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洗い場問答(落語掘り起こし)

【解題】
 けんちん汁は鎌倉の禅寺臨済宗建長寺が発祥といわれてます。
 「ほうとう」も、あのうどんみたいなお汁ですが、中国から伝来した料理みたいで、漢語のハクタクが転訛して「ほうとう」になったようです。
 

 知り合いに喧嘩の絶えない夫婦がいましてね。年中喧嘩してる。
 原因は他愛のないことです。
 だいたいが相手の態度。子供のこと。お金。顔が気に入らない。ね。こころあたりあるでしょう。
 生まれも育ちもちがう二人がずっと一緒にいるんですからね。好いたはれたといってるうちは、あばたもえくぼでしょうが、年を取ればあばたどころかシミも白髪も脂肪も加齢臭もふえて、減るのは毛髪と色気、若いうちのようにはいきません。
 年中喧嘩しててしまいには別れるんじゃないかな、と思っていてもなかなか別れない。でも喧嘩してる。
 なんかコツがあるんですか、って旦那さんに訊いてみたんです。仲直りのコツみたいなのはなんですかって訊いたらね、皿を洗うってんですね。鍋釜とか。
 普段はあまり家事はしないそうなんですが、喧嘩が始まったら台所にいく。包丁を押さえにいくわけじゃないですよ。奥さんから離れて台所にいって、とにかく流しにある皿をあらう。喧嘩しながら。鍋もあらう。ついでにシンクも消毒してステンレス磨きでぴかぴかにする。それだけのことだそうですが、洗い物しながら言い合いしてるうちに、お互いがなんだか落ち着いてくるっていうんですね。
 洗い物ってところがいいんでしょうね。

 嫌いな家事はなんですか、って訊くと、常連はトイレ掃除、お風呂掃除、それについで洗い物だそうです。
 だからね、世の中のご主人さん。
 トイレ掃除と風呂掃除、食器洗い鍋釜洗い。
 これに熟達することが夫婦円満の秘訣なんだろうとおもうんです。
 
 ものごとには正しいやり方がある。
 アメリカの映画で、父親が息子にひげの剃りかたを教えるシーンがあります。いいシーンでね。ひげのながれに逆らっちゃいけない。ひげの生えてる方向に剃っていくんだ、って。
 料理が好きな男のひとは多いんですが、洗い物は嫌い、ってほったらかしってのは困ります。
 やり方が大事。
 飲食の仕事をしているかたには常識でしょうが、食器の汚れは水汚れ油汚れです。
 皿も鍋釜も重ねちゃいけません。外側に汚れが付いたら洗う面積が倍になります。
 おおきな汚れは反故でぬぐい、基本はつけ置き、二槽あると簡単ですが、洗剤を溶いたぬるま湯のなかでスポンジで汚れをおとして、そのあとにまとめてすすいだらあっというまに終わるんですよね。一枚一枚洗剤をつけたスポンジでこすって、流水ですすいで、なんてやってるといつまでたっても終わりません。
 鍋釜も汚れているのは内側だけです。内側に洗剤水をはってスポンジでさらさらとこすったらあとは流水で流すだけです。
 えらそうに言ってますけど、こんなの奥さん方には当たり前のことなんでしょうがね。
 だけど男の人は手がおおきいですから、食器も鍋釜も扱いが容易だと思います。ご主人がた、頑張りましょう。
 
 試験管洗いってバイトが昔ありました。
 研究室で実験に使うフラスコや試験管をきれいにあらう仕事です。ちょこっとでも不純物や洗剤が試験管に残っていますと実験がうまくいきませんので、それこそ丁寧に丁寧に洗うんです。
 先輩にやり方を教わるんですが、そのときに
「アボガドロ数でしってるか」
「あれでしょ、1モルぶんの分子の数でしょ」
「6掛ける10の23乗だ」
「そうですか」
「洗うってのはそれを0に近づけることだ」
 この掛け合いが忘れられないんですよ。
 ゼロに近づけるってことはゼロにはならないんです。一見するとぴかぴかになった試験管にも不要の分子はついてるんですね。完全な0にはならない。すすぎのたんびに残っている分子の数は10の数乗のオーダで減少していきます。アボガドロを減らしてるんです。分子数が一定以下になれば実験には支障はなくなります。けど完全なゼロではない。
 完全に汚れのないお皿や試験管はこの現実世界にはない。
 完全な真空が宇宙にすらないように完全な清浄というのはないんです。我々のいまいる世界には。
 それはすでに宗教のはなしなんですな。

  六根清浄(ろっこんしょうじょう) 心塵脱落(しんじんだつらく)
 六根は眼、耳、鼻、舌、身、意。外界を認識し理解する器官、働きのことです。
 そこが塵芥にまみれていますと外界を正しく認識することがかないません。
 感覚意識である六根を清浄にして心についている塵のような妄念をなくすことで、悟りにちかづくということでしょう。

 とある禅寺のはなしです。
 おおきな修行寺でして多くの弟子を抱えています。全国から若い修行僧が集まってくる。
 俊秀ばかりの兄弟子たちのなかに、ひとりだけあんまり出来のよくない幼い僧がいました。
 お味噌扱いの末弟子にみなあれこれと世話をやいて教えてくれるんですが、どうも覚えがよくない。
 お経ひとつも満足に読めない。
 本人も禅堂で坐禅したり禅問答に励んだりがどうも好きではないらしく、典座(てんぞ。お寺の台所役です)のおじさんのところにいって料理の手伝いや山菜採りをしているほうが性に合うんですな。
 そのうちだんだんと修行僧というよりは下働きのように扱われるようになります。
 まあ、本人もそれをいたって苦にしない。
 ある日のこと庫裏の裏で洗い物をしておりますと、みなれぬ年老いた僧が近づいて参りました。
「せいがでてよいことじゃ」
「あ、おじいさん」
「ただ、黙って洗っておっては甲斐もなかろう。まじないを教えてやろう」
「おまじない」
「洗いながらこう称(とな)えなさい」
 老僧、器をとりまして
「六根清浄心塵脱落、六根清浄心塵脱落」
「どういう意味」
「意味はどうでもよい。称えるだけでよい」
「ろっこん・・・?おぼえられないよ」
 老僧考えましてな
「お汁好きか」
「好き」
「汁に大根がすこししかはいってない。大根少々」
「大根少々」
「にんじんは火が入りすぎてだるだるじゃ」
「にんじんだるだる」
「そうじゃ」
「大根少々、にんじんだるだる」
「よく称えよ」
 老僧、さっと消えていなくなった。

 以後というものはこの弟子、洗い物をしながら
「大根少々にんじんだるだる大根少々にんじんだるだる」
 称えつづけるようになりました。

 ある日のこと。
 遠く都より高名な禅僧がこの寺を訪れました。
 せっかくの機会ですので若い学僧たちも高僧の宿舎に参禅し問答をいどむのですが、なかなかお眼鏡にかなうものはおりません。つねに「いまだし」の声ばかりです。
 
 高僧もなかば落胆しつつ厠にたちます。
 厠に行く途中に洗い場があり、そこからなにやら称える声がします。
 「大根少々にんじんだるだる」
 称えながら傍らに大量の什器を積み上げまして、どんどん洗っている幼い僧がいます。
 高僧ゆるゆると近づきますと、やおら腹から大声(たいせい)を発し
 「そもさん!隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)、いかに!」と片手をつきだします。
 するとこの末の弟子、振り向きもせず、いま洗ったばかりの器になみなみと清水をとり高僧に差し出し「大根少々にんじんだるだる」
 高僧は呵々と笑いその場を立ち去ります。

 翌朝になり、客人の高僧はにわかに旅立つことになりました。
 貫首おおいに惜しみいましばらくの滞在を乞うたのですが、高僧曰く
 「旅の目的はなかば達せられました。猊下(げいか)、懐に鳳雛(ほうすう)を養うておられますな」
 貫首が意味を問うても笑って答えない。
 
 高僧は去って貫首のみが残されます。
 「かの高僧のいった意味はなんであろうか。懐の鳳雛(ほうすう)とはいったいなんだろうか。我が弟子のなかにそのような才をもった学僧がいたであろうか。鳳雛、鳳雛」
 貫首は考えながら洗い場の横をとおりかかりますと、あの末弟子の洗い物の声。
 「大根少々にんじんだるだる」
 貫首はっと面をあげまして、まじまじと末弟子をみます。
 「大根少々にんじんだるだる」
 貫首が首(こうべ)をめぐらしましてな、典座にむかって
 「今日はほうとうにしよう」
 
 

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