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反抗・「君たちはどう生きるか」─敬愛を込めて

宮崎駿「君たちはどう生きるか」を7月に観た。
そしてその後、タイトルの元作品である吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を読んだ。

そして思った。
そんなこと言われんでもわかっとるわと。
そして、宮崎駿先生は私を見てはいないが、世界をそう(もう大事なことはわかっていると)、信じている、と。

以下の記事はふたつの「君たちはどう生きるか」を繋ぎ合わせ、時には文句を言い、反抗し、合っているかは分からないが、ともかく「私はこう生きます」と全力投球で投げ返す記事である。
両作品のいわゆる「ネタバレ」が十全に含まれるので、自分で知りたい人は触れないでほしい。


※なお、宮崎監督の「崎」はたつざきですが、環境優先で一般的な字を使います。

1.映画は、何を言っていたのか

宮崎駿「君たちはどう生きるか」は、異例の無宣伝で上映されたこと自体で話題になり、そして様々な鑑賞者に内容読解に頭を悩ませた

映画を鑑賞した人と話して思うのだが、受け取り方が非常に多様だし、人によって大きな感動を受け、人によってはいまいち伝わらない映画だ。

そういう映画なのだとは思う。それ自体が意図されているとも。

▼宮崎駿も訳がわかってないコメント

ただ、私は少なくとも一回鑑賞の後味として、こんな感想を抱いた。

『これは、ものをつくる人宛のラブレターだ』

それは、私自身がnoteを書いたり、仕事でクリエイティブに関わったりするからかもしれない。
ただ、私宛てに受け取ったのではない
特に、宮崎駿がアニメ界に生み出してきた、たくさんの『子どもたち』へのラブレターなのだと、私はまずそう理解した。
(これ以上の解釈は、6.でふれるので、いったん読み進めてほしい。)

2.宮崎駿と『子どもたち』

私は物心がつく頃、「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」を観ながら育った。
三鷹の森ジブリ美術館には小学生の頃何度か行った。
中学生になり、「もののけ姫」に痺れ、学校ではハウルが流行り、高校生のとき、ナウシカの漫画を読んだ。

全作を制覇しているわけではない。
それでも「宮崎駿」という「時代」に触れずに育つのは、私たちの世代の子どもにはもはや難しいことだっただろう。

そして、同世代、あるいはもう少し上、宮崎駿と同年代までの多数のクリエイターたちにとっても、それは同じだ。

スタジオジブリは解散し、スタジオポノックを筆頭に様々な会社に、制作陣は分散した。

私は「STUDIO4℃」の「海獣の子供」(渡辺歩監督)が好きだ。

そして「君たちはどう生きるか」を鑑賞した諸氏は、ある程度お気づきだろうか。
エンドロールにはこれらのスタジオが、製作協力として名前を挙げられている

また「新世紀エヴァンゲリオン」「シン・シリーズ」の庵野秀明監督がスタジオジブリ作品に関わってきたのは、「風立ちぬ」ファンであれば周知の事実かもしれない。

「秒速5センチメートル」「君の名は。」の新海誠監督も、「僕自身、ジブリ作品から受けている影響はすごく大きいです」「それはある程度自覚的にやっているという部分もあります」とコメントしている。

この新海監督のインタビューが象徴的だろう。

ジブリ作品はあらゆるアニメ制作者にとって一番大きな存在でもあると思いますし、日本人にとっても、もう日本人全員が知っているブランドですよね。

同上インタビュー記事, 2023/8/12確認

ジブリ作品は、あらゆるアニメ制作者にとって、憧れであり、出身地であり、比較されたり乗り超えたい、巨大な壁であったと思う。

そして、これらの背景をふまえて映画「君たちはどう生きるか」に立ち戻ると、大叔父様は言う。

「私の世界はもう保たない。君たちが石を積みなさい」

※なお、私の全ての映画の引用は、一回鑑賞ベースのメモと記憶から成り立っているので、誤っていたらのちほど修正する。

主人公、眞人に渡された石の数は13個。宮崎駿が監督として世に出した映画の作品数だ。

大叔父様が、「引退しながら作品を作っている」宮崎駿と、重ねられていることは間違いない。
大叔父様の言葉に、眞人はこう答える。

「僕はヒミと一緒に帰ります。この石は受け取れません」

眞人は、大叔父≒宮崎駿の世界を継がないことを選ぶ。
しかし、大叔父はむしろそれを愛おしそうに、慈しみを込めて見送る。

「この石が墓場の石だと、分かる君であれば大丈夫だ」
「石の積み方ひとつで世界は変わる。美しくも、厳しくもなる」

眞人は現実に帰り、最初は相容れなかった、自分の家族とともに生きていくことを選ぶ。
しかし、彼の中に冒険の記憶は間違いなく残っている。
意地悪なアオサギは、いつか忘れますよ、と囁くが、彼だって冒険を一緒にした、眞人の不思議な仲間なのだ。

私は鑑賞しながら、いつしかボロボロ泣いていた。
自分自身の思い入れではない。それも無では無かったが、私自身が他にも鑑賞し、生き方に影響を受け、感動してきた様々な作品の作り手たちが、ジブリ出身であることを思い、彼らがこの作品をどう受け取るか、勝手に想像して泣いたのだ

「新世紀エヴァンゲリオン」も、「海獣の子供」も、「すずめの戸締まり」も、美しい作品だった。

そこにどれだけ宮崎駿という巨匠の影を、鑑賞者の私たちが、あるいは監督たち本人が感じようが、その世界は彼らが積み上げた石のおかげで美しい。
そして、宮崎駿の世界とは他者どうしであり、異なった世界なのだと

宮崎駿は、それを信頼して、「君たちはどう生きるか」という問いかけを送り出しているように見えた。

もう大丈夫だろう、私がいなくても、そんなに成長した君たちは、自分の世界のつくりかたを見つけているはずだぞ、と。

そして、それはとりもなおさず、子どもだった宮崎駿が、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』から受け取ったものとも重なるのではないだろうか。

3.吉野源三郎『君たちはどう生きるか』と、宮崎駿

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』は、実に86年前、1937年に初版が発行された岩波少年文庫の小説である。

前掲の「好書好日」のインタビューでも、宮崎駿が、本書を愛読していたことが語られている。
また、宮崎駿の経歴を追っても、映画で本書に出会い、心から感動していた主人公・牧眞人は、大叔父と同じくらい、宮崎駿自身と重ねられている。
戦時の生まれ育ち、航空機を作る親。
大叔父様だけでなく、眞人の体験を通じて監督が自分を描いているのは、上掲「好書好日」のインタビューでもふれられている。

では、小説『君たちはどう生きるか』のほうはどういう作品かというと、少年・コペル君と叔父との書簡を交えながら、聡明なコペル君が自分の思う「よい人間」へと成長していく過程が描かれた本だ。

たとえばコペル君は裕福な生まれ育ちであり、庶民の同級生がいじめられていることに義憤を抱き、友情を結んでいく。
それに対して叔父は言う。

僕は君の話を聞いている間、君のしたことにも、君の話しっぷりにも、自分を浦川君より一段高いところに置いているような、思いあがった風が少しもないのに、実はたいへん感心していたんだが、それは、君と浦川君と、二人が二人とも、素直なよい性質をもっていたからなんだろう。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎,岩波文庫,2023/4/24刊(96刷),「四 貧しき友」より,p128

裕福な家の子であった眞人や、宮崎監督は、どんな気持ちでこの章を読んだだろう。

また、小説終盤には主人公・コペル君が、友達を助けられなかった自分を悔やんで寝込むくだりがある。恥ずかしさのあまり死んでしまいたい、とまで調子を崩してしまう。
これは、なんとなく、映画の眞人が、同級生と喧嘩した帰り道に自らの頭を石で殴り、寝込んでしまったのと似ている

自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。「王位を失った国王でなかったら、誰が、王位にいないことを悲しむものがあろう。」正しい道義に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流しはしないのだ。

同上,「七 石段の思い出」より,p.256

小説のコペル君は、友達に手紙で行いを詫び、また元気に学校に行けるようになる。
個人的に、映画の眞人はここを読んで泣いたのではないかと思っている。(注:下に2023/8/22追記あり)
眞人は映画終盤、大叔父に、自分が学校に行きたくなくて、自らを傷つけたことを告白し、大叔父はそう恥じることのできる眞人を肯定する。
ここには、共通して、「彼ら少年が悩み、苦しむのは、彼らが立派になりたいという心がけを持っているからだ」という信頼と愛が流れている。
宮崎駿自身が、自叙伝的に眞人に自分を重ねていたのなら、これは「自らが悩んできた日々も糧である」と宣言し、同じことを後の世代の子どもたちに語りかける祈りのシーンでもあるのだろう。


2023/8/22追記: きちんと観ていらっしゃる方がいた。該当ページが映ってるようです。


小説『君たちはどう生きるか』は、出版当時から脈々と、少年小説を愛する人々に読みつがれてきた名作だ。
宮崎駿が、ここから受け取ったものを、次の世代へと繋ごうとする軌跡が、私には薄っすらと見える。

4.とは言ってももう古いよ、宮さん

とは言ってももう『君たちはどう生きるか』は古いよ、というのが、私の「反抗」である。宮崎駿大先生。

1937年、日中戦争、そして第二次世界大戦への日本の関与を決定的にする、盧溝橋事件が起こる

この小説は、その皮切りを目前にした軍国主義的な時代感の中で、一人の人間が相争うのではなく、どこまで世界の中で良いはたらきができるかという、子供たちへの啓発書の側面を持っている。(岩波文庫『君たちはどう生きるか』作者あとがき参照)

めちゃくちゃシンプルに言ってしまうと、日本がまだイケイケドンドンの時代の本であり、ついでに言うと裕福な家庭向け教育書・あるいは裕福な家庭から労働者向けの、ねぎらい本なのである

たとえば、コペル君と叔父さんのやり取りの中に以下のようなくだりがある。

しかし、自分が消費するものよりも、もっと多くのものを生産して世の中に送り出している人と、何も生産しないで、ただ消費ばかりしている人間と、どちらが立派な人間か、どっちが大切な人間か、──こう尋ねて見たら、それは問題にならないじゃあないか。生み出してくれる人がなかったら、それを味わったり、楽しんだりして消費することは出来やしない。生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ。

同上,「四 貧しき友」より,p.139-140

私は現代の読者として、ここに若干の引っ掛かりを覚えた。
これは、時代背景を踏まえれば比較的明白なメッセージである。

1930年代、日本は重工業経済が急成長し、様々な財閥が生まれていた時代だ。
コペル君の父親も、銀行の重役であったという、当時としては大富豪である。
この時代、『ものを生み出す人』の価値は今より高かったのは想像に難くない。

わかりやすい例として……
この本が書かれた昭和60年(1985年)頃、第一次〜第二次産業従事者の割合は、過半数でこそないものの、労働人口の42%だ。
それが2015年には27%にまで減少している。
当時のほうが、農林水産・工業に携わる人材を尊重することに意義があったのは間違いない。

つまり、『君たちはどう生きるか』は、時代背景を踏まえ、持てるものは持たざるものに対して何ができるか、そして持たざるものがどれだけ尊いか、という、一種ブルジョワジーのノブレス・オブリージュ的な視線を含む作品なのである。

どうだろうか。
ちょっと2023年現代人が読むと「うるせぇよ」と思わないだろうか。
軍国主義はもはや過去とちょっと変わった人のものになり、先にも述べたように、職業に貴賤がないという考え方も、ある種「常識」のかたちになった。
また「若者の貧困」を訴える声も出て久しい。
もはや本来啓発される層であった若い世代に、ブルジョワジー的思想はなじまないのである。

ただ、映画と小説、二作品を語る記事としては大事なことがある。
宮崎駿は映画にはこのブルジョワジー思想を持ち込んでいない。私にはそう見える。
宮崎駿も、もはや自分がふれてきた世界観が古いことは理解っているのだ。世界の崩壊を予期していた大叔父様のように。

5.そんなこと宮さんは分かっている

眞人は裕福で、だから学校に馴染めない場面もある。
しかし、そこに特に、経済的弱者と強者といった分断は示されていない。

宮崎駿が小説『君たちはどう生きるか』から持ち込みたかったのは、あくまでインタビューにある通り、少年の葛藤と成長の生々しさなのだろう。立場がいかにコペル君と眞人、あるいは監督自身で似かよっていたとしても、メッセージ性は極力排除されていた。

あくまで登場人物たち自身の生を描き、「君たちはどう生きるか」という問いは、答えを自由に開かれた状態で鑑賞者に託された
説教臭さは全くない作品だった。少なくとも私にとっては。

私はその問いが、自分ではなくアニメ界の『ものをつくる人』に向けられているのを先に受け取った
ここだけは、小説『君たちはどう生きるか』の「生み出す人」への尊重が、アナロジー的に重なり合っているかもしれない。

けれど、それ「だけ」の作品であれば多くの人に観賞される劇場で掛けることはない。
私は私もこの世界に生き、ものを作り、自分の世界観を持つ一人の鑑賞者として、自分がどう生きるかをアンサーしたいと思う

6.私はどう生きるか -私の作品解釈

「私はどう生きるか」。
それが、映画「君たちはどう生きるか」と宮崎駿監督への、私の最大の「解釈」であり、「反抗」であり、「敬愛」であり、「願い」である

映画のラストカットは、小説『君たちはどう生きるか』の表紙と眞人の家族だ。
それは眞人が選んだ生き方、原作小説の主題へのアンサーとして映る。

小説『君たちはどう生きるか』のコペル君は、叔父さんにこんな問いかけを投げられている。

君は、毎日の生活に必要な品物ということから考えると、たしかに消費ばかりしていて、なに一つ生産していない。しかし、自分では気がつかないうちに、ほかの点で、ある大きなものを、日々生み出しているのだ。それは、いったい、なんだろう。

同上,「四 貧しき友」より, p.141

これが小説『君たちはどう生きるか』の主題である。

ここには、先ほどもふれたモノ経済の時代背景が流れている。
が、小説の最後に置かれたコペル君のその答えは、現代にも通じる名作の普遍性を持っているだろう。

僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を一人この世に生み出すことは、僕にでも出来るのです。そして、そのつもりにさえなれば、これ以上のものを生みだせる人間にだって、なれると思います。

同上, 「十 春の朝」より, p.297

コペル君の思う「いい人間」像は、小説全編を通じて順に描かれる。
友に誠実で、己に正直で、境遇を恥じず、人に手を差し伸べ、過ちを認めながら進む人間。
ここには映画「君たちはどう生きるか」の眞人も重なり合う。
なにせ「まことの人」と書いて眞人だ。

個人主義・自由主義が「常識」の側になった現代では、これはある意味「普通」の答えだ。
だが、小説のこの言葉は、日中戦争の真っ只中、軍国主義に傾く日本の中で書かれたものとして、ズシンと響く。宮崎駿監督にとっても、眞人の生き方は重々しいリアルだったのだろうと思える。

ただ、コペル君は書いていないが、私にはコペル君が/眞人が生み出す、もう一つのものが見える。
彼が、自分の思う「いい人間」であることが、周りの心を動かして、その人もその人が思う「いい人間」になろうとすること。つまり「影響」である。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

同上, 「十 春の朝」より, p.298

すべての人は言葉や行動を与えあい、おたがいに意識下・無意識下問わず、感化し合いながら生きている。
だから誰かがより自分の生き方に芯を通し、向かいたい場所に向かえばそれが他者にも影響を与えることは、コペル君自身が友人や家族との関係から体得している。

コペル君は、粉ミルク缶の観察を通じて、すべての人は生産-消費を通じて繋がっているという感覚を覚えている。
これをコペル君は「人間網目の法則」と名付ける。そのコペル君ならきっと、自分の行動が伝播していくことも理解して願いを綴っているだろう。

残念ながら、コペル君が願う時代はまだ来ない。

人と人は現代でも、このときよりはるかに進歩した通信技術で、瞬時に繋がり合いながらいがみ合う。

たとえ国を超えて、翻訳アプリやオンライン通話を使いながら、個々人の仲が良くても、無情に戦争ははじまる。

それでも、私も、自分が世界に生み出したいものを、想像力、と呼んでいる。

それはコペル君流に言うと、網目を通じて他者を感じる力だ。
そしてあなたの「いい人間」とは何かを、それぞれに気づかせる力。
それを通じて、すこしでも世界をみんなにとって良くする力。

私が「気づかせる」「良くする」などと偉そうなことを言いたいのでない。
「想像力」は世界に既に確かにある。
私はその力を信じる人でありたい、と思っているのだ。

宮崎駿監督の映画からも、私は「想像力」への願いを受け取った

▼参考: 私の「想像力」観は、以下の記事で最も詳しく説明している

眞人は、母親の死や新しい母、学校生活を受け入れられないとき、小説『君たちはどう生きるか』に出会う。
彼はそれに感化され、泣きながら、アオサギがただのサギではなく人の言葉を喋る怪物だと気づく

眞人はアオサギを追って、「本を読みすぎておかしくなってしまった」大叔父様の塔に迷い込む。
しかしその塔は、不思議な世界に繋がっていた──

私はこの物語構造に、ギレルモ・デル・トロ監督の「パンズ・ラビリンス」を思い出す。

「パンズ・ラビリンス」では、戦時中、主人公の少女の母が再婚し、新しい父は軍人で、家庭を理不尽を息苦しくする。
少女はその中で悪夢を見るように、あるいは誘い込まれるように、ファンタジーの世界に迷い込む。
筋書きは眞人の経験とよく似ている。

この物語は、苦しい少女が生み出す幻覚や、せめてもの逃避の想像なのか、それとも本当にあった地下世界なのかで、視聴者の間でも解釈が分かれる。
「君たちはどう生きるか」も、同じ性質の作品であると私は思う。

アオサギは、眞人が周りに心を開けないうちは攻撃的だ。
しかし、眞人が迷わず人のために行動し、背筋を伸ばし、己の愛せるものを増やしていくごとに、可愛くコミカルな味方に変わっていく。

これは、「想像」そのものの性質であると私は思うのだ。

周りを信じられないとき、想像力は己を攻撃する。
自分が悪いんじゃないか。どこかで間違ったんじゃないか。誰かが自分を騙しているんじゃないか。

しかしそんな想像の世界の中だとしても、または現実で実際にぬくもりを感じたのだとしても、
愛せるもの、ときめくもの、手を差し伸べてくれるものを見つけたとき、心には希望の光がさす。
眞人にとっては、キリ子さんやワラワラだろうか?
それからもちろん、ヒミ≒母。
彼がそれらに愛され、愛を返し、受け入れるごとに、徐々に他にも受け入れられるものが増えていく。彼をとりまく世界には楽しめることがあふれていく。

映画「君たちはどう生きるか」が私達に届けているものは、少年が想像を通じて再生していく過程なのだ。

そして同時に映画全体は、宮崎駿監督の「想像の世界」である。

眞人の冒険パートに、多くの人が、過去のジブリ作品で見てきたようなワクワクを見いだす。
具体的な作品を思い出す人もいれば、自分の子供時代の想像を思い返す人もいる。
私達は、眞人が想像の世界で立ち上がっていく姿を観ながら、宮崎駿監督自身の「想像」の中に、現実からダイブさせてもらう

先にも言ったように、私はこの作品から、広く一般へのメッセージより、『ものをつくる人』へのメッセージ性の方を先に感じてしまう。
だが、多くの「心ときめく想像」を生み出してきた宮崎駿監督が、この構造で映画を届けてくれたことを考えると、私は、その部分はすべての人に通じるメッセージだと思うし、嬉しくなる。
自分が今まで人に届けてきた想像が、どんな願いを込めたものだったか、ちょっとだけ耳打ちしてもらったように思うのだ

大叔父様は言う。
この世界を作る石は、積み方次第で世界を美しくも、厳しくもする。
けれど、自分でこの世界を継ぐかどうかを選べる眞人なら、大丈夫だ、と。

あなたの想像は、方向次第で世界を美しくも、厳しくもする。
けれど、この作品を受け取って、自分の生き方を考えてくれたあなたなら、大丈夫だ、と。

こんな読み解きを通せば、この映画は、この世に生きる、ものを生み出す・生み出さないなんてこととは関係がなく、すべての人間への応援歌たりうるのではないかと私は思う。

そして、私は小さな反抗をする。
ものを生み出さない人間などいない。
偉大なクリエイターはもちろんいて、私も泣いて感情移入するほど偉大だが、そんな彼らも自分を取り巻くすべての人が生み出した、「影響」を受けながら生きている。

私は今日も誰かが作る網目から、想像力を受け取り、生きる力にして生きている。

その網目の一つにこのnoteもある。
これが、私の「君たちはどう生きるか」への答えである。


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