった。
滑った日はすでに次の改善策を頭の中で練り始めているからだ。けれど、笑いが大きければ大きいほど、なぜか虚しさが押し寄せてきた。
駅からの帰り道、ぼんやりと街灯の光を見つめながら、胸の中に何かがぎっしりと詰まっているのを感じる。住宅街に入り、家が近づくにつれて、寂しさがじわじわと重みを増していく。
途中、カレーの香りが漂う家があった。窓の向こうから、子供たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。その様子を横目に通り過ぎるたびに、心の隙間がさらに広がっていくようだった。
舞台の上で照明を浴びて輝いている自分と、普段の自分。そのギャップが今さらのようにのしかかる。家のドアを開けた瞬間に押し寄せる静寂が、ひどく重たく感じた。
僕は冷凍しておいたコンビニバイトの廃棄弁当を温め、缶ビールをあけた。湧き上がる孤独に、押し潰されそうだった。頬を一筋の涙が伝う。成功の喜びが、孤独をさらに際立たせることになるなんて、誰が予想できただろうか。
ネタの成功で得た喜びの裏に、言葉にできない寂しさが静かに潜んでいた。それは波のようにじわじわと胸を叩き、心を締めつけた。笑いの渦の中で感じた孤独が、ふとした瞬間に顔をのぞかせる。成功の光が強くなればなるほど、その影は暗く濃くなるのだった。
ふと、思う。この孤独は、舞台の上での成功と同じくらい自分にとって不可欠なものなのだと。笑いが生む影を理解することで、僕は初めて、舞台の光がどれほど儚いものであるかを知った。だからこそ、次の舞台に立つ日を心待ちにした。この光と影の狭間で、僕はまた自分を見つめ直すのだ。