泥の海を渡る㉖

一時退院の土日。
髪を切り、お風呂に入ってから帰宅した。

「おかえり」
と彼に声をかける。
頷く彼の表情は少しだけ緩む。
固い表情なのは変わらない。
彼の日常生活を送るのは
鍵のかかった病室なのだから。
慣れる前に帰宅するのかもしれない。
それでも
一時帰宅が希望になって欲しかった。

そして
表情が少しだけ緩んだ時があった。
弟の入学式の姿、ユニフォーム姿、シュートが決まった試合動画を見た時。
喧嘩も多い兄弟だった。

彼の希望、嬉しさは弟なのかもしれない。
家族なのかもしれない。

病院から戻ってきた荷物を一緒に片づけた。
手足の強張り、表情の無さ。
私以外の家族と会うとチックが始まる。
話す言葉もますます少なくなっていった。

一人でゆっくりご飯を食べて
好きな物を食べて
好きなようにさせてあげよう。

2泊3日。
好きな食べ物を食べ過ぎて
お腹を壊して辛そうにしていた。
ただ
私のご飯を口いっぱいにしていた。
咀嚼はできない。
箸を持つ筋力も以前より弱い。
ただ
家族の傍でゆっくりと時間を過ごす。
これが一番、大事なのかもしれない。

彼の臨むように
好きなように
させてあげよう。

それだけだった。

病院に戻る日、
「またね」
「待ってるね」
と声をかける。

何度この言葉をかけたのだろう。
見送った瞬間
涙が出た。

この2年間
私は声を出さずに泣くことができるようになった。
涙をごまかす術を覚えた。

新薬投与が始まる。
いつか笑顔で過ごす日々が戻りますように。
彼が過ごすことのできなかった時間を取り戻す事ができますように。
祈るしかできない。

そして
夕方になると
頭を巡る思い。
「私が全部悪い」
泣いて
朝を迎える。

新薬治療が効いて
笑顔が戻りますように。

勉強したい。
大学に進学したい。
バスケがしたい。
彼の願いが叶いますように。

願うしかなかった。
でも
私の願いは届かなかった。

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加賀屋  寛子
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