東京大学に入って思うこと(二回目)
東大生になりました。
noteに書いたことはなかったけど、二度目。文学部修士課程です。
2018年に学士を卒業したとき、
「研究などということは二度としたくならないだろう」
と思っていました。
卒論レベルでも伸し掛かる自分の力不足、期日への焦り。
やることを上から決めてもらえる社会という機能に、有り難さすら感じながら卒業したはずでした。
結果はまあ、社会には社会のつらさがあった。
自分は思っていたよりも好きなことしかできない。
「好きだったのに、やらないの?」と不思議そうに言われると、そうだったのかと今さら自分の選択を思う。
そんなわけで、ついに受験し直してしまいました。
18歳のあのとき、22歳のあのときにはわからなかったこと。
それがわかるようになった今、改めて東大という学府について話してみたいと思います。
思い出というよりも、確実に今の私をつくってきたものを振り返るつもりで。
本記事は二度目の大学生活に突入した私の、「東大」(おそらく学部によって異なるため、「文学部」)への思いの記事です。
東大新入生、分野が近い人、これから東大や教育界、アカデミアを志す人たちの、参考になったらうれしい。
なお、今後「東大生noter」としてやっていく気はあまりないので、コンテンツとしては今回が特殊です。
東京何もしてくれない大学
東京大学内部にいると、頻繁に学校としての自虐で語られる点がある。
東京大学は、何もしてくれない。
制度や福利厚生は、たいへん整った大学である。
奨学金や学費免除はもちろん、なんでも持ち込んでいい相談室、発達障害や生きづらさに悩む学生向けのサポートセンター。
「ちょっと困ったな」で検索すると、助けにするための仕組みがなんでも揃っている。
ただし、それらすべては、
「学生が自主的にアクセスすれば」
手に入るものである。
学校側が「奨学生ですか、こんな制度もありますよ」とか、「休んでるね、こんなサポートどう?」とかは、基本言ってくれない。言ってもらえたとしたら先生や先輩の好意だと思おう。
厚生面以外もそうだ。
成績の通知は来ないし、遅刻の時間管理もほとんどされていない。就活についてのイベントも、サイトには載せておくから、自力で見つけてくださいの姿勢だ。
「進振り」という独自の専門振り分けシステムがあるが、その攻略も自分で学んでいかなければとても追いつけない複雑さを持つ。
サボりたければサボりたい放題。それゆえ情報を取り落とすと泣きを見る。
大学というものの普遍的な部分といってしまえばそうだろう。
そもそも高校以前は学校のシステムを自発的に使うこともなかった。ちょっと調べれば原因が分かるログインエラーで泣いた記憶も数知れない。
ともかく私は地方でぬくぬくと育った高校生から突如、自分で情報にアクセスし、できなければ仲間から聞き取ることが必要な環境に放り込まれ、1年次などはほとんど、慌てているうちに過ぎていった。
さらに、社会人になってから、生きづらさや障害のことを知り、医療機関を利用するようになったのだが、学生に無料で専門的なサービスを提供してくれる機関が大学にあったと知ったのは、時遅くもその頃である。
あまりこういうことは言いたくないが、灘生や開成生はお互いに情報ネットワークがあり、助け合いを前提に東大に所属している。
「何もしてくれない大学」
この意識は、早くに周りを頼ることを覚えることで払拭できたのかもしれない。
けれど、東大が「何もしてくれない大学」であることは、実は東大が担う「自由」と背中合わせになっている。
ここからはその話をしていきたい。
手を放すのは、信頼
ある意味不親切な東大のありかたについて、私はそれでも根本的にはこうあるべきだと思っている。
なぜなら、東京大学は、
「ここに来ている学生は、自力で自分の行き先を決められる自律性がある」
という「信頼」のもとに、この姿勢で構えているからだ。
たとえば、その信頼は、生成AIの利用についての大学スタンスにも現れている。
「東京大学では,そのポジティブな側面を評価し」利用方法を探っていく姿勢が示されている。そしてメッセージは「学生の皆さんと一緒に,次世代の教育を作るチャレンジをしていきたい」と結ばれる。
「ネガティブな側面がある」からこそ「ポジティブな側面」という言い方をするのだ。
そのうえで学生には「単に楽をするために使うのでは意味がないということもよく理解しておいてください」と圧をかける。
この姿勢の裏側には、「あなたたち学生は、新しい時代が始まったとき、自分でそのありかたを探索し、よりよい世界を作る一員である」というメッセージが示されている。
AIの問題そのものについては色々な立場があろうが、いったん、個別の議論を脱出すると、東京大学が学生に与えているのは、常にこの「主体的な人間としての期待」であろうと思う。
東大が何も禁止しない素晴らしい大学だと言うつもりはない。だが、あなたたちには考える力がある、それをもって何をするかはあなたたち次第だ、という「意図的な信頼」は、確実にそれを投げかけられた学生たちの心に影響を与える。
自由の功罪
突然だが、「自由」というものをあなたはどう思うだろうか。
自由であってこそ人生だろうか。それとも家庭や職場を思い浮かべて、自分は不自由だ……と嘆くだろうか。
私は高校生のとき、「自由が嫌い」であった。
私の出身の中高一貫校は、「生徒たちの自主・自律を育むために、校風を自由にする」という理念の学校であった。
本当に実際、他の学校より校風が自由だったのかは、生徒たちの体感としてはあまり根付いていなかった。
「そんなこと言いながら宿題多いよね」
「結局金髪に染めてきたら怒るじゃん」
とはいえ、通常の公立校よりは茶髪やアクセサリーでのお洒落が許されていたし、先生たちの授業の仕方も各人の興味に委ねられていた。
とはいえ、その裏返しとして常に言われていたことが、
「自由には責任が伴う」
であった。
自由にしろと言われて規律を無視し、羽目を外すのは、実は規律を強く意識しているがゆえの行動であり、真実の自由ではない。
無限の選択肢がある中で、自分が選び取ったものに信念が現れる。それを受け入れ、考えることが自由だと、そういうことを口を酸っぱくして言う学校だった。
修士文学徒になった今思い返すと、ニヤニヤしながらニーチェやカントを引きたくなる思想だが、当時高校生の私の感受性では、これは
「ウザ……」
であった。
責任を被せるなら最初から選ばせなきゃいいじゃん。
私たちが考えた文化祭の企画、結局先生に口出しされたけど、本当に自由だったの?
そんなモヤモヤを抱えたまま東京大学に入ったから、私は当然、自由に学内の様々なリソースにアクセスしようという気など無かった。
それなりに幸福な人生への道は何もしなくても舗装されている気がしており、むしろレールから降りることを拒否していた。
だが、今にして思う。
レールの無くなった人生は、本当に自由だ。
私は新卒でなし崩し的に選んだ大企業を三年で退職し、webベンチャーに転職した。その後大学に入り直している。
意図的にレールの上を選ぶこと自体は何も悪ではない、レールの上を走ることだって大変な努力で、成果も伴うことだからだ。
けれど、私は偶然、そこでメンタルを壊してレールを降りてしまった。
こうして
「自分で選ぶ」
人生を迎えた今、
「あなたたちは『自由』でも大丈夫なはずだ」
という「信頼」を過去に投げかけられてきたことが、背中の支えになっている気がする。
余談だが、私の愛するドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』次男のイワンは、人間が自由に耐えうるという考えを信じていない。
キリストは、人間を信じて人間に自由を与えたが、逆に選択肢など奪ってしまったほうが日々の幸せを感じられるのだという思想だ。
高校生の私はこのくだりを読み、大興奮した。気になる方はがんばって文庫版上中下の上までは読み終わって欲しい。ちゃんと展開上の反論も用意されているから。
信頼された人間は伸びる
話を戻って、東京大学が学生に「信頼」を与えているということの続きだ。
東京大学出身の学生は、起業や研究、出世で社会的に活躍している数が多いという。
ここではあくまで日本国内の、一般論の話とする。
たいていのweb記事や下馬評では、
「やっぱり地頭がいいから」
「努力ができるから」
「コネがあるから」
と言われるが、本当にそうなのだろうか?
それも決して嘘ではないのだろう。
分析眼にすぐれた学生や、頑張ることが生きがいの学生。
多くの友達の手をつなぎ合わせて大きなものを作ることが好きな学生。
そうした人々が活躍するのを私も見てきた。
けれど、私は思うのだ。
彼らは、環境に
「信頼」
されてきたからこそ、頑張ろうと思えるのではないか?
東大を出ると、社会から嫌な
「期待」
をされるという話をよく聞く。きっと成果を出すだろうとハードルを上げられ、答えられないとがっかりされる。東大生側のフィルターも多分に掛かっているだろうけれど、起こることが想像できなくはない話だ。
私自身も愚痴のように話すことがある。東京大学出身ってことは、こんなテスト勉強しなくてもいいでしょう? 私達と話すのは馬鹿らしいでしょう? そう言われると返答が難しいし、むしろ凝り固まっていく自分の自尊心のことが悲しくなってしまう。
けれど、私がそうやってマイナスにとらえてきた「期待」のいくらかは、「信頼」だったのではないか、と今さら思う。
難しいことが、これから降り掛かるだろうけれど、あなたなら大丈夫。
そうであってほしい。立っているのは辛いことかもしれないけど。
大丈夫ではないよ、と泣き言を言いたいことが、私にはたくさんある。
新卒の会社では落ちこぼれた。転職した先でも人間関係でうまくいかないことがあった。毎日の生活や友達付き合いだって失敗する。人生をかけたと思っていた芸術活動はなんの芽も出さないままだ。
けれど、私はきっと大丈夫なのだ。
たくさんの人が、今まで私にそう言ってくれたのだから。
大丈夫じゃなくても、最後には大丈夫なのだ。
無根拠にそうとは思えないこともたくさん経験した。
けれど、だからこそ、私も誰かを信じる側でありたいと思う。できれば具体的に力になるように。
あなたは大丈夫。
つらいことがあったら助けられるように、いつも見てるよ。
でも、あなたにこんな力があるのを、私は知っている。
私が修める学問に関する言葉も書きたかったが、書ききれなかったので次に機会があったときにする。
世界で苦しむ人がひとりでも減り、笑っている人が増えますように。
東大再入学に寄せて。