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春のような温かさがいつもある学校に… 同じでもだいじょうぶだよ ちゃんと書いてあるからまねじゃないよ 〜心の宝物270

🌷何気ないひとこま

コロナ機の学校
秋の深まったある日、3年生の教室で道徳の授業が行われていました。特別の教科という位置づけで、考え議論することで、事例をわがこととしてとらえ、日常生活の中で実践する力を育てられるよう、道徳教育推進教師のリードで、全校で取り組んでいました。

順番に発言する場面でしたが、ある女子児童が、言葉に詰まってしまいました。直前に話した子と、ほぼ同じ内容をイメージしていたところ、先にその子に言われてしまいました。全く同じことを言うのは気が引けてしまい、かといって、とっさに言い換えることもならず、迷いやら、悲しさやら、悔しさやらで、頭の中が白くなってしまったようです。

他の児童もそれを察して辛抱強く待ちますが、待てば待つほど、その子の気持ちに重さも増していきます。
何ともならない、善意の膠着状態に陥ってしまいました。

🌷同じでもだいじょうぶだよ ちゃんと書いてあるからまねじゃないよ

「一度座ろうか」
担任の先生が声をかけて、その子を着席させます。

すかさず、前後左右の席の子たちが、その子に声をかけます。
「だいじょうぶだよ」「がんばろう」「書いてあることを言えばいいんだよ」
口々に励ましますが、固まってしまった彼女の心はなかなか解けないようです。

そんな中、隣の席の彼は、彼女が何に困り切っていたのかを敏感に察していたようでした。
「同じこと言ったって大丈夫だよ。僕もよく言うよ。○○さん、こんなにきれいにノートに書いてあるじゃない。誰もまねなんて思わないよ」

こういう声かけをしたことを後で聞きました。

彼女は自分から席を立ち、再度発言します。ゆっくりと、しかし、最後まで言い切り、仲間たちの「分かりました!」の大合唱を背に着席しました。

目の前に、困っている人がいる。
今回のように、それが近い関係の人であるとき、私たちは、その困り感に何となく気づいている。
今までの出来事や、その人について抱いている見方、つまり、自分なりに描いているその人らしさから、「きっと、ここでつまずいているんだろう」と、何となく推測している。
多くの場合、その推測は的を射ている。

しかし、残念ながら、気づくことと、それを真っ直ぐに見つめることとの間には、少しだけ距離がある。
例えば、「いじめ」といわれる行いを目にしたとき、その子の苦しみを自分の心に入れることに耐えられず、「見て見ないふり」をしてしまうことは、悲しいけれど、あることだ。

まして、そこに手を差し伸べる行動を起こすことには、とても大きな心の力が必要になる。きれいな言葉だけでは語り切れない、自分も泥にまみれたり、傷ついたりすることもいとわないほど、大きな勇気と覚悟が必要になる。

そう考えたとき、この一見何気ない声かけを支える、君の、優しさのアンテナの細やかさに目をみはる。勇気と覚悟の確かさにただただ敬意を抱く。
君の心の内の、優しさと強さの、鈍色の輝きに気づくことができる。
君が拓いた道を、多くの仲間が続くだろう。
そうして、誰かの苦しみに正対する勇気が、学校に吹く温かな風として、文化として定着するだろう。
ありがとう。

そんな思いでお伝えしました。

かけがえのないあなたへ
素敵なきらめきをありがとう
出会ってくれてありがとう
生まれてきてくれてありがとう
どうか、ありのままで
どうか、幸せで

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