眠れない日が続くようになった。 腫瘍が見つかってから2ヶ月。 体も心も疲れてきているのだろう。 仕事の合間にnoteに自分の思いを書きとめる。 自分のための休み時間かのかもしれない。 字を見ているだけで好き。 どんな成り立ちをしてこんな形になったのだろう。 由来は? 語源は? 字を見つめてくると心が落ち着いてくる。 数字もだ。 高校時代の模試。 ずっと因数分解をしていた。 終了時間が過ぎ来ても、だ。 肩を叩かれて、はっとした。 なので好きなことは 字を見ること。 数字を見
気になったこと、共感したいこと、 記入してます。 悲しい事、苦しい事、たくさんありました。 でも 自分で自分を大切にする毎日に していきたい。 海を渡る前に。 美容編。 お気に入り。 美容内服。 4時間おきのリポC。 シナール。 ユベラ。 ピドキサール。 ハイチオール。 美容塗薬。 ビタミンA。 ハイドロキシン。 塗薬は始めたばかりなので 経過報告中。 化粧品等はかかりつけ医に相談しながら 丁寧に肌を労わって浸透できるように。 髪もまた 丁寧にトイレで溶かして 炭酸
もう何十年来の幼馴染からじっと見つめられて言われた。 「あのさ、 今まで生きてきて いろんな事があったと思う。 学校を卒業して 1社会人になって 結婚して 母親になって。 無理に笑うな、とも言わない。 ただ 気になったことでさ、 ここ最近 好きになった事、者、事象、本、言葉、あった?」 はっとした私。 この2年間半、 ずっと泥の海を見ていた。 生きていく度に 辛くなる毎日。 どんどん冷たくなっていく海。 息が出来なくなる海。 でも そんな中にも 気になること 良いな
涙が止まらない日がある。 「私が全部、悪いの。本当にごめんなさい」 誰に何を謝って良いのかも分からない。 泣き疲れて寝てしまう時もある。 芝に寝転んでしまい救急車には運ばれた時。 過呼吸になってしまった時。 かかりつけ医に運ばれた時。 話を聞いてくれた。 今は もう 誰も 私の話は聞かなくなった。 周りには 楽しそうな電話の声。 画面に溢れる 楽しそうな返信の文字。 きっと 私の声は届かないのだろう。 期待しない。 いや。 発する事すら。 無駄。 もう。 止めよう
これからの生活に向けて準備を進め始めた。 再診察、各検査の予約。 仕事の進め方。 家庭のこと。 医療保険のこと。 生命保険のこと。 母の事。 唯一の楽しみは 弟の大会を観戦することが嬉しかった。 これからの彼の将来を期待しながら 私もできる限りのことをして 彼の雄姿を観戦しよう。 きっと しばらくは会うことはできないかもしれないけれど。 しっかり目に焼き付けておこう。 でも 私が悪い。 それが一番だ。 何が悪かったんだろう。 一生懸命、仕事も子育ても介護もして 誰よりも笑
目が覚めた時には、彼と同じ病院にいた。 何一つ変わらなかった。 いや、私も彼も変わらなかった。 療養してから職場復帰した。 良き妻でもなく 良い母でもなく 良い社会人でもなく 良い娘にもなれなかった、私。 生きている意味があるのか 分からない時もあった。 彼は少しずつ治療が効いている、と報告を受けた。 改善はしていても完治はしない。 前のようには戻らない。 待っているのは 退学届、役所への申請だけ。 帰宅して 家事へ向きおうとすると 涙が出てくる。 これからのことを
「彼を返して」 「私が全部悪い」 「どうして」 人前で初めて頭を叩いた。 涙も声も止まらなかった。 ずっと我満していた。 1月からの長期入院。 毎日、願った。 いつか治る。 いつか元気になる。 「これ以上の改善は見られないかもしれません」 主治医からの言葉だけが残った。 私は 病院の中で大声をあげて 始めて泣いた。 ずっと 良い母 良き妻 良き社会人 良い娘でいた。 いろんな方に 「いつもお世話になっています。 よろしくお願いします。」 いつも頭を下げていた。 私の
一時退院の土日。 髪を切り、お風呂に入ってから帰宅した。 「おかえり」 と彼に声をかける。 頷く彼の表情は少しだけ緩む。 固い表情なのは変わらない。 彼の日常生活を送るのは 鍵のかかった病室なのだから。 慣れる前に帰宅するのかもしれない。 それでも 一時帰宅が希望になって欲しかった。 そして 表情が少しだけ緩んだ時があった。 弟の入学式の姿、ユニフォーム姿、シュートが決まった試合動画を見た時。 喧嘩も多い兄弟だった。 彼の希望、嬉しさは弟なのかもしれない。 家族なのかも
4月。 胸躍る学生達とすれ違う度に涙が出る。 彼も病気に出会わなければ高校3年生。 真面目で一生懸命、勉強も部活にも一生懸命だっただろう。 なんで? この頃から 夕方になると涙が止まらなくなっていった。 二人きりの食卓になると 「私のせいで病気になってしまった」 「本当にごめんなさい」 「誰に謝って良いのか分からない」 「息ができない」 泣きながら夢を見る毎日になった。 誰かに助けて欲しかった。 でも誰にも言えなった。 夜中に起きて自分の頭を叩く。 朝には 晴れやかな顔
新しい年が明けた。
13回忌を前日に控え 登校日の前日。
入院する前日。 彼と二人きりになった。 自分の部屋で黙々と入院準備をする中 彼は泣いていた。 「自分も普通の高校生でいたかった」 「留年したくなかった」 「バスケットを続けたかった」 「みんなと同じように勉強したかった」 「大学にも行きたかった」 私は黙って彼の話を聞くことしかできなかった。 私のせいだ。 私が彼の人生を奪ってしまった。 声を殺して泣いた。 また 私は自分の頭を打ち付けることしかできなかった。 入院当日。 両親揃って診察室へ呼ばれた。 「入院したくない」
退院して2週間後、とりあえず通学することになった。 出席日数の問題があったからだ。 「せめて1年生の単位だけでも取らせてあげたい。」 「無理なら早退しよう」 学校との面談で決まった。 私は頷くだけだった。 話し合いの場に参加することすらなかったから。 退院後 投薬のせいか 手足の強張りが強くなっていった。 箸を持つことができなかった。 筋力の低下。 自分で起き上がることもできなくなっていた。 靴を履くことも 服を着るのもやっとのように見えた。 トイレ後を覗くと 汚れているこ
泥の海を渡る㉑を書き始める前に ご多忙の中、私の記事を読んで頂いている皆さんに 心から感謝申し上げます。 そしてnoteという記事を記事を書く機会に恵まれたこと 皆さんに読んで頂く機会を作って頂けた運営会社の皆様 本当にありがとうございます。 また こんなに私の記事を読んで頂いて フォローして頂いて スキの表示をして頂けたことを 嬉しく思います。 こんなに反響を頂けて 本当に恐縮しております。 読み返して見て 恥ずかしい内容であったり 稚拙な文章であったり なんとも言えない
投薬ノート、彼の状態を見て すぐに緊急入院となった。 PCR検査、尿検査、採血をしてそのまま入院手続きへ。 保護入院となるので 両親のサインが必要となる。 何枚かの書類に記名をし そのまま帰宅した。 やっぱり 私が母親でなければよかった。 心の底から後悔した。 妻であることも 社会人であることも 全て 失格。 涙が止まらなった。 その日から 毎晩、夢を見た。 泥の海の中に足を一歩ずつ踏み入れていく自分。 腰までの高さになると目が覚めた。 息苦しさと驚き、悲しみで涙が出る。
学校から帰宅した。 本人から連絡が来た。 良かった。 涙が出た。 こんな時、家で出迎えてあげれば良いのかもしれない。 でも仕事で叶わなかった。 私は彼が体調不良になってから 在宅勤務を増やしてもらった。 本当は介護、福祉の仕事で現場の皆さんと仕事がしたかった。 事務仕事は本当はあまり気持ちが進まなかったが 自分でできることをやる、 自分にしかできない仕事がある。 自分で納得させて過ごすようにした。 それに 良い妻 良い母親 良い社会人 になる。 私のような生き方をする職員